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「笑わない子ども」TKda黒ぶち自叙伝『Live in a Dream~夢の中で生きる』序文&第1回「笑わない子ども」

■お知らせ

本日、3月29日より8回の予定でラッパー、TKda黒ぶち自叙伝『Live in a Dream~夢の中で生きる』を当ページで公開いたします。

今回の自叙伝を機に楽曲やバトルだけでなく、彼の人柄や歩んできた道のり、目指していることが多くの人に届けば望外の喜びです。

編集責任者 本多カツヒロ


0.序文

毎週月曜、夜8時からラジオから自分の声が聞こえてくる。
ヒップホップ専門ラジオ局『WREP』から。

毎週火曜、夜中の1時半。テレビをつけると自分の姿が映っている。
『フリースタイルダンジョン』、そして『フリースタイルティーチャー』に。

数多のMCバトルで勝ってきた。
これまでにアルバム3枚、EP1枚も出した。

時には、テレビやラジオにゲストとして呼んでもらうこともあれば、俳優にもチャレンジしたこともある。たまに街で声をかけてもらえる。

こんな姿を幼い頃の自分が想像できたか?

TKda黒ぶち、職業・ラッパー。34歳。自分のことを見たことがある人にはお馴染みだが、名前の通り、黒ぶちの眼鏡がトレードマークのラッパーだ。

TKda黒ぶち / 幼少期を過ごした武里団地にて
Photo : Shunichi Oda

眼鏡をかけたラッパーは珍しい。そのトレードマークからは”真面目そう”や”普通”という印象を持つかもしれない。

そんな自分は、4人家族がデフォルトの街、埼玉県春日部で生まれ、母子家庭で育った。幼少期の自分は孤独と疎外感、劣等感にまみれていた。しかもシャイなのにプライドだけは高いなんて偏屈な性格だった。

当時の自分にしてみれば人前で何かをすること。しかもマイクを握り、ラップをするなんて考えもしなかった。


年齢を重ねるに連れ、さまざまな人とかかわりながら自分は変わっていった。何よりも大きかったのは、良き仲間とヒップホップに出会ったことだ。生きる術や目的は、すべてヒップホップというカルチャーが教えてくれたんだ。そんな自分は運がいいのかもしれない。だから、自分がどんな人に助けられ、劣等感や疎外感を乗り越え、ラップをするようになったのか。そして現在は何を考えているかをみんなに知ってほしい。

もしもこの声を失い、ラップができなくなったら、また会社員に戻るのかもしれない。でも今の自分にはこの声がある。このカルチャーが続く限り、自分がまたダークサイドに堕ちることはない。

1.「笑わない子ども」

TKda黒ぶち / 幼少期を過ごした武里団地にて
Photo : Shunichi Oda

多くの人は物心がついてからの出来事──幼稚園や小学校で何が起こり、何が得意で、どんな性格だったか──をまるで頭の中で動画が再生されているかのように詳しく語る。でも、自分の頭の中でそうした動画が再生されるのは小学校3〜4年生くらいからだ。生まれてから小学校低学年までの幼少期の記憶は、動画ではなく静止画。まるでポラロイド写真が断片的に頭の中にあるだけなんだ。その連なりからしか幼少期を思い返すことができない。

時計の針を1988年3月29日に戻す。今も居を構える埼玉県春日部市にある旧市立病院で、新潟県出身の母親と福島県出身の父親の間に「星 隆行」として自分は生まれた。すでにこの世には6歳年上の姉がいた。当時住んでいたのは武里団地という場所だったのだが、その団地は老朽化が激しく、夜泣きが隣近所に響くなどの苦情を受けたという。そのため、すぐに違うアパートへ引っ越すこととなった。

武里団地とは、開設当初「東洋一の団地」と言われたマンモス団地で、1963年に建設が、1966年に入居が始まった。団地が完成した当時は、話題になったらしいが、現在は高齢者や在日外国人が多く住む。日本の将来の姿を映し出しているとも言われている。

開設当初の武里団地
(出典 : 春日部市教育委員会文化財保護課・郷土資料館 ブログ

記憶、つまりポラロイド写真の1枚目は幼稚園の年中の頃に遡る。母親と父親が激しい喧嘩をしている。次の記憶は、父親が家のドアを出ていく姿。そしてその日の夕飯だ。父親が出ていった日の3人で囲んだ食卓だけは、強烈に頭の中に焼き付いている。夕飯は、母と姉と3人だけで食べた。

それまで父親を含め家族4人で食卓を囲んでいたというのに。
はじめて3人で囲んだ食卓の空気は重かった。
「これからは今までと違うんだ」

なんとなくそう感じ取ったのを朧気ながらに覚えている。でも、今思えば薄々ではあるけれども、幼いながらに父親が出ていったことが何を意味していたのかは理解していたのかもしれない。その悲しい現実を真正面から受け止められなかったんだ。今の自分も時々、悲しいことや苦しいことが起こると正面から受け止めきれずに、なんとなく誤魔化してやり過ごしてしまうことがある。そういう癖はきっと幼い頃から始まっていたんだろう。

父親の顔は今でも鮮明に覚えている。というよりも阪神タイガースやメジャーリーグで活躍した故・伊良部秀輝投手を見る度に父親が脳裏に浮かぶ。もはや伊良部が父親なんじゃないかと思うくらいだ。自分もメガネを外すと、若干だが伊良部に似ている。なんでも福島県出身の父親には奄美大島の血が流れているらしい。伊良部投手も沖縄出身だから似ていたのだろう。

父親は小学校3〜4年の頃までは、たまに顔を出しては、5000円ほどの小遣いをくれたり、ゲームソフトを買い与えてくれた。小学校低学年の自分にとってもちろんそれらは大金で、父親が現れるとラッキーだと思っていた。でも、そのことは決して母親や姉には言えなかった。何度か正義感の強い姉に父親に買い与えられたゲームソフトが見つかり、母親に告げ口をされ没収されたこともある。小学校高学年になると、父親が現れる頻度が少なくなり、最後は中学2年の時。それ以来一切目にしたことがない。

今、父親がどこに住んでいるか、どんな仕事をしているのかを知る由もない。血の繋がりがある実の父親ではあるけれども、もし再会したとしても敬語で話してしまうだろう。それくらい自分の中では限りなく他人に近い存在だ。母親の苦労を思い返すと、今の正直な気持ちとしては葬式に行くかもまだわからない心境だ。

1.1 幼稚園児がひとり旅行

父親が家を出てから、母と姉、自分の3人での生活が始まった。自分と姉を食べさせるために母親は必死に働いた。

離婚前から通っていた幼稚園からバスで自宅へ戻っても誰もいない毎日。

幼稚園児が通園用のバスに誰も迎えに来ず、ひとりで帰るなんて今なら許されないのかもしれないが、当時はそうしていた。数時間もすると、小学校から姉が帰ってくる。その間、自分はマンションの駐車場で近所の同年代や同じマンションの友達と遊んでいたのだろう。駐車場のすぐ横に住むおばちゃんが家に上げてくれて、お菓子を食べさせてくれたりと面倒をみてくれていたような記憶もある。なにせ自分の記憶は断片的なので鮮明に覚えていないんだ。

ただひとつだけよく覚えている。あれは確か幼稚園の年長の時のことだ。住んでいた春日部から大宮駅の新幹線乗り場に着くと母親に新幹線のチケットを渡され「新幹線の浦佐駅で降りなさい。ホームを降りたら改札でおじいちゃんが待っているから」と告げられた。幼稚園の年長にして一人旅を経験した。電車が好きだった自分は車中、ドキドキとワクワクが入り交じったような気分だった。今もふらっと一人旅に出る自分の礎はこの頃から始まっているのかもしれない。

新潟は中越に住んでいた母方の祖父は、優しさと厳しさを併せ持つ人だった。幼い自分の父親代わりになるという気持ちだったんだと今になっては理解できる。まだ自転車に乗れなかった自分を公園へ連れて行き、乗れるようになるまで朝から夕方まで練習させた。ご飯を食べていても「ご飯を残すな!」「食べ方が汚い!」などと叱られた。不器用な人だったから、優しさが結果的に厳しい接し方に変わっていたのかもしれない。でも、そんな祖父が大好きだった。

1.2 春日部という街

TKda黒ぶち/ 幼い頃によく通った駄菓子屋で
Photo : Shunichi Oda

入学した地元の小学校は、自分が住んでいた春日部駅の西側ではなく、東側にあった。小学校に入学した頃には、武里団地からは引っ越し、建物自体は古かったが、3LDKのいわゆる4人家族向けのファミリー用のマンションに住んでいた。後に知ったことだが、新潟の祖父母が家賃などを援助してくれていたという。生徒のほとんどが東側に住んでいたから、内谷陸橋という春日部駅を東から西へわたる陸橋をひとりで歩いて帰るのが常だった。そのなんとも寂しい感覚は未だに覚えている。

春日部と聞いて、多くの人は何を思い浮かべるのだろうか?

『クレヨンしんちゃん』の街というイメージが強いかもしれない。春日部は、自分の幼い頃も今も同アニメで描かれているような都心のベッドタウンだ。春日部駅は、東武スカイツリーラインや東京メトロ日比谷線、半蔵門線に乗り入れている東武伊勢崎線と、東武野田線の停車駅なので都心へ出るにも便利な場所であることが影響しているのだろう。自分が幼い頃、約30年前の春日部は、今よりも栄え、たくさんの人が行きかい、サティーやロビンソン、イトーヨーカドーとデパートが乱立していた。歴史を遡れば、江戸時代には日光道中の宿場町、粕壁宿として栄え、あの松尾芭蕉も宿泊したとも言われている。

昭和37年(1962年)春日部三枚橋付近での夏祭り
(出典 : 春日部市HPより

放課後は一人で公園に遊びに行ったり、当時は3つもあったデパートのおもちゃ売り場で遊んでいたことを覚えている程度だ。でも、小学校2年の時、休みの日に友だちの家に遊びに行くとお父さんとお母さんがいる4人家族が普通であることを知った。またテレビアニメやそれこそ『クレヨンしんちゃん』で見る家族団らんのシーンでも大抵が4人家族。そういう光景やシーンを見る度に、母親と姉、そして自分の3人だけの家族は周りとは違うんだなと徐々に感じ始めた。通っていた小学校に、母子家庭は俺1人だけだったから、自然と孤独と疎外感が芽生え始めた。

微かに動画が再生される小学校3、4年生の頃になると、その感覚は一層強くなる。友だちと話している中で、「星くんのお父さんってどんな人? 何している人なの?」。そんな他愛もない会話があったのを覚えている。そういった追求の手をかわすことには慣れていた。だがちょうど授業参観があり、家族の絵を描く課題が出た時だ。たまにしか会わない父親の顔が、そのときはなぜかハッキリと思い出せなかった。ぼんやりと家族4人で楽しく過ごしている架空の様子を描いた。本当は母子家庭だったが、クラスメイトにそのことを知られたくなかった。

1.3 春日部で母子家庭で育つとは

母親は、仕事はしていたが、当時は今以上に女性が子ども2人を養っていくだけの仕事をする土壌が社会にはなく苦労した。だからこそ夜遅くまで働いていたんだ。帰宅するのは夜の10時以降という日もザラだった。毎日、学校から帰ると食卓の上には500円玉が置かれている。母親が自宅に戻ってくるのは、夜の10時以降だったから、夕飯などは毎日その500円でやり繰りしていた。そのお陰で小3にしてお金をどうすれば貯められるかを学んだ。毎日400円で過ごすと1週間で700円が貯まる。その700円でMr.Childrenの『Tomorrow never knows』のCDを買い聴き込んだこともあった。近所の駄菓子屋には、冬になるとおでんが並んでいた。300円もあればお腹が膨れた。あとはポテトチップスなんかで空腹を紛らわしていた。そんな毎日だったが思い出深い食事もあった。仕事帰りの母を迎えに行き、セブン-イレブンで買って食べる牛丼の味は格別で、今も忘れられない。

『Tomorrow never knows』/Mr.Children

まだまだ珍しかった母子家庭、そしてまだ小学生のわが子2人を抱えた母親は相当なストレスを抱え込んでいた。虫の居所が悪い日には、その矛先が自分に向かうこともあった。

姉もそんな生活にストレスを抱えていたのだろう。当時はよく喧嘩をした。年齢が5歳も離れている上に陸上部のエースだったので小学校低学年の自分では歯が立たない。そんな生活に嫌気が差し、2ヵ月に1度くらいのペースで家を出る。行くあてがないので、近所の公園で一晩を明かしたこともあった。

家にも学校にも居場所もなく、孤独や疎外感を味わった自分
小学校3年生にして荒れ始める。

調子良いタイプの自分には表面上の友だちがたくさんできた。やんちゃな奴らとも、仲良くなった。

その仲間たちと公園へ遊びに行くと、そこには変質者がいた。ベッドタウンである春日部に多くいる子どもを狙っていたんだ。自分らをトイレへ連れ込んだ変質者は、局部を見せる。それで満足すると、コンビニへ連れて行き好きなものを買い与えた。

最初は、当たり前だがものすごく怖かった。そこで自分らは考えた。その変質者に先にコンビニで好きなものを買ってもらってから、トイレへ向かうように仕向ければよいのではないかと。変質者は、その要望を聞き入れコンビニで好きなものを買ってくれた。が、その後自分らはトイレへ行かず「用事がある」と言って必死に逃げたこともあった。悪知恵だけは働いた。あの変質者が奢ってくれたラーメン屋はまだ春日部にあるんだが、今も変わらずに美味しい。

自由気ままに過ごしていた自分だったが、まわりの家庭に比べるとお金はなかった。そこで自分は、今では悪いことだというのは十二分にわかっているが、母親の財布から金を盗みはじめる。当初は少額だったが、日を追うごとに金額は大きくなった。駄菓子屋へ友だちを引き連れ、全員に奢るくらいだったのが、友だちを引き連れて大宮駅から東京駅へ新幹線で行くまでになった。そして東京駅構内のおもちゃ屋でスターウォーズのフィギアを買い漁ったりなどもしていた。その時は母親の財布から2万円を抜いていた。でも、友だちの一人が自分の真似をしたせいで小学校で大問題となり、2時間ほど嘔吐するほど説教をされたんだ。

ガキだったから、それがどれほどいけないことかわかっていなかった。ただひとつだけ学んだこともある。自分が金を持っていると友だちが寄ってくるが、持っていなければ離れていく。小学生は素直で現金だ。そのときに人間の欲望を学んだ。

振り返れば、やりようのない疎外感や孤独を紛らわすために、友だちを金で買っていたんだ。小学校3年の自分はそれらを誰かに相談することなんてできなかったし、その術すら知らなかった。

1.4 はじめて信用できた大人たち

TKda黒ぶち / 幼い頃によく通った駄菓子屋で
Photo : Shunichi Oda

 「当時の星くんは一切笑わなかったけど、今はよく笑うよね」

友だちのイッペイちゃんが語る

そう大人になってから、中学以外は小学校から大学、就職先まで一緒だった友だちのイッペイちゃんから聞かされた。

問題児だった自分に転機が訪れたのは、小学校5年の時だ。5年生の初日、新たなクラスに足を踏み入れると、そこには問題児ばかりが集められていた。担任は、学校では有名なちょっとヤンチャだけど、子どもの心をひきつける評判の良い先生だった。

その先生は、今では大問題になるかもしれないが、教室内で喫煙したり、授業中に話しているとトイレットペーパーを投げつけてきた。かと思えば、マイケル・ジャクソンとNBAの大ファンで、「スリラー」のMVやバスケの試合を見せてくれた。皆でスリラーのダンスを踊ったこともあれば、マイケル・ジャクソンの魅力や『USA FOR AFRICA-We Are The World』について映像を見せられ力説されたことも覚えている。それに自分が母子家庭であることを知っていたから、授業ではそういう話題に絶対に触れなかった。

だから、自分は生まれて初めて大人を信用するようになっていく。

『We Are The World』/U.S.A. for Africa

小学校5年から自分は野球チームに入った。監督は、練習中は厳しかったけど、家庭の事情を理解してくれた。チームメイトのお母さんたちも、少年野球であるお茶当番を自分の母親が仕事でできないことはわかっていたから、代わりに当番を引き受けてくれたこともあった。

腐れ縁の友だちであるイッペイちゃんのお父さんも少年野球のコーチを務めていて、日曜日の野球の練習後、自宅に招いてくれて夕飯をご馳走になることもしばしば。イッペイちゃんのお母さんも平日も夜まで家で遊ばせて面倒を見てくれたり、パート先のカレー屋さんへイッペイちゃんと遊びに行くと、カレーをご馳走してくれたこともあった。今となってはそのカレー屋に自分のサイン入りのポスターが貼ってあると考えると感慨深かったりもする。

担任、少年野球の監督、イッペイちゃんのご両親とそれまで大人を信じられなかった自分は徐々に変わっていった。あの方々との出会いがなければ、どんな道へ進んでいたのかと今になっては考えることがある。

 母親の財布から金をせしめたり、デパートからミニ四駆のパーツを盗みフルカスタムすることもなくなっていった。問題児ばかりのクラスでは自分も含めた4人の悪ガキ集団ができた。いつもその4人でつるんでいたが、いたずらをする程度に落ち着いていた。小学校の近所にある女子校の生徒へ向かって、自転車に乗りながら「ブス、バカ」と叫んだりだ。でも、小学校5、6年の2年間、4人組が常に仲良しだったわけでは決してなかった。

たとえば、自分が4人の中のひとりの陰口を叩く。すると、自分対3人で自分はいじめられる。それが自分が3人の側に回ることもあれば、2対2になることもある。そんな時は、靴の中に画鋲を仕込まれたり、靴を捨てられたこともあった。だから、自分はいじめる側もいじめられる側も両方の立場を経験することで、どちらの心境もわかるようになった。

小学校5年にもなると母親の仕事に変化が訪れた。母親は小学生の自分に「金と女が人生を狂わせる」と言い放つような豪快な人だった。転職する際に、ある会社の面接でシングルマザーであることを告げると、「そんな事情は知らねえよ。こっちには関係ないんだよ」と言われたという。そこで母親は実力をつけて成り上がろうと決心したらしい。その後、当時都心にあった会社に転職すると猛烈に働いた。それこそ毎日夜の11時や12時に帰宅するのが常だった。母親はシングルマザーでも「子ども2人を必ず大学まで行かせる」。そうこの頃決心したと、後に知った。

当時、帰りの遅い母親を迎えに、春日部駅から東武伊勢崎線に乗って都心へ行っていた。仕事が終わるまで、小学校5年の自分は都心の街をひとりで歩いて時間を潰し、母親の仕事が終わるのを待ちわびた。

毎夜、遅くまで働く母親のお陰で収入は安定し始めた。すると、母親の精神も、自分の精神も安定し始め、家庭内は平穏になった。

『Do For Love ft.ZERO』TKda黒ぶち

次回公開予定日は4月5日です。お楽しみに!

取材・文:本多カツヒロ 編集協力:イトー 写真:小田駿一

■謝辞

今回のプロジェクトは、ライターの本多カツヒロがプロジェクトとして立ち上げ、こうして連載として形になりました。本多さん、心からありがとう。

そして、編集担当者のイトーさん、フォトグラファーの小田さんも協力してくれてありがとう!みんなとの出会い無しには、成立しないプロジェクトでした。

そして、最後にいつも支えてくれるファンの皆様、関係者の皆様。幼少期からそうでしたが、皆さんの助けなしに今の自分はいなかったと思っています。この場を借りて、皆さんに御礼申し上げます。

2022年3月29日 TKda黒ぶち こと 星 隆行

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