見出し画像

能登から認知症の父がやってきた(完)

うっとうしいい
ほんとどっかいってほしいわ
1月9日に書かれたデスクトップにあるメモ書きだ。

1月1日の地震から3か月。ついに能登に戻る日がやってきた。
新幹線で東京から金沢、金沢からレンタカーで能登へ。地震直後は通行止めも多く渋滞しているところもあったが、混雑もなく無事、自宅にたどり着いた。家族は3カ月ぶりの我が家。姉は「そんなにおらんかった気がしない。昨日のことみたい」とつぶやいた。

デイサービスや病院の引継ぎ、傾いたピアノの移動、倒れて壊れたタンスの処分、倒れて落ちた灯篭の石の引き上げ、などなど、やることがまだ残っていたが、テレビの修理は富山から、市役所では京都の方、ボランティアの方は香川県からなど、応援の方々にもお世話になった。水道もそうだけど、あらゆるところで支えてもらっているのだなと、実感した。能登は取り残されたとか、避難所が先進国とは思えないとか、色々と批判、不満も聞こえてくるが、復旧のために日夜働いている人々がたくさんいる。とにかくみなさんに助けてもらって、うちの家族は元気に戻ってこれた。

我が家に戻った父は何も言わず、相変わらずだが、寝る時の介助中、柱につかまり、腰が曲がってヨボヨボの姿に思わず笑いが出てしまった。私が笑うと父も笑う。なんだか大変なのに幸せがこぼれ落ちる。
飲んでいたりんごと人参のジュースを母と私に交互に「飲めや」と差し出す。おやつをあげると「おまえは食べたんか?食べーや」と言う。認知症でも昔の優しい父が時々顔を出す。

「育ててくれてありがとう」
心残りは正常な時にちゃんと伝えることができなかったことだ。私が「ありがとう」と何度も言われるようになってしまった。
「今日も一日おつかれさま」と布団をかけてあげる。認知症の気持ちは分からないが、思い通りに動けない、伝わらない日々は疲れるだろうなと思う。

まさかの正月から衝撃と怒涛の日々で、あっという間になのか、もう桜の季節なのね~なのか、なんだか分からなくなってしまったが、私たち家族にとって貴重な3か月になった。家族は一番近くて一番面倒な存在でもあるのだが、ひとまず、私は休ませてもらおう。

最後に。
復旧はまだまだで珠洲市や輪島市はもっと遅れています。でも住んでいるみなさんはたくましいです。
そして、私はnotoがあってよかった。介護の衝撃とイライラで心が折れそうだったが、書くことで救われた。他の人のnotoを見て心が少し軽くなった。
そういえば、notoだし、能登だったね。(苦笑)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?