noteを書く理由

 一年半余り前に書いた記事。

 最近、noteはやめて日記にしようかと思ふことがよくあります。

 書いて人目に触れるとヤバいことばかり頭に浮かぶので、いつも、だいぶ内容を変へてしまふ。初めに思ったことと全然違ってゐることも多い。

 それなのに、今日も、なんでnoteを書くんだらうと考へると、前にも書いたが、やはり自己承認を求めてだと思ひます。「こんなことを考へてます」と書いて、人からなにか反応が欲しいわけです。できたら、「やー、すごい」とか「同じです、賛成」とか言って欲しい。
 人からの反応を求めてないなら、日記でいいはずです。
 (こっそり密かに書く日記にしても、書く人間は、自覚してゐないとしても、いつか誰かに読んでほしくて書いてゐると思ひますが)

 わたしは承認が欲しい。
 承認欲求ではたいていの人には負けない自信があります。
 
 といふのも、振り返ると子供の時からみんなから浮いてゐた。
 みんなに共感できない、みんなに同調できない、孤立してしまふことが多かった。

 今はHSPとかASDとかで、「私はみんなから浮いてゐた」といふ人ばかりで、なんか浮遊する麻原彰晃尊師みたいな人が多いけど、さういふ浮き方ではなくて、もっと人としてダメな浮き方をしてきたと思ひます。

 たとへば、わたしは、いぢめに関しては、まあ、いけないと思ふし、自分もいぢめる立場ではなく、いぢめを受るはうだったので、なければそれにこしたことはないと思ひます。

 でも、人間は、或る程度は、いぢめたりいぢめたりするもんだ、と思ってゐます。
 とれくらゐが「或る程度」なのかは、難しい問題ですが。

 そんなふうに「程度の問題」にできるのは、わたしが受けたいぢめが大したものではなかった証拠だと思ひます。

 いぢめは人のサガですから、放っておけば、その内容はすさまじいものになるはずです。

 わたしが子供の時に戦争体験を聞いたおじいさんたちは、それぞれ、新兵時代に古参兵から受けたいぢめについても話してくれました。
 たとへば、
 バケツで雑巾を絞り、そのバケツの水を無理やり飲まされるといふ毎日を送ってゐるうちに、それをさせられてゐる仲間の新兵の一人が発狂してしまひ、ひ、バケツの水をがぶがぶ飲むようになった、・・・。当然、その人は病気になって死んださうです。
 他にもありますが、書くとヤバいのでやめときます。

 人はあれやこれやのいぢめをします。そして、いぢめられる人がゐます。

 思ひ出すと小中学校時代にもいぢめはいろいろとありました。
 中学はワルグループがゐて、そのグループのボスは、気弱な男子に女子たちの前で自慰させたりしてゐました。まあ、他にも性的ないぢめをいろいろとやってましたが、これもヤバいので書けません。

 こんなのは防いでほしいが、それにしても、完全に防ぐことはできないだらう、といふのがわたしの考へです。

 もちろん、これからは科学技術を使ふことで、完全防止は可能です。
 人の生活のすべてに監視カメラを入れること。

 もちろん、家庭にもです。
 いや、家庭にこそ、です。
 女性などは、幼少期から思春期にかけて、性的な被害を家庭で受けた人が少なくないと思ひます。家庭といふ密室で、人が見てゐないことにいいことに、やりたい放題、好き勝手にするのが親といふものです。
 家庭こそが、人間性の悪がもっとも伸び伸びと羽を伸ばして自由に飛び回る時空だと思ひます。

 だから、noteにも毒親の話がいっぱい。
 毒親って、最近の現象ではないと思ひます。
 親といふものには、誰であれ、毒性があるといふことだと思ひます。

 最近のニュース、ビッグモーターとかジャニーズ問題とか、わたしはああいふ典型的な悪が刈り取られていく世の中がいいのかわるいのか、よくわかりません。

 悪が露呈すると、成敗される。
 これはいいとして、これからの社会は、
「絶対に二度と同じことがないやうに」徹底的に改革や対策が行はれます

 例へば、階段の踊り場から子供が落ちる、側溝に子供が落ちる、回転ドアに子供が挟まれる、さういうことが起きると、二度と無いように改革されたり、回転ドアのやうに廃止されたりします。

 これは明らかに、改善、進歩なのでせう。
 けれども、今の社会の問題は、科学技術による都市化の問題と連動してゐて、
改善と進歩に、留まるところがない
といふことです。

 改善と進歩に大賛成するわたしたちは、いったい、何を求めてゐるのかといふと、
安全と安心を求めてゐる
と思ひます。
 
 わたしの貧乏の基準は、運悪く、昭和の半ばまでに若い日を送ってしまった両親から聞いた生活なので、それを基準にすると、今の日本には、貧乏な人は一人もゐないと感じます。←こんなこと、たとへば政治家が言ったりしたら、マスコミやSNSからボコボコにされるでせうね。

 貧乏が無くなると、後は、求めるものが形而上的になる
 つまり、安心を求める。
 
 安心といっても雲をつかむやうな話なので、具体的には、社会を安全なものにするしかない。
 だから、わたしたちは、安全な社会になって欲しいと切に願ふやうになります。

 安心を脅かすもの、それを突き詰めていけば、犯人は誰か?
 それは、わたしたちの人間性です。

 ビックモーターとかジャニーズとか、自分のことではなく、誰かワルイ奴らの話だと思って憤ったり軽蔑したりしてゐる人が多いやうですが、わたしは自分を振り返ると、ああした悪には、全部、自分の中に思ひ当たることがあります。
 ただ、わたしが自分の悪を表に出せなかったのは、機会や能力が無かったからにすぎません。

 あなたはどうですか?
 もし、あなたが、ひそかに小説など書いてゐるやうな人だとしたら、わたしが言ってゐる意味がわかると思ひます。

 三島由紀夫氏は若い頃に作家が集って対談した時に、「人を殺すかはりに小説を書いてるんだ。これは比喩ぢゃない」と言ってゐました。後年、本人もこの発言は若気の至りだったと反省してゐたやうですが、その時も、言ったことはほんたうだと書いてゐます。

 わたしは、こんな人間なんで、noteに、今の人や社会から承認を得られることを書くのは難しいかなと思ってゐます。

 でも、承認は欲しいです。
 ものすごく欲しくて死にそうです。

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