真っ暗な食堂と、通信簿メンタル|ブータン編-3
ブータン王国編(2019年冬)-3
海外旅エッセイ•ブータン編の続きです。
下書きのままだったエピソードをアップしてます。泊まっていたホテルでの或る朝の話。
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ブータン旅でのある早朝。朝食の約束の時間にホテルの食堂に集まると、食堂の灯りが点いておらず、キッチンではただ1人の男性スタッフが前日の残った洗い物をしていて朝食は全く用意できていない、3星ホテルと謳っているからにはまずいよね。という出来事が起こった。
その後、30分程して他のスタッフ達が到着して急いで作り出し、なんとか出来たての朝食を出してくれた。
個人的にはアジアってそういう所あるよね、そのゆるさも面白くて魅力的。だとは感じる。後日、チベットでも食堂の人達が朝になって全員が起きてこないということが起こった。全員て。まあ、やれ経済成長が生産性に対する教育がどうといったものを抜かせば、人間は元来そういう所があるものなのだろう。
しかーし今回は、お客様は神様です文化の国から来た日本人ツアーの参加メンバーとして来ている。皆さん、集合時間等にもめっちゃしっかりされているんだこれが。
旅行会社を通している日本人ツアーからすると、そりゃないっす…となり、一部の人は激怒、ある人は「食事のことより皆さんのご機嫌の方が心配です…。」と云い、現地ガイドのブータン人のTさんはこれはヤバイ…となり「明日の食事はホテル以外にしますね!」と機転を効かせてくれ…。
まあ日本の沖縄や離島でいうところの島時間ならぬ、ブータン時間というやつなんだな。という出来事だった。
ひとり旅では起きなかったり、そこまで気にしないかもしれないことがグループ旅行ではあるのだなと、ブータンのサービス業における素朴な部分と、いわゆる日本人グループ客の真面目で厳しいカスタマー視線のギャップなるものが浮かび上がることになった。
この件で他のメンバーとあれこれ話しているうちに、日本人は「何かが起きたときに反省して次に活かそうとするという意識」が根づいていて、相手にも自然とそれを求める傾向が強いのかもね、という話になった。
この件をきっかけに日本人の思考法について考えてみた。
日本の多くの教育は独自の視点やシュタイナー等の要素を取り入れている場合を除き、全員がテストで100点や通信簿で5を取ることができないシステムになっている。100点やオール5が楽に取れないことが前提、基本的にいつも全てのテストを100点でいることなど無理なことが当たり前で、
それはある種の「欠けていることが前提」という刷り込み、とみることもできる。自分にとっての×が何だったのか、100点ではない理由は何なのかを識別し次こそは…という内容が多い。自然と、0点の自分でも良いと思える肯定感をもつことは難しくなり、潜在的に自罰的で罪悪感を抱えるようになるケースがあるのではないだろうか。
それらは経済等の発展には必要だったかもしれないけれど、幸せな人生を生きるという点では障壁になる可能性もあり、大人になっても苦しんでいる人も多いように思う。大人になってから一つ一つその固い檻のような囚われを徐々に外していく機会が人によっては必要で、何しろ私自身がそのタイプなのだ。
そういった思考体系を育てていった結果、日本のいわゆる勤勉で真面目なサービス業の意識なりが出来上がっていく土壌になっていったのかもね、という話をあれこれ他のメンバーと話していた。
幸せを優先するよりも、例え我慢して一時は苦しくても、それでも何かを見出し改善しながら頑張ってみるという、欲しがりません勝つまでは精神が、普段はあまり意識されなくとも私たち昭和の世代までは結構あるんじゃないかと思う。
しかし時代は「で、結局は何に勝つの?」「何かに勝つためや利益・生産性のために幸せや自然環境といった、本来は犠牲にしてはいけない大切なものを後回しにしてきたんじゃないの?」という流れになり、心の豊かさなり精神的な基盤に意識を向ける人も徐々に増えてきているように感じる。
ツアーの最後になると、旅行会社へのアンケート用紙に今回の食事の件についてちゃんと書こうという話が出たり、5段階評価のアンケートでは「ガイドのTさんに5をあげるわけにはいかないよね。」という話が出たりもしていて、それは30〜70代の昭和世代ならではの会話だったかもしれない。
相手にも自分自身に対しても『まあまあ良くやってるけど、でも最高点をあげるわけにはいかないよね。あなたは完璧じゃない。』と、自然とジャッジしていく習慣が作られているんだなー。私も自分自身に対してやってるかもな…と、色々考えさせられた。
自分や人のことをあるがまま観るという本来はシンプルなことのはずが、時に大人になるととても難しく感じられる時がある。
ふと、スコットランドのフィンドホーンで出会ったある敬愛する女性が話していた『人間同士だけがジャッジし合っている。花や植物に対しては、あなたはどうしてそんな外見や色をしているのかとは問わないのに。』というメッセージが思い出されてくる。
お互い自由に朗らかに生きていられたら、それでよいのだと思うのだけど…そう想いを馳せながら、あの朝の朝食の味を思い出そうとしてみると。
真っ暗な食堂と明るくなった食堂のそれぞれの灯りと、慌てて朝食を作り出してくれたスタッフの姿や、何ともいえない食堂内の空気の方が鮮明に浮かび上がってくるのだった。
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