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「青春の幕引き そして新たな旅へ」TKda黒ぶち自叙伝『Live in a Dream~夢の中で生きる』第5回

TKda黒ぶち自叙伝『Live in a Dream~夢の中で生きる』

第1回 「笑わない子ども」
第2回 「邂逅と疎外」
第3回 「孤独な少年  居場所を見つける」
第4回 「RAPで知った  人に認められるということ」

・10代MC'S

目ばゆい光は、光だけではなく、影も落とす。
TKda黒ぶち / Photo:Shunichi Oda

「今度、3ON3のMCバトルをやるけど、TKも出ない?」

大学1年の時、DARTHREIDERさんから誘われた。大学入学後もダースさんが主催する渋谷ハチ公前サイファーに参加し、渋谷Familyの「蝕」にも顔を出していた。当時の自分は、10代の残された2年間で何かを成し遂げたい。自分らの世代で変化を起こしたい。そう考えていた。死が迫ると何かを残したいと考えるのと同じような感覚だったんだろうな、きっと。ソロのラッパーとして活動していた自分は、同世代のYellow Diamond Crewのバラガキと市川を拠点とするMYTのヒストリックで「10代MC’S」という即席のチームを組んで3ON3のバトルに出場することにした。

当時、10代だけが参加するイベントも頻繁に開かれていた。おそらく他の同世代のラッパーたちも自分と同じように10代の内に爪痕を残したいという気持ちがあったんだろう。その中で出会ったのが上野を拠点に活動するクルー「DOWN TOWN」のC-MONKEY。自分の1個下だったが、その行動力、そして本気度合いには圧倒された。いち早くディスクユニオンからアルバムをリリースしたかと思えば、クルー名と同じ「DOWN TOWN」というイベントを出会った時から主催していた。そのイベントには、下町の同世代の奴らが出演していた。自分は春日部だが、浅草までさほど遠くないこともあり参加していた。無骨だったが、興味のある人がいれば会いに行き話をするし、興味のある場所へ赴く。そんな男だ。

『STEP UP!!』C-MONKEY

親しくなったC-MONKEYからSTPAULERSを紹介され、その縁で彼らが主催していた池袋BEDの「STPAULERS NIGHT」にも出演が決まった。「STPAULERS NIGHT」は自分が好きだったアンダーグラウンドなラッパーがフラッと遊びにくるようなイベント。当時の日本のヒップホップシーンはまさに冬の時代。それでもMSCを始めとするハードコアなラッパーがシーンを支えていた。

STPAULERSとは後に一緒に楽曲を制作するようになるが、それは4年くらい経ってからのこと。出会ってすぐに意気投合したわけではなかった。彼らは、自分とは違いストリートでの葛藤をリリックに込めていた。それは不良ではなかった自分には計り知れない世界。彼らの曲を聴いているうちに、少しづつだが葛藤がわかるようになった。

『Journy』STPAULERS feat.TKda黒ぶち

・漢さんからの言葉

「STPAULERS NIGHT」に出演したある日、フラッと姿を現したのが漢さんだった。初めて生で目にした漢さんのオーラは凄まじくフロアに現れただけで、緊張感が走った。MSCのリリックで先入観があった自分はぶん殴られるんじゃないかと思ったくらい。当然、喋りかけることなんてできない。

翌年の2006年。UMBの横浜予選、地元横浜のプロップスがあるラッパーに大差で負けた。それこそ100対0とかそれくらいの大差だ。「客はサクラじゃねえか」とネガティブな感情が頭をよぎったけど、結局地元のプロップスやサクラも、普段そのラッパーが地元で培ってきたものがあるからこそ。会場のフロアで、やるせなさに打ちひしがれていると後ろから肩を叩かれた。振り返ると、そこには漢さんがいた。

「まあいろいろあるよ。腐らず続けていこうぜ」

そんなような慰めの言葉をかけてくれた。本当は、めちゃくちゃ優しい人なんだなって一瞬で理解できた。

・繋がったのはラップへの愛情

10代の横のつながりがどんどん広がると、そこに現れたのがZORN(当時はZONE THE DARKNESS)。千葉のBELTで開かれたMCバトルで優勝し名を挙げ、BELTでイベントを主催するようになった。後に田町にあったクラブに場所を移した「Renaissance」というイベントだ。そこに自分をはじめ、10代の奴らが集結。ZORNも10代MC’sに参加することになる。

「Renaissance」に主催者のZORNが現れないことがあった。その後、一時的にシーンから姿を消した。以前から、ストイックに音楽に取り組んでいたけど、再びシーンに姿を現したZORNはさらにエンジンがかかり人が変わったように本気になっていた。だからこそ今の地位があると思う。その時に出したアルバムが『心象スケッチ』。そのリリースパーティーのひとつをDOWN TOWNでも開催した。

C-MONKEY、YDC、MYT、ZORN、STPAULERS、YOUNG DRUNKERS、Local Babylon、MOOD MAKER、etc…そしてたまたま名前が挙がらなかったあの当時10代だったラッパー。自分のような普通の人間もいれば、ヤンチャしていた人間もいて、それぞれの生活があった。違う道を歩んでいただろう自分たちがつながった理由はラップへの愛情だった。

C-MONKEYとZORNと自分で遊ぶこともあった。MYTとC-MONKEYとはニューヨークのヒップホップが好きという共通点があったからレコードを買いにも行った。仲は良かったけど、決してベタベタした付き合いではない。音楽に対して各自のやり方やスタイルが確立されていた。スタイルウォーズではないけど、良い意味でみんながライバル。

『時計の針』TKda黒ぶち ft. CHICO CARLITO

・KSKBクルー誕生

KSKBクルー。ラップをはじめたアヤトや地元の仲間たち、さらにそのまた友だちなどが集い約20人で結成された。yukihILLや後輩のマッキー、小学校の2個上の先輩ラッパー、同じくシンガーで2個上の3人組のグループ、年齢が一回り上のラッパーの先輩などなど……。なかには相撲部屋から逃げてきた力士っていうあだ名の人までいた。

そのKSKBクルーでイベントを開くことになった。その頃、地元のクラブ、春日部INGの3階のフロアの家賃を3つのイベントの主催者で賄うことになったんだ。いざ、地元でのKSKBの初イベントは、MCバトルに決定。集客を考えるとこれ以上のイベントはないと結論が出た。渋谷ハチ公前サイファーの仲間たちも自分らでバトルを開催していたから、さまざまなノウハウを教えてもらい、エントリーを開始。当日は東京でバトルを荒らしているラッパーや茨城のラッパーなど40人もがエントリーしてくれた。

その中のひとりが崇勲だった。「第3の唇」と書かれたTシャツを着たクルーのひとりとしてバトルに参戦。それまでに1回だけINGで見かけたことはあったけど、バトルもしたこともきちんと話したこともなかった。

毎回がMCバトルだと食傷気味になるのは否めない。1ヵ月おきにライブとバトルを交互にするようにした。バトルには、ZORNやRAU DEFが参戦したこともあった。ライブにはPSGやLUNCH TIME SPEAXのGOCCIさんも出演してくれた。

THE罵倒2018-GRAND CHAMPIONSHIP-    TKda黒ぶち vs 崇勲

・親友、アヤトとの別れ

同世代の本気な奴らとの出会いがあった大学最初の2年間。でも、自分自身はバトルでは勝てず、良いリリックも書くことができなかった。大学に入ると、東口の自分らの世代のボスが地方から春日部へ戻ってきた。ボスの家が、みんなのたまり場となり朝まで酒盛りをすることもしばしば。そんな自堕落な生活を送っていたから当然といえば当然だ。自分自身はラップに対して本気だったが、現実を考えず、ひたすら楽しさと快楽を追求していた。
 
しかし、そんな生活を一変させる出来事が起こる。親友のアヤトが小笠原諸島へ行くと言い出したからだ。当時、アヤトは人生に迷っていた。出発当日、竹芝桟橋まで見送りに行った自分は、毎日のように一緒にいた親友のアヤトがいなくなることで、また孤独に飲み込まれ、子どもの頃に逆戻りするのではないかと恐れた。自分の中の青春の幕が下りたように感じた。結局アヤトは半年後に戻ってくるが、春日部ではなく、東京で生活をスタートさせた。

・世界を知ったアルゼンチン旅行

自問自答の毎日が、今の礎を作る
TKda黒ぶち/ Photo:Shunichi Oda

大学2年の終わりか、3年のはじめに初の海外旅行を経験した。母親のアルゼンチン出張についていく予定だったけど、母親の仕事がまさかの中止。せっかくだからと、残された航空券を手に自分ひとりでアルゼンチンへ向かった。帰りの経由地のダラス空港の喫煙所で、ドレッドヘアのジャマイカ系アメリカ人を見かけた。意を決して「自分はRAPやってるんだよ」と話しかけると、彼もラッパーだと判明。しかも「いまからオレのスタジオに遊びに来いよ」って。そんな初対面の海外の人を誘えるフランクさに驚いた。経由地だったが、アメリカという国を意識し始めるキッカケにもなった出来事だった。

アルゼンチンは、日本で培われた常識や概念がすべて覆されるような土地だった。日本なら田舎へ行っても大抵はアスファルトで舗装され、信号があり、水道水が飲めるけどアルゼンチンはそうではない。主道路以外は砂利道、噛まれたら1発アウトの野良犬だらけ、アジア人がほぼいない環境……。日本の反対側には知らない常識がたくさんあった。

しかも当時はマスタード強盗なるものが流行っていた。これはバッグにマスタードを突然かけられ、それを拭おうと降ろした瞬間に盗まれるというもの。実際に、自分もラ・プラタ川沿いの公園でマスタードをかけられた。このときはすぐに気が付き難を逃れた。

・HIPHOPに惹かれたワケ

そんな光景を目のあたりにし、自分が好きなニューヨーク出身のクールなラッパーたちが、本を読んで知識を蓄えろと事あるごとに発言していることも頭をよぎった。Talib KweliもMos Defも本屋で働いていたらしい。自分がHIPHOPにのめり込み、惚れた理由のひとつは知識を持って世の中を制し、賢く生きるという一面がある。そのサバイバルツールがHIPHOPであり、それを音楽で表現しているラッパーたちに憧れた。
 
もちろん、人生で起こりうる出来事をすべてリリックにできることや、ネガティブなことが起きたときのマインドの持ち方もHIPHOPから学んだ。NASがある曲のなかで「忍耐こそ力だ」とRAPしている。JAY-Zも「アフリカ系アメリカ人が成り上がるには音楽とバスケットボールしかない」ともRAPしている。日本で生まれ育った自分と、差別や貧困が蔓延るアフリカ系アメリカ人では環境が違いすぎる。でも差別されようが、打ちのめされようが努力して這い上がる。そういう姿勢も学んだ。

そんな自分のティーチャーはやはりHIPHOPが生まれたサウス・ブロンクス出身のラッパーKRS-ONE。大学の時、都内で開かれるイベントへ向かう電車の中で、自分はいつも『サイエンス・オブ・ラップ─ヒップホップ概論』を貪るように読んだ。それこそ隅から隅までボロボロになるまで。いくらバトルで勝とうが、不良ではなかった自分にとって東京のクラブイベントに立つことは怖かった。地元ではない土地でのライブも不安だったんだ。そんな自分を奮い立たせてくれたのがKRS-ONEの本だった。ラッパーとしてのパフォーマンスや振る舞いだけでなく、あり方までも学んだ。

『サイエンス・オブ・ラップ─ヒップホップ概論』(Amazonより引用)

・大学教授のレッスン

帰国した自分はすぐさまスーツケースを引きずりながら本屋へ足を運んだ。そこで出会ったのが『ヒップホップエボリューション』。そこから自分は時間があれば図書館へ通い、ひたすら読書に明け暮れた。でも、それまできちんと勉強してきたわけじゃないからわからないことも多い。

ある時、所属していたゼミの教授を尋ねた。部屋にはマイルス・デイビスの曲が流れている。自分がブラック・ミュージックが好きなことを知った白髪の教授は、それ以降公民権運動やマルコムX、キング牧師などアフリカ系アメリカ人の歴史を教えてくれた。またアメリカの良くない部分も教えてくれたんだ。それに対し、自分は憧れのニューヨーク、そしてヒップホップの観点からいつも疑問に思ったことを質問していた。

その教授と仲の良いアジアのエスニック論を専門とする教授からもいろんなことを学んだ。それで孫氏の『兵法』や孔子の『論語』も読むようになった。

アルゼンチンへ行った経験から中南米についても調べ始め、チェ・ゲバラやカストロを知った。当時、映画『チェ 29歳の革命/39歳 別れの手紙』が公開されていて、チェ・ゲバラがアルゼンチン出身というのもあり、余計にのめり込んだ。春日部のラボにチェ・ゲバラのポスターが貼ってあったのはそれが理由だ。

映画『アメリカン・ギャングスター』を見て、フランク・ルーカスを知る。彼らを調べるうちに、日本的な常識からすれば手段はめちゃくちゃだけど、誰もサポートしてくれない人たちを、悪事を働きながらもHOOD(編注:地元)に還元している側面を知った。大学生くらいになると思想に目覚める。自分もそんな気分だった。2人の教授の授業は必修でなくてもすべて出席した。段々と専門書も読めるようになった。20歳になった自分は知識を身に付けることに喜びを感じ、それをどうRAPに還元するかをひたすら考えていた。そう思わせてくれる人との出会いに恵まれているなと今も感謝している。

・サウス・ブロンクスへ行くしかない

ひとりで本に没頭する毎日を送っていた大学3年。KRS-ONEが出演していたDVD『Rhyme&Reason』を見た。その中で「サウス・ブロンクスを訪れたことがないやつは所詮ラッパー止まり、ヒップホッパーではない」という趣旨のことを言っている。自分は「ハッ?」ってなった。自分のティーチャーにそんなことを言われたら、HIPHOPが生まれたサウス・ブロンクスへ行かないわけにはいかない。これがNew Yorkを目指すキッカケとなり、アルバイトで稼いだ金を貯め始めた。

『Rhyme&Reason』Amazonより引用

就職活動が始まったが、就職課の奴らは、どの会社でも良いから就職させたいだけで、学生の将来のことなんて何も考えていない。そういう態度に嫌気がさした。たった1社だけ書類を送った会社の面接に遅刻をした。就職氷河期もあり、「就職なんてしない!。自分はニューヨークで音楽活動をし、革命を起こすんだ」というマインドだった。卒業が迫った大学4年。yukihILLと自分は『Day Break』というアルバムをつくった。自分は2年間で貯めた50万円を手に卒業式目前の2月、極寒のニューヨークへ飛んだ。

次回公開予定日 5月10日

取材・文:本多カツヒロ 編集協力:イトー 写真:小田駿一

謝辞

今回で5回目を迎えた自叙伝。有難いことにたくさんの方々から反響がありました。その一つひとつに目を通しています。素直に嬉しいです。次回は、GW期間中のため1週あけて5月10日(火)公開予定です。自分の音楽的な礎でもあるニューヨーク編です。お楽しみに!(投げ銭的なサポート機能を設置しています。応援してあげてもいいよという方はぜひご検討ください!)

4月26日 TKda黒ぶち こと 星 隆行

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