見出し画像

日本人が今も失い続けているフィクションの力

こんにちは@tateshina_lifeです。

今日は僕が日々仕事をしていて感じる今の日本に相対的に欠けているものについて書いてみます。

それはSF(サイエンス・フィクション)力です。

日本の中で周りを見渡してみるとインターネットやデジタル化に伴う技術を活用して与えられた課題を解くことができる人たちはいます。

また基礎研究をしっかりやって素材や材料が持つ潜在力を最大限に引き出すことも日本の強みです。

データを蓄積して相関関係を分析することがAIでできるようになり、素材の潜在力を発揮することで通信速度や遅延率が0が1桁増える世界で改善できるようになりました。

しかしその技術や素材を使って実現したい未来の社会を描く能力は著しく下がってきていると感じています。

今になって急激に低下したわけではなく、かつてアメリカや日本のSF作家たちがワクワクしつつも一抹の恐怖を感じつつ未来を描いた時代から失われ続けているのです。

仕事がら日々様々な業種のあらゆる職業の人たちと話をしていますが、未来について感情の動きを表情や動作に表しながら生き生きと伝えてくる人は多くありません。特に僕よりも若い人たちに限って言えば皆無に近い状態です。

与えられた課題を整理して、それを解決することは誰にでもできますし、いずれは機械に置き換えられていくことになります

世界でも有数のデータサイエンティストと雑談をしてる中で、今の技術者たちには”それ”に与していることについて自覚的なのだろうか、畏れのようなものは感じないのだろうか、という話にもなりました。

メタバースがアナログ世界の”Twin”になってしまっていること自体、とても変な話だなと思います。

日本のSFは世界で高く評価されています。日本を除く世界にはフィクションが残されているように感じます。

YouTubeを見ていても日本はコスパなどの”機能”的なコンテンツが多いですが、欧米では世界観を伝えるものが多いように感じています(もちろん僕が見ているコンテンツにも偏りはある前提ですが)。

与えられた課題を解決して効率的に物事を進めることは誰にでもできるのです。それは平均化された世界です。一方で世界観を語り展開することは偏った世界の話であり、その人によってもたらされるものです

僕が東京を離れたのもここに理由があります。蓼科を含めた信州の山には効率化だけでは計り知れないそれ以上大きな存在による意図されたカオスみたいなものがあります

物語がなくなれば人は必要なくなるでしょう。

語ることで人になるのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?