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能登から認知症の父がやってきた(完)

うっとうしいい ほんとどっかいってほしいわ 1月9日に書かれたデスクトップにあるメモ書きだ。 1月1日の地震から3か月。ついに能登に戻る日がやってきた。 新幹線で東京から金沢、金沢からレンタカーで能登へ。地震直後は通行止めも多く渋滞しているところもあったが、混雑もなく無事、自宅にたどり着いた。家族は3カ月ぶりの我が家。姉は「そんなにおらんかった気がしない。昨日のことみたい」とつぶやいた。 デイサービスや病院の引継ぎ、傾いたピアノの移動、倒れて壊れたタンスの処分、倒れて落ち

    • 能登から認知症の父がやってきた(25)

      父帰る。 母の鼠径ヘルニアの手術も無事終わり、父が19日間のショートステイから帰ってきた。「帰ってくる頃には桜が見れるねぇ」と言っていたのだが、朝は大荒れで母の術後の病院に行けるかどうかの方が心配だった。母と私は悪天候でひどいめにあったのだが、午後はすっかり晴れて、あたたかい陽気の中、父は涼しい顔で帰宅した。 少し痩せた気もするが、開口一番、「敵をやっつけんと!」と、拳をあげる。敵は何か分からないが元気そうだった。玄関で車椅子の車輪を拭いていると「こんな仕事やめたいやろ?

      • 能登から認知症の父がやってきた(24)

        桜開花目前なのに荒れる天候が続く季節。 ショートステイ中の父の面会の日。晴天かと思いきや、出掛けに雨が降り出した。 雨と冬にもどったような寒さのせいか、道すがらなんとなく物悲しい気持ちになる。乗り換えの駅は祝日だったこともあり人でごった返していたが、この町は歩いている人も少ない。より寂しさが増してきた。もうすぐ家族も能登に帰る。なんだか初めて上京した時のことをふと思い出してしまい、ひとり取り残されたような気が重い道のりになってしまった。 父はヘルパーさんに連れられて、エレ

        • 能登から認知症の父がやってきた(23)

          「久しぶりに和倉温泉にきたんやよ」 不安そうな父に嘘をついた。 母が鼠径ヘルニア手術のため入院して3日目、父のショートステイをお願いする施設に同行した。春の訪れを感じさせるよく晴れた、日差しがあたたかい気持ちのいい朝だった。 施設に到着し、着替えをさせてもらい、看護師さんを待つ間、父は不安そうだった。窓から見える景色を説明しても上の空。たぶん誰か分からない人(私)と一緒に知らない所に連れてこられ、見知らぬ風景、見知らぬ人達に何がなんだか分からないのだろう。 「何かあったら

        能登から認知症の父がやってきた(完)

          能登から認知症の父がやってきた(22)

          実家で無事住めることを確認して、ご褒美に金沢でまいもんをたっぷり食べ、英気を養って東京に戻ったとたん、父の便の介助が待っていた。便秘気味だったくせに、なにも帰ったその日にしなくてもいいのに。介護は待ったなしだ。シャワーでお尻を洗い、おむつをはかせて寝かせると、どっと疲れが出た。 もう能登に帰ってもいいのだが、母が東京で鼠径ヘルニアの手術をすることになったので、1ヶ月くらい延ばすことになった。以前から症状があったのだが、能登の病院では血糖値を下げなければ手術できないとずっと言

          能登から認知症の父がやってきた(22)

          能登から認知症の父がやってきた(21)

          罹災証明申請書を出した(郵送)のが、1月9日。 証明書が届いたのが、2月19日。 2月21日までに331億円の義援金が集まる。(東京新聞) 義援金特別給付、対象地区の住人1人5万円。 罹災証明の結果は「準半壊に至らない(一部損壊)」だった。家の中は見ず、外から見て判断する、とのことだった。罹災証明は姉の透析の病院や両親の処方箋をFAXでやり取りしてもらった薬局に提出する必要があった。家は潰れていないけど、修理が必要なものや買い直さないと使えない物もある。地震保険は入っていな

          能登から認知症の父がやってきた(21)

          能登から認知症の父がやってきた(20)

          うちの実家の地区は災害ゴミは3月31日まで。 偶数日と奇数日で地区を分けて出せる日を分散している。 軽トラの無料レンタルもあるのだが、日程を指定できない。実家にずっと滞在できないので、ジャパンレンタカーで軽トラをレンタルして帰った。 落ちてきた瓦、割れた食器、壊れた電子レンジ、折れてしまった衣紋掛け。倒れて壊れた古いタンスも捨てたかったのだが、1人では運べない。当然といえば、当然だが、ボランティアは日付指定はできない。一度見に来て、どのような作業か確認してから派遣する、との

          能登から認知症の父がやってきた(20)

          能登から認知症の父がやってきた(19)

          水が出た! うちの町も水が出た! 地震から2ヶ月。やっと水が出たので、家の配管を確認しにひとり実家に帰った。今年に入って北陸新幹線に3度も乗るはめになった。ANAは「能登復旧支援割」なるものがあるのだが、新幹線はない。JREポイントがたまるたまる。 「ひとりで色々と大変だね」と同僚。「久しぶりにひとりになれて開放〜」と私。「何か手伝えることがあれば言ってね」「じゃあ、父ちゃんのうんちを拭いて」と、言えるわけがない。地震になってたくさんの人から「大丈夫?」と心配してもらった

          能登から認知症の父がやってきた(19)

          能登から認知症の父がやってきた(18)

          ポリポリポリッ。 風呂から上がると、後ろを向いて小気味いい咀嚼音をたてて父が何かを食べている。まさか…. 「お父さんに何かあげた?」とVosualで聞くと「あげとらん」と母。 !!!やっぱり!猫のご飯を食べていた。 狭い我が家は父が後ろを向くとキッチンで、すぐ後ろに猫のご飯が置いてある。うちの子はチョビ食いタイプなので、基本置きっぱなし。いつ食べるか分からないので隠すわけにもいかず、彼女の重要なテリトリーのひとつだから場所を変えるわけにもいかない。 断水で帰れないのは大変

          能登から認知症の父がやってきた(18)

          能登から認知症の父がやってきた(17)

          オムツの尿漏れ。ずっと母の悩みだった。 朝起こすと、シーツ、タオルケット、上着の脇腹が濡れていて、毎日洗濯しなければならない。リハビリパンツ排尿4回分の中に排尿4回分のパットを入れ、腰から腹にかけてパットを挟んで寝かせていたが、漏れるらしい。 帰省した時にネットで調べてみた。女だけの家族には分からない男性の構造にオムツを合わせねばならなかった。 ちんちんをパットで包む???三角あてと言うらしい。尿が多い人はうんぬん、ちんちんが短い人はうんぬん。。。しかし、これは向き不向き、

          能登から認知症の父がやってきた(17)

          能登から認知症の父がやってきた(16)

          生まれつきではないが、母は耳が聞こえない。 長年補聴器をつけてきたが、80を過ぎた頃から、補聴器を変えても聞こえなくなり、ほぼ聴力がなくなってしまった。 認知症の父とのコミュニケーションは決してうまくいっているわけではないが、耳が聞こえなくてよかったと思うこともある。 メールやLINEができれば、離れていても様子を知ることができたのだが、母にスマホを与えて何度も教えたが、覚える気がないのか返信がなく、帰省するとスマホはホコリをかぶって電源が切れたままになっていた。 かと思う

          能登から認知症の父がやってきた(16)

          能登から認知症の父がやってきた(15)

          今朝、父をいつものように、「朝やよ。起きよう。ご飯やよ」と声をかけ、起床の手伝いをしていると「ありがとうございます。ありがとうございます」と手を合わせて拝む。しかも少し涙ぐんでいる。私が娘だともう認識はしていないのだが、誰だと思っているんだろう?場所も分からず、悲しい夢でも見たのだろうか? 機嫌がいいと「サンキュ〜ベリマッチ!」と、昔からよく言う口癖が出る。真面目で口数少ない父の精一杯のおやじギャグだったのだが、認知症になっても所々、昔の父が顔を出す。ぐずってなかなか起きよ

          能登から認知症の父がやってきた(15)

          能登から認知症の父がやってきた(14)

          だめだっ!今日はもう無理!呑みに行こう! 手をたたきながら、独り言を延々と繰り返す父。イライラが絶頂に達し仕事をやめて家を出た。 私はコロナ以降、在宅勤務だ。介護の手伝いや地震の事務手続きもしやすい環境ではあるが、正直、デイサービスの時間以外仕事にならない。 電話番もしているので、ワークスペースで仕事するわけにもいかず、トイレを探して別の部屋をうろついてしまうこともあり、目が離せない。 その日はもう我慢できず、よく行く飲み屋で一気にビールを飲み干した。「夫婦って特別なのか

          能登から認知症の父がやってきた(14)

          能登から認知症の父がやってきた(13)

          地震以来、久しぶりに都心に出た。 東日本大震災のあの日、この道は大渋滞だった。雪が舞う中、歩いて帰る人もいたし、足止めをくらって会社に泊まる人もいた。あれからもうすぐ13年。大雪の後で澄みきった青空の清々しい都会の街を歩いていても、そんな悲しい出来事を思い出してしまう。頭の片隅にいつも蜘蛛の巣が張り付いているような気分だ。 当時は、原発の問題もあったし、心配した両親がこっちに避難してこい、と言っていた。それが、逆になるなんて思いもよらなかったのだが。 姉は能登地震そのものの

          能登から認知症の父がやってきた(13)

          能登から認知症の父がやってきた(12)

          父が認知症と診断されたのが、2019年。その数年前からおかしな症状は出ていたのだが、「どこもおかしくないわい」と病院を拒否していたため治療も遅れた。 酒好きで晩酌はしていたが、ほぼ家と職場を往復するだけで、めったに外で遊んでこない真面目な人だった。喫茶店でアイスコーヒーに角砂糖を入れるような世間知らずというか、なんというか。鬼嫁がおこずかいを渡していなかった?のかもしれないが。 リタイア後は、家の近くの畑で野菜を育てるのが日課になっていたようだ。 唯一の趣味が読書と磯釣り

          能登から認知症の父がやってきた(12)

          能登から認知症の父がやってきた(11)

          2月になっても水は出ない。 避難生活はなんとかなったが、やることは山積みだ。 北陸の冬は天候の悪い日が多い。どんよりと厚い雲が立ち込め、雷が鳴りはじめると雪だしと言って雪が降り出す。屋根が壊れていたら雨や雪で雨漏りしてしまう。最悪、潰れないよう大雪にならないことを祈るしかない。 帰った時に倒れた家具や落ちた瓦など写真は撮っておいたが、さすがに屋根の上までは撮れなかった。応急の修理制度があって、ブルーシートをかけるなど5万円まで出してくれる。1度帰って、ネットで調べた自撮り棒

          能登から認知症の父がやってきた(11)