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飾らない苦悩と飾ることのたやすさ 若林正恭/表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬

リトルトゥースである。

オードリーのラジオは、いつも、何かしらの違和感を凝りほぐしてくれる。


寝不足の通勤電車で読んだ、DJ松永の解説。思わず嗚咽でも漏れてしまうのではないかと、焦りつつも読むのを止めることができなかった。だから、くしゃみと咳が同時に出てしまったようなふりをして、その場を乗り切った。自意識過剰である。

違和感と自意識。

そんなものを常に抱えている人、この国で生きづらさを抱えている人にとって、若林さんの表現は救いとなる。
作品の中で、自身を

少数派のくせに一人で立つ勇気を持たず、出る杭のくせに打たれ弱くて、口が悪いのにナイーブで、それなのに多数派に賛同できない

と表現している部分があり、共感しすぎて首がもげそうになるほど頷いた。若林さんは、ご自身の感じ方や価値観を言葉にするだけでなく、自分そのものを表現することにも長けている。

P42「5日間、この国の価値観からぼくを引き離してくれ。同調圧力と自意識過剰が及ばない所までぼくを連れ去ってくれ。」
P61「誰かの顔色をうかがった感情じゃない。お金につながる気持ちじゃない。自分の脳細胞がこの景色を自由に、正直に、感じている。」

組織に所属している以上、上司の言うことは聞かないといけない。逆らうことは「くびにしても構いません」と言っているのと同じこと。理不尽なことを言われても、会社からお給料をいただいて生活をしている以上「わかりました」と笑顔で言って、淡々と仕事をこなさなければならない。言いたいことが言えない。
違和感。
絶対に自分が正しいとは言ってない。でも、いくら会社に所属しているからって、なんでも上司の言うことを聞かないといけないなんて、会社に人質を取られているようなもの。言いたいことが言えない。
違和感。
違和感。

会社を辞めようにも、生活やキャリアを考えると誰しもすぐには今の会社を辞めることができない。それを見透かされ、利用される。搾取。
違和感。
違和感。
違和感。
違和感。

違和感で満たされるわたしの心。

P75(ゲバラの名言)「明日死ぬとしたら、生き方が変わるのですか?あなたの生き方はどれくらい生きるつもりの生き方なんですか?」

明日死んでも後悔しない生き方をしているつもりでも、きっと目前に死が迫ったら、後悔の念で押しつぶされるだろう。わたしはもっと言いたいことを言いたい。こんな違和感にまみれたまま死にたくない。

表参道のセレブ犬はきれいに手入れをされ、飼いならされている。

でも、カバーニャ要塞の野良犬はちょっと汚いけど、自由がある。そう、自由なのだ。

今、わたしがほしいもの。自由と楽。
それは今のわたしを満たしてくれる。
でも、同時にとても大切な何かから目をそらしているのではないか、という気持ちにもさせられる。
大切な人、と呼ぶべきポジションにいる人との関わり。
それは、自分と向き合うことでもあって、自己嫌悪との闘いでもある。
けれど、自由と楽からは得がたいものが、きっとある。
わたしはそこから逃げているような、そんな気がしている。
人と関わることにこんなに疲弊していても、まだそんな風に思う自分がいる。
どうしてこんな風に自分を追いつめる。
周りがみんな結婚して子どもがいて、幸せそうだから?
同じものを、わたしは欲しいのか?
まさか。
本当に?

だってそれではストレスにさらされてばかりになってしまう。
だから楽と自由を選んだのに。
自分の選択に自信がないの?後悔しているの?
楽と自由を選んだのに、一方で選ばなかった人間関係を後悔する。
なんというめんどくさい性格なのだ。

P315「ずっとぐじゅぐじゅしてて、熱くて、抑圧されていて、でもある瞬間、誰もが口を開けてドン引きするぐらい吹き上げて一瞬で空に消えて行っていいならば、ぼくがずっとぐじゅぐじゅして抑圧されて恥ずかしいから熱い部分を隠していることも、これから死ぬまでずっとそうであることも救われる。そして、自分でそれを肯定できる。」
P316「人間は欲張りな生き物だ。安定と安全を求めるくせに、それに飽きると不安定と危険が恋しくなる。死にたくなるけど、生きてるって実感したい。」


よく友達に言われるんだ。「わざと自分で自分を不幸にしているよね」って。そうなのかもしれない。自分の歩いている道がでこぼこの不安定な道だって自覚はある。でも一方で平坦な道では生きてるって実感がない。だから、わたしはこれからもでこぼこ道を選んで生きてくんだろう。生きてる実感がほしいから。人と関わって、違和感を感じて、大切な人と向き合って、傷ついて、絶望して。だから時々逃げるんだろう、自由と楽に。この苦しみを、表現することができるかどうか。人生がその繰り返しであることに、諦観と希望を持って、喜びと感じることができるかどうか。

若林さんのように、普段から思慮深く物事に対してぐるぐると考えている人は、何かを発言する時に、ぐるぐるしていた部分をすっ飛ばして言葉を発してしまうことがある。

自分の中では、そのぐるぐるを経た先の言葉なのだけれど、相手からしたら、配慮のない発言と捉えられてしまうことがある。
こうした「何を考えているのか分からない人」「はっきり言う人」と誤解されがち民にとって、本やラジオのように、全てを順を追って説明できる場というのは、誤解を解くのにうってつけである。

全部、ちゃんと伝えれば伝えることができる。

わたしはそう信じている。
そのためには、全てをさらけ出して表現する必要がある。
それには、勇気がいる。
この勇気は、誰でも持てるものじゃない。
みんなどこかで、ちょっとかっこつけちゃう。鎧を着てしまう。
そして、一度身に着けた鎧は脱ぎにくくなるもので、外そうとしてもすぐに外せない。
わたしにとって、東京という街は常に鎧が必要で、いつの間にかその鎧は普段着のようになっていて、気付けば鎧の重みで動けなくなってしまう。そんな街だ。
鎧の輝きだけがもてはやされ、鎧の支えがどうなっているのかなんて関係ない。
マッチングアプリやSNS、その世界では磨いたばかりの鎧で登場して戦に勝っても、本当は鎧の支えも中身もボロボロで、衰弱していて、鎧の重さをコントロールする力なんて残ってない。鎧を脱ぐエネルギーすら残っていない。支えを失った鎧を脱ぐには、一度、この街を出るしかないのかもしれない。
この街ではむしろ、普段着を着ることよりも、重たい鎧を身に着ける方が生きやすくなってしまっている。そして、鎧に違和感を感じた時、その鎧を脱ごうと、勇気を手にした者だけが生き残れる。

表参道のセレブ犬よりも、カバーニャ要塞の野良犬のように。
重たい鎧よりも、着心地の良いフリースを。

ずっと書きたかったエッセイ。
若林さんの作品に背中を押されて、重たい腰をあげて書き始めた。
そこでは鎧は着ないぞと決心して書き始めた。
そこでは絶対、鎧は着ないぞ。

若林さん、きっかけをくださり、ありがとうございました。
わたしのこの思いも、noteを通じて、若林さんに届くといいな。

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