Webドラマ「サンクチュアリ -聖域-」の聖域
NetflixのWebドラマ「サンクチュアリ -聖域-」を観た。引き込まれて一気に観てしまった。
中心となるストーリーは角界(相撲界)に入った荒くれ者の主人公が、周りを引っ掻き回しながらも成長していく物語で、嫌われ者だった彼は、最終的には相撲部屋の仲間を巻き込みつつ活気づけて行く。
それと並行して、政治部から左遷されて、相撲を取材する事になった女性記者が描かれる。
最初、相撲の古い慣習に呆れかえっていた彼女は、取材を通じて、だんだんと相撲の世界へと惹かれていく。
このようなあらすじは何ともありふれている。
デフォルメされた角界の聖域(サンクチュアリ)ぶりも、それほどの新鮮味はない。
しかしこのドラマの主題は、そういったところとは別にあると思われる。
主人公猿桜とライバル静内が典型的であるが、角界の内外を問わず、このドラマの登場人物は悉く、人を寄せ付けない聖域を内に抱えている。
そういった人々が起こす相乗作用は、とても危うい。一触即発ということも稀ではない。
相撲部屋は、そういったはぐれ者を受け入れるサンクチュアリ(避難所)の一つとして描かれてはいる。しかし残酷な軋轢は相撲部屋の内外を問わず起きる。
軋轢を通して、主人公は成長し、馬鹿にしていた土俵に手を合わせるまでになる。
しかしそれは荒くれ者だった頃の彼とそれほど異質な姿ではないだろう。幸せな頃の家族写真を手にした時のような、一時一時の祈りと平穏があるだけだ。内なる聖域は消える事はないのだから。
このドラマ全体を包む荒唐無稽さを考えると、このドラマの世界そのものが、聖域であるとも云えるかもしれない。
その聖域の中心は、おそらく土俵ではなく、主人公猿桜とライバル静内が出会う桜の木のある公園だろう。
静内にとって桜の木は明確に死者と繋がっている。
それは梶井基次郎の「桜の木の下には」や坂口安吾の「桜の森の満開の下」を思い起こさせる。
主人公の前に現れた公園の静内は、とてもこの世のものとは思えない。
四股名猿桜の桜は、静内がもたらしたのかもしれない。
最後に、ヒロインともいえる女性新聞記者ですが、彼女は伝統の良さが分からず、海外の価値観で批判ばかりしているという、ステレオタイプな帰国子女として描かれている。
しかし彼女はそのような姿を演じているのではないかと思う。
おそらく彼女は日本に馴染もうと必死に生きてきた。それにも関わらず信頼する人に裏切られ、日本のルールが分からない帰国子女というレッテルを貼られた。だから、敢えてその役柄を演じて見せているのだろうと、そう思う。
そんな彼女が、猿桜を中心としたはみ出し者の活躍に惹かれていくのは、理の当然と云えるだろう。
追記: noteでいろいろな人の感想を読んだ。感じ方は人それぞれでとても興味深かった。
多くの人が指摘していたエンターテイメントとしての面白さ、迫力、演技の素晴らしさなどは確かにこの作品の大きな魅力に違いない。
でも記事に書いたようなテーマが、その裏に流れているように、僕には思えてならないのです。
「サンクチュアリ-聖域-」予告編
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