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「孤独な少年 居場所を見つける」TKda黒ぶち自叙伝『Live in a Dream~夢の中で生きる』第3回

TKda黒ぶち/ 春日部の東西を分ける境界線にて佇む。
この線路は数々の人生の岐路を作ってきた。
Photo : Shunichi Oda

1回目2回目

・波乱の高校生活の幕開け

「マージナル・マン」。心理学では子どもから大人への間、つまりは青年期を指す言葉。自分にとって、高校生活はまさにマージナル・マンだった。RAPと出会い、いまの自分の礎のひとつを作ってくれた時期。誰にとっても人生のターニングポイントはあるだろうが、自分にとってはまさに高校時代がそれに当たるんだ。

「高校生活も終わったな。マジでハードコアな場所に来ちゃった……」。高校の入学式前に行われたオリエンテーションでは、ヤンキーの新入生たちが乱闘を始めた。進学した高校の定員割れの情報を嗅ぎつけた周辺中学のヤンキーたちが大挙として集まっていたのだからそれも当然だ。その光景を目の当たりにした自分は、これから始まる高校生活が不安で仕方なかった。

高1のクラスメートの中にも乱闘騒ぎを起こしたヤンキーがいた。はじめの1ヵ月間は、そのヤンキーたちにケンカを売られたり、絡まれた。

「てめえ、俺のダチの星に何してんだよ」

そんな時、助けてくれたのが高校で知り合ったコジ。そいつらに詰めに行って、電話で自分に謝罪させたこともあった。その後、謝罪した彼とは仲良くなったけど。

そのヤンキーたちも3ヵ月くらいを過ぎると、退学になったりとどんどん減っていく。残ったヤンキーたちは、なぜか温かい心の持ち主ばかり。特に高1の時に、同じクラスになったケンジは珍しいタイプだった。

ヤンキーって仲間同士だけでつるむことが多いけど、ケンジはオタクだろうがなんだろうがクラスメイトのみんなでつるんで楽しくやろうぜってタイプ。いじめもない。学校以外でみんなで遊ぶことはなかったけど、教室内は平穏そのもの。すべてケンジのおかげだった。未だに飲みに行くし、彼の存在は自分にとってものすごく大きかった。

・DJになるはずがラッパーに

自分がHIPHOPが好きなことを知ったケンジが地元のHIPHOP好きなやつらを紹介してくれた。彼らは、春日部の小学校、東口のノリに似ていたから、すぐに意気投合したんだ。その中のひとりの実家が居酒屋を営んでいた。店が閉まった後、忍び込んでは酒を飲んだり、タバコも覚えていったのもこの頃。ケンジのおかげで、入学当初の地獄だと思った高校生活は光輝くものへと変わっていった。中学3年間が辛かったから余計にそう感じたのかもしれない。

飲みながら、または放課後に高校の近くの川沿いでお互いの夢をよく語り合った。いかにも青春の一コマ。キムジイは、お笑い芸人を目指し、マスケンは当時人気があったダンスやパフォーマンスを主体としたグループ・Leadに憧れ、第2のLeadを目指していた。現在、マスケンは夢を叶え、エンタメの世界で生活している。

「星はどんな夢があるんだよ?」

「HIPHOPが好きだから、DJやりたいんだよね」

そう答えたんだ。運動神経が悪く、人前でカラオケさえ歌えないシャイな性格の自分には端からダンスもRAPも無理だ。残されたのはDJとグラフィティ。もともとRIP SLYMEのDJ FUMIYAさんに憧れていたからDJを目指した

「うちの兄貴がRAPをやっていて、星くんのことを話したら会いたいって」

DJを目指しているという自分の夢を聞いたマスケンに誘われ、彼のお兄さんに会いに行ったんだ。あれは確か高1の夏の夜のこと。そこにはイカツイ風貌のお兄さんがいた。

「RAPやりたいんでしょ?弟から聞いているよ」

本当はDJをやりたかったけど、ビビった自分は「はい!」と即答。これが自分がRAPをはじめたキッカケってわけだ。

お兄さんとメアドを交換すると、メールで小節数や韻の踏み方を最初に教えてもらった。それができるようになると、リリックを送った。RAPの基本をみっちりと教えてもらったんだ。確か最初のインストはD.Lさんと椎名純平さんのシングルに入ってたインストだったな。

・大人の扉が開く

「今度、自分のライブを見に来いよ」とマスケンのお兄さんに誘われ、埼玉では有名な浦和にあったBASEへ行ったのがクラブデビュー。今も絡みがあるDJ RINDさん主催のパーティー「上昇気流」だった。
ここ浦和BASEで後にサイドマイクに付けてもらえるラッパーの壱さんや当時は珍しかった日本のHIPHOPをメインに選曲するDJ東さん、当時スーパーヒーローだった弗猫建物(当時の表記はドルネコマンションなどなど挙げたらキリがないが、数々のプレイヤーと出会う場所となった。

次に、お兄さんに連れて行ってもらったのが、池袋DO’Rで開催されていた「LIFE」。これは池袋DO’Rで代々引き継がれている老舗のイベントだ。そこで出会ったのが、春日部出身のネクストサミットというクルー。

クラブ通いを続ける中で、同郷の先輩たちと話していると、春日部にINGというクラブがあることを教えてもらった。地元にクラブがあることを知った自分は足繁く通うようになる。当時のINGは2階がバーで、3階がフロア。地元のクラブだけあって、渋谷や六本木にあるようなクラブとは違った。肩がぶつかるだけで喧嘩が起こるような怖い雰囲気はなく、誰でもウエルカムなアットホームな雰囲気。みんなでクラブを盛り上げようとしている一体感。家から徒歩圏内なのも最高。そこに居心地の良さを感じたのかもしれない。

そうやってマスケンのお兄さんやネクストサミットなどをはじめとしたいろんな大人たちと接していく中で、新しい世界が広がると同時にHIPHOPの世界も知っていくようになる。

・初ライブはグループだった

TKda黒ぶち/ ブランコと絡んでも絵になる男
Photo : Shunichi Oda

大人の世界を背伸びをしながら堪能していると、ケンジから「地元にRAPをしたいって言ってる友達がいる」というリョーヤを紹介された。東川口の公園での初対面、挨拶も早々に「こういうRAPがしたい」「自分はこう考えている」。朝までいろんな話をした。その日のうちに「じゃあ一緒にRAPやろうぜ」って話でまとまった。始発を待つ駅のホームで、「これがグループを組むということか。とうとうRAP人生が始まるのか」とワクワクしたのをいまでも覚えている。

グループを結成する前から、マスケンのお兄さんには「星くん、早くライブしちゃいなよ」とは言われていた。だけど、RAPを教わりながらもビビリな性格の自分はステージに立つことが怖かった。それにもともとRAPがやりたいわけでもなかったから。

リョーヤと2人での音楽活動が始まった。春日部や越谷までリョーヤがビッグスクーターで迎えにきてくれては、リョーヤの家へ行き、ターンテーブルでインストを聞いて、ああでもない、こうでもないと曲作りをはじめたんだ。お互いにこだわりが強く、頑固だから口喧嘩もしょっちゅう。でも、充実した日々だった。

リョーヤは児童劇団出身で子役の経験があるから人前で何かをすることにそんなに抵抗もない様子だった。でも、自分は違った。

シャイでビビりな自分はグループを組んだものの、ステージに上がることをためらっていたんだ。

そうこうくすぶっているうちに季節は12月になっていた。

当時、自分には好きな女の子がいた。クリスマスに遊ぶ約束までしていたけれど直前にフラレた。ショックだった。あの子を見返したい。もっと言えば復讐に近い感情が自分の気持ちに火をつけた

「自分、本気でRAPやるよ。ステージに上がるよ」

失恋で吹っ切れた自分はリョーヤにそう告げる。

当時、INGで第1土曜に開かれていた「ファンキーボックス」に頻繁に顔を出していたから、オーガナイザーさんに「ライブしたいです。3月に出してください」とお願いしたら、すんなりと出演が決定。年が明けた1月から、自分とリョーヤは本格的にリリックを書き始めた。

『FiREE』TKda黒ぶち/Video Directed by Ryoya Kobayashi

初ライブは事前に何度も練習を繰り返した。当日も公園橋で、ライブで披露するたった1曲を繰り返しては、「今日の夜だね。頑張ろう」と震えながら互いを励ましあったんだ。出番は深夜12時からの1部1番手。フロアを見回すと、マスケンのお兄さんや高校の友だち、クラブで知り合った先輩たちが観に来てくれていた。

自分たちの出番になり、ステージに上がる。足が震えるくらいの緊張。初ライブはSOUL SCREAMの『自由街道』のトラックを使った『感謝』という曲。ビビリでシャイだった自分の初めてのライブは無事に終わった。安堵しながら酒を飲み、先輩たちから「良かったよ」と声をかけてもらった。

すると、自分の中で何かがはじまる感覚を覚えた。
それは生まれてはじめて何かを手にしたという
言葉では言い表せない感覚だった。

・ソロのラッパーは成り行きで

次のライブがすぐに訪れたかというとそうではない。知り合った先輩たちを頼って、浦和や池袋のクラブでライブをすることはできたかもしれないが、ビビってしまった。そこで自分は考えた。もともとラッパー志望ではなかったし、リョーヤのDJでもやろうかなと。だけどそのことをリョーヤへ伝えると、「お前はRAPやりたいんじゃねーのかよ」とブチ切れられたんだ。

リョーヤの言葉にハッとした自分は2度目のライブに向けて、またリョーヤと曲を作り始める。2回目のライブは5月だった。1回目に比べれば、緊張もなかったし、それなりの手応えもあった。しかし、ライブ後リョーヤの様子がおかしい。2回目のライブを無事に終えた頃、リョーヤの心境に変化があった。当時、クラブのライブに出演するにはチケットのノルマがあったり、なかには怖い先輩もいた。日本のHIPHOPシーンは冬の時代を迎えつつあった。リョーヤの中でRAPという表現方法が状況とともにしっくり来ていなく、シンガーになると言い出したんだ。そのときにはすでに3回目のライブが決まっていた。こうして自分のソロ活動はなし崩し的に始まった。

・yukihILLとの再会

TKda黒ぶち/ 実は笑顔が似合う人情家
Photo : Shunichi Oda

この頃、春日部駅で自分のライブDJを務めるyukihILLと偶然会った。実家が数メートルの距離と近いにもかかわず、中学時代はほぼ話さなかったあのyukihILLだ。

「yukihILLくんは最近どんな音楽を聞いているの?」

「自分はDJをやりたくてターンテーブルを買ったんだよね」

「そうなんだ!実は俺RAP始めたんだよ!」

そんな会話をしたような気がする。中学のときより、お互いに社交的になっていたから、この時初めて会話という会話をした。

自分の家には、雷家族のアナログレコードがあった。中3の時、ターンテーブルはおろか、アナログレコードというものの存在を知らずに、上野のCISCOで予約して買ったやつだ。

「じゃあ、家でレコードを聴けるの?」

「聴けるよ。MDにも落とせるよ」

それを聞いた自分は、ホッチャンを誘い、初めてyukihILLの家へ行き、遊んだんだ。

「春日部にはINGっていうクラブがあるんだよ。今度ライブするから遊びにきてよ!」

その話をすると3回目、つまり自分の初のソロライブにyukihILLも遊びに来てくれた。初のソロライブでは、MUROさんの『Pan Rhythm』のトラックを使った曲。はじめてのソロでのライブ。だがステージに立つのは3回目だ。1回目に比べ緊張しなくなっていたし、多少の手応えを感じ始めた。その流れでyukihILLも「ファンキーボックス」でDJデビューすることになる。yukihILLは父親からブラックミュージックの英才教育を受けて育っただけあり、選曲が大人たちにも響くような渋さがあったんだ。結局、彼もそのイベントのレギュラーになった。

・フリースタイルの原点

春日部INGにはレギュラー出演していた先輩ラッパーがいた。ある時から先輩ラッパー、壱さんのサイドMCを務めることになった。ステージに上がる度に、場慣れしていく自分がいた。しかも、サイドMCやDJのサイドマイクを担当するとノルマがなくマイクを握れるのも大きかった。高校にはきちんと通っていたが、この頃の記憶はほとんどRAPに関することしかない。

フリースタイルを身につけたのもこの頃。サイドMCを担当していた先輩たちもライブ中にフリースタイルをしていたし、浦和BASEなどに出演していた弗猫建物(当時の表記はドルネコマンション)というHIPHOPクルーもライブ中に必ずフリースタイルがつきものだった。

興味があった自分はドルネコのJYさんが、春日部でソロライブをしにきた時に思い切って話しかけてみた。

「フリースタイルってどうやってやるんですか?」

すると、その場にあった物を指差しながら連想ゲームのようにどんどんと言葉を紡んでいく。しかも韻もきっちりと踏んでいる。それを聞いた自分はカッコいいなと心底思い、それから自分でも四六時中狂ったようにフリースタイルをはじめた。

次回公開予定日4月19日

取材・文:本多カツヒロ 編集協力:イトー 写真:小田駿一

■謝辞 第1回2回と回を重ねるごとに、嬉しい反響をいただいております。ありがとうございます!読んでくれた方の感想などはきちんと届いていますよ。またヒップホップ専門ラジオ局『WREP』で放送中の自分が担当している番組「Timelessチャンネル」(毎週月曜20時〜)内では、自叙伝にまつわることを語るコーナーも始まりました。そちらもあわせて楽しんでいただければ。

あらためて、読者の皆さんやWREPの関係者の方々に支えられていることに感謝しています。もし読んでいただき面白いと思ってもらえたなら、感想などを友だちに話しちゃってください。また、投げ銭的なサポート機能もあります。少しだけでもご支援頂けたら幸いです。第4回をお楽しみに!

4月12日 TKda黒ぶち こと 星 隆行



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