就活生は映画「何者」を観ない方がいい~私たちは「何者」呪縛からいつ卒業できるのか。
あなたはいったい何者ですか?
私は天豆 てんまめです。
あなたはいったい何者ですか?
私は映画&KPOPライター、エッセイストの天豆 てんまめです。
本当にそれがあなたの「何者」を表していますか?
それはどうだろうか……
あなたはいったい何者ですか?
この問いにあなたは何と答えるだろう。
作家です。コピーライターです。教師です。俳優です。WEBディレクターです。主婦です。学生です。漁師です。私はこれこれこういう何者です。
それは本当にあなたの本質を表したものなのだろうか?
この枕詞のように自分を称する「何者」呪縛から、いったい私たちは逃れることができるのだろうか。
私はその出口をまだ見出すことができない。
長男が大学3年になり、就職活動、いわゆる就活を始めると言う。
そんな早く始める必要あるのか?
と思いながら、私は一つの映画を思い出していた。
映画「何者」
恐ろしい映画だ。
私はこの映画を長男には決して薦めない。
面接前にでも見たら、不必要に自意識が暴れ出してしまうから。
「何者」映画レビュー
就活生は映画「何者」を観ない方がいい~私たちは「何者」呪縛からいつ卒業できるのか。
この映画のトーンは、どんよりと曇った空のようだ。
実は予告編ではエモさとポップさと疾走感に満ちていた。
米津玄師の主題歌にのった予告編の畳みかけるようなテンポ感を期待して実際本編を見ると、映画のトーンは逆だということがわかる。
この作品の監督が「モテキ」の大根監督であれば予告編のスピード感のままガンガン巻き込んでいったのだろう。
しかし、監督は演劇界の鬼才、曲者の三浦大輔監督だ。
彼がこの映画をそんなポップに仕上げるわけはない。
実際、物語のテンポがスローで、最初はその物足りなさを感じていた。
しかし観終わって時間が経ってみると
小説文庫本の解説もしていた三浦大輔監督がほぼ原作を踏襲しながらも、演劇のモチーフを原作以上に持ち込んで、役者の生の演技を信じ切ってじっくりと演出したこの方法論は
テーマの重さをしっかり携えて鈍器のように観客に打ち付けるには良かったと思えた。
原作*朝井リヨウ×脚本・監督*三浦大輔。
一見、爽やか×ジメジメという印象を私は勝手にもっていたが、根っこは非常に似ているのだと思った。
だからこそ原作を大きく改変できないほど、監督は深いところで原作の強さを信頼していたのではないだろうか。
就職活動で自分たちの何者性が暴かれていく大学生たち。
彼らを演じた俳優陣も素晴らしかった。
佐藤健。彼の映画人生で一番かっこ悪く平凡に見えるのが良い。
有村架純。作品の良心的な立ち位置だが、彼女の眼の芝居がいい。
二階堂ふみ。クライマックス。圧巻の一言。
菅田将暉。天衣無縫な魅力が突き抜け素晴らしい。歌もいい。
岡田将生。絶妙なスパイス役でうまい。周囲にいるよね。きっと。
山田孝之。大学時代はこういう先輩、頼りになるんだよね。説得力あり。
三浦大輔の劇団ポツドールの芝居はだいぶ昔に3作ほど観にいったことがある。
「愛の渦」「恋の渦」「顔」。知人が出演していたこともあり続けて見て、よくここまで人を露悪的に追い詰めることができるなと心底恐ろしさを感じたものだった。
そういう面ではこの「何者」はやや露悪性は潜めているものの、人を追い詰める濃度は変わってはいない。
もはや後半は、観ている私自身の自意識が哀しくも暴かれていくようなマゾヒスティックな感覚に陥っていくが、きっと私だけではないのだろう。
私はいったい何者なのだろう。
この 自意識という名の 悪夢
私は20代前半、就活が終わってもこの問いから抜け出せなかった。
以前「バタフライ・エフェクト」のシネマエッセイで唯一内定をとった沖縄での研修旅行から脱走したことに触れたが、基本的に就活にいい思い出はない。
現在、就活をしている大学生はいつか年齢を経て
外からの「何者」社会呪縛と
内からの「何者」自意識呪縛から放たれることを願ってますか?
自分がどこかで終止符を打たないとそれは永遠に続くもの。
諦めるの?
降りるの?
目を逸らすの?
叫ぶの?
走るの?
泣くの?
闘うの?
逃げるの?
それとも、、?
どれも根本的な解決にはならない。
もう逃げきれないことを認めた上でそれらとどうにか付き合っていくしかない。
そして私は今日もヨガをする🧘♂️
鬱陶しい自意識からひと時でも離れるために。
映画「何者」について書く行為。
正直に言えばこの瞬間もまた映画を観た時と
同様に自分を刺し続けている。
こうしていわば「天豆 てんまめ」というペンネームでシネマエッセイを書いている私。
この作品で「何者」呪縛に囚われた彼らとの違いは何か。
それとも何も違わないのか。
自分なりにイケてる着眼点の自己顕示欲?
リアルで満たされない自意識の満足?
映画を神の視点で裁ける安全地帯の全能感?
ペルソナを被って初めて本音を吐露できる隠れ場?
「何者」でないことから目を逸らす逃避先?
そうかもしれない。
それだけではないかもしれない。
映画やKPOPへの熱い愛はもちろんある。
切実な人生に対する想いもある。
正直、匿名だからこそ作品ごとに踏み込んだ極私的なシネマエッセイが書ける。
実名だと、今の社会的な繋がりから、彼らの眼と自身の社会的立ち位置を気にしてしまう部分が少なからずある。
匿名よりも本名で書いた方が、他者の視線を気にしたペルソナ感の増した文章になる可能性がある。
他者の目線が自身のクリエイティブに浸食していくような感覚。
自分らしさや解放感が減じてしまう感覚もある。
私は匿名で悪意が噴出するという側面ではなく、その人らしさ、その人本来の想い、その人の隠れた感受性がリアル以上に染み出る可能性も感じている。
外見ではなく社会的立ち位置からくる関係性でもなく、純粋に映画がすきな感受性そのもので表現し、人と繋がる心地よさがきっとここにはある。
匿名での誹謗中傷のエスカレートが問題視されている昨今、どうしても匿名というのはどこか身を守り人を裁く「卑怯さ」の代名詞のようにとられることが多いともいえる。
あなたは匿名にして自身の逃げ場や隠れ場を用意しているのだと。
そうかもしれない。
でも、はたしてそれが本当に悪いことなのだろうか。
一部の誹謗中傷を繰り返し、人の尊厳を奪うようなツイートを繰り返す者は決して許してはならない。
ただ、本名では吐露できない秘めたる想いや心の叫びや痛みを匿名で放つ内的葛藤を持つ方は多い。
人を貶めたりするものでなければ、その安全地帯でどんどん内なる感覚を解放すればいいと思う。
お金とSNSは似ていると思う。
優しい人が持てば、もっと寛大になれるし。
嫌な奴が持てば、もっと嫌な奴になれる。
その人が持っているものを肥大するだけだ。
このシネマエッセイを書いていても思うことがある。
「あなたは何者なのですか? 天豆 てんまめさん」
ともうひとりの自分が問いかけ
「あのですね、それは……」
とまた別の自分がそれに言い訳のように回答する。
その内にそんな自分を全てさらけ出して、
いっそ楽になりたいという感情が芽生え出る。
人間は面白い。
誰もいない空間で無数の人の眼と対話をする。
特に感受性の共鳴を感じた方々に自身の素性や本名、全てを披露したい、わかってほしい、認めてほしい、と感じる瞬間はある。
でも「匿名」だからこその恩恵、解放感もまた代えがたいのである。
もし自分自身をすべて披露したら
自意識が晒されていく恐怖と歓喜の狭間で
再び人は社会的な「何者」性にからめとられ
自由自在な解放性を失うだろう。
ただ、その「何者」呪縛を全て取り込んだうえでそれでも尚且つ自分をさらけ出し、人の心を揺さぶるギフト(文章)を紡ぎだせるのが本当のプロの矜持だと言えるのかもしれない。
朝井氏と三浦監督の対談で
「僕らは小説と演劇という表現法があったから満たされた自意識が、無ければTwitterに向いてたかも」という発言が交わされていた。
それははたして単なる勝利者のマウント発言なのか?
私たちはあくまで社会的に成功したり、個人ブランドを確立した上で高々と拳を突き出し
私はこんなことを成し遂げた「何者」です!
と言い放たないと満ち足りないのだろうか。
大学生の就職時期のみならず、社会に出てからこそ益々、この「何者」呪縛に絡めとられる現代社会において
私たちは「何者」であることを手放して生きていけるのだろうか。
もっと自由に
もっと軽々と
もっと自分らしく
誰にも「自分が何者であるか」を伝える必要など全く感じずに
ただありのままの自分で生きれたら、どんなにかスカッと爽快、開放感に満ち溢れることだろうか。
その「他者の視線」と「何者」からの離脱のヒントになる映画「生きる LIVING」のレビューを先日書いたので是非参考にしてほしい。
ただ、映画を見ただけで払拭できるほど、この「何者」呪縛は生易しいものではない。
SNSと深層心理が分かちがたいこの世界に生きている私たちが
深く掘り下げれば、掘り下げるほど深淵の闇に手を伸ばすことになる
この映画「何者」という題材。
それは本当に根深いテーマだ。
映画「何者」を観たせいで、今まで以上に暴れ出してしまう自意識よ。
いやはや、全く一筋縄ではいかないものだ。
もう一度、最後に聞こう。
あなたは
いったい
何者ですか?
遠い昔……
尾崎豊が歌った
「この支配からの卒業」はいつ来るのだろうか?
あの時代とは支配の意味は全く違う。
相手はどこまでいっても自分自身だ。
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