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ショートメッセージ

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聖書から日々黙想をしている中で、短いひとまとまりのメッセージを書き留めています。それをおすそわけします。ご面倒ですが、聖書箇所について聖書を開くか、検索してくださると、いっそう身… もっと読む
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#旧約聖書

言葉を食べて語る先

言葉を食べて語る先

エゼキエル2:8-3:11 
 
「口を開け、私が与えるものを食べなさい」というそれは、巻物でした。黙示録にも引き継がれた光景です。神の与える巻物を、預言者が食べるという図式。この表現は、神の言葉を自分の内に入れ、自分のものとする、ということについて考えさせます。否、自分の一部が神となり、神の一部に自分がなる、ということかもしれません。
 
預言者は、神の言葉を、イスラエルの家へ行って語れ、と言わ

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自分の足で立ち上がる預言者

自分の足で立ち上がる預言者

エゼキエル2:1-7 
 
祭司の子エゼキエルに、主の言葉が臨み、幻を見せられました。不思議な生き物でした。その遙か上に、人の姿のようなものが見えました。エゼキエルに向けて語り始めます。「自分の足で立ちなさい」と、エゼキエルはそれを聞きます。しかし、「霊が私の中に入り、私を自分の足で立たせた」などと言っています。
 
これは、自分の足で立ったことになるのでしょうか。主は自ら命じておきながら、立ち上

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あなたのせいで

あなたのせいで

エレミヤ20:7-13 
 
エルサレムの災難を預言したエレミヤは、神殿の責任者たる祭司パシュフルにより、囚われてしまいます。エレミヤはそこで、主に開き直って言うのでした。「主よ、あなたが惑わした」のだ、とぼやきます。主のせいだ、あなたのせいで、私はこんな酷い目に遭っている。一日中笑いものだ。しかし、私は語らねばならない。主の言葉を、受けたままに。
 
主から与えられた言葉を、そのまま正直に伝える

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立ち上がらせたのは幻

立ち上がらせたのは幻

イザヤ6:1-8 
 
私イザヤは、玉座の主を見ました。それは、ウジヤ王の死の年でありました。ウジヤ王は、半世紀ほどの長きに渡り、南ユダ王国を治めました。北イスラエル王国との関係を良くし、国を安定させたといいます。紀元前8世紀のことです。イザヤから見れば、国の繁栄よりも、人間が傲慢になってゆくことが、主の民に相応しくないように見えたようです。
 
だが、今はイザヤはまだそのことに立ち入ってはおりま

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イザヤ書が閉じられる

イザヤ書が閉じられる

イザヤ66:18-23 
 
「私は来る」との預言を以て、大預言書イザヤ書が閉じられます。第三イザヤなどと呼ばれていますが、学説はどうでもよいのです。とにかくイザヤ書がこれで終わるのです。世界中の人々が集められます。神は、人間の行いと考えをご存じです。相応しい人々がそこに集められます。人々は神の栄光を見ます。神はそこにしるしを置くといいます。
 
誰の目にも、それは明らかになるのです。生き残った者

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信仰深そうに見せていても

信仰深そうに見せていても

ホセア6:1-6 
 
「さあ、我々は主のもとに帰ろう」と聞くと、主に対して誠実な民の声のようです。主は癒やし、包んでくださるという信頼が、ここにあります。「主は主は二日の後に我々を生き返らせ三日目に起き上がらせてくださる」とは、イエスの復活を預言しているかのようではありませんか。イスラエルは確かに、主に背く姿勢を見せていました。
 
しかし、主を覚え、主が立ち直らせてくださると信じていることを表

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私が苦しめたのだ

私が苦しめたのだ

イザヤ53:4-8 
 
苦難の僕の歌の一部から聴きます。人々に見捨てられたその人は、私たちの病を担い、痛みを負いました。「私たち」と「人々」とは別人なのでしょうか。「私たち」の中に「私」がいるのだとしたら、ここではいま「私」に限定した形で味わってみたいと思います。私がこの人を軽蔑し、見捨てたのです。
 
しかし私の病と痛み、あるいは悲しみを、この人は背負いました。私はこの人が勝手に神に打たれて病

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呼びかけよとの声

呼びかけよとの声

イザヤ40:9-11 
 
「慰めよ、私の民を」と、40章はそれまでの様相を変えて、イザヤの名で新しいメッセージをもたらします。この民に呼びかけよ。主の言葉が飛びます。誰が誰に向けて呼びかけるのでしょうか。主がまず、預言者に呼びかけています。それから、預言者がイスラエルの民に向けて呼びかけています。神の言葉はこうして私たちに届きます。
 
神の言葉はとこしえに立つ、そんな有名な言葉が聞かれる中、こ

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人と神との織りなす歴史

人と神との織りなす歴史

詩編78:12-31 
 
「しかし、彼らは」神に背を向けました。そもそもイスラエルは、神に導かれ、恵みを受けて来たのです。ここには出エジプトの歴史から語られます。詩人は歴史を丁寧に辿り、如何に神が民を愛しく導いてきたかを描きますが、人々は神に逆らいます。神に背きます。つまり、それを「罪」と呼ぶのが、聖書の聖書らしいスタンスでありました。
 
「しかし、神は」がこれに応答されてきます。こういうふう

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主を忘れないように

主を忘れないように

申命記8:11-20 
 
主を忘れることがないように。これが主眼です。「戒めと法と掟とを守りなさい」ばかりが目に入ってくるかもしれません。神に従え、という矢が降ってくるのを覚える心理もあるでしょう。でも、主を忘れてはいけない、ここが中心です。今の自分たちの生き方が、どうして支えられているのか、考えてみるように。申命記が誘うままに動きましょう。
 
確かに「炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広

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主は苦しめ、そして導く

主は苦しめ、そして導く

申命記8:1-10 
 
主は「あなたを苦しめ、試み」たそうです。それから、主は「あなたを苦しめ、飢えさせ」たといいます。なにげない一言を見逃さないようにしましょう。これがあるからこそ、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」という命題が告げられ、私たちの目の前に突き出されたのです。
 
イエスが荒野で悪魔により攻撃されたとき、この言葉を以て退かせたというと

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捜し求める牧者

捜し求める牧者

エゼキエル34:11-16 
 
牧者は、羊の群れが散らされたとき、自分の群れを捜し出すもの。そのように、主なる神も、自分の群れを捜し出すのだといいます。イスラエルが、実際にこのような牧者を欠いていることで、主自らが動くのだそうです。主は、自分の群れを尋ね求めます。どこにいるのか、どこに行ったのか。名を呼び、絶望と闘いながら、尋ね求めているのです。
 
あらゆる所から救い出す覚悟を、散った側の羊は

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従ってはならない羊飼い

従ってはならない羊飼い

エレミヤ23:1-4 
 
「私の牧場」と主が仰せになった。これは主のものだといいます。主の牧場の羊の向けを散らしてしまう者に、災いあれ。滅ぼすというのは殺すことというよりも、群を群でくしてしまうという意味にとりたいと思いました。そうすると、イスラエルの民が分裂したり捕囚とされたりすることを示せるようにも思えます。
 
エレミヤは、バビロン捕囚を知っています。だからその悲惨で困難だったことを指摘し

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誰に呼びかけるのであっても

誰に呼びかけるのであっても

詩編100:1-5 
 
「全地よ」と呼びかけた相手は、人のことなのでしょうか。それとも被造物すべてであるのでしょうか。さしあたり人なのでしょうが、「主が私たちを造られた」というとき、「私たち」がどこまで及ぶのか、考えさせられます。この詩は、ダビデの作だとはされていません。「私たち」についても、どう受け止めてよいか難しいものです。
 
でも、イスラエルだけに対する呼びかけではないように思えてなりま

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