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四方対象/グレアム・ハーマン

2018年もいろんな本を読んだ。

ちょうど1年前の年末年始にかけて読んだのはゲーテの『ファウスト』書評)だった。19世紀初頭に書かれた、この作品はあらためて近代という、人間と世界のあいだに亀裂が認識された世界が明確に描かれていた。
「ありとあらゆる道徳観念が、耐えがたいまでの重荷を負わされ」、「たえず、神の権威と、直接、関係づけられ、「罪という罪は、極微小の罪にいたるまで、宇宙世界と関係づけられる」と書くホイジンガの『中世の秋』書評)やジョルジョ・アガンベンの『スタンツェ』書評)が描く中世ヨーロッパの世界のあまりに激情的で残酷でもある世界と人間が直結した世界とは好対照である。

文学史における名作という点ではメルヴィルの『白鯨』書評)も読んでみたし、ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』書評)も読んだが、いずれもゲーテ『ファウスト』と同じく19世紀の作品。前者が1851年、後者が1897年の出版と、『ファウスト』も含めて、19世紀の前・中・後に分かれているゆえに、歴史的な推移を辿れる気がする。人知を超えた時点で世界を見るファウスト博士、人間の力を超えた崇高な力と対決し破れる『白鯨』のエイハブ船長、そして、同じく人間の力を超えたドラキュラをタイプライターなどに承知された新しいデータ化のテクノロジーにより倒す『ドラキュラ』の主人公たちと、未知なる世界への人間の対処の仕方の変遷が伝わるように思う。世界から切り離された人間が、人智を超えた力をもつ世界をどう封じこめコントロールしようかとする様子が描かれる。
もはや、そこに中世のような世界とのつながりはない。カントが物自体を人間の経験の背後にありながら、決して経験できないものと、1718年の『純粋理性批判』で示して以来の世界に疎外された人間がそれらの作品では描かれている。

そんなドラキュラを読むきっかけになった本が、高山宏さんの『殺す・集める・読む』書評)だ。データ化によりドラキュラを退治するブラム・ストーカーのほか、同様の傾向をコナン・ドイルのシャーロック・ホームズ作品などの19世紀探偵小説にも見出している。データ化により不可解な謎をコントロールしようとする19世紀的振る舞いは、柏木博さんが『探偵小説の室内』書評)で示す「室内」という装置も同様のツールとして用いられていることがわかる。

しかし、データ化によるコントロールを必ずはみ出るものがある。20世紀における探偵小説の流れがすでにそのことを明らかにしている点は、高山宏さんも指摘している。その曖昧なものが漂い出る様を描いたのが、ダリオ・ガンボーニの『潜在的イメージ』で、ガンボーニは19世紀後半からだんだん顕在化してくる、何を描いているかわからないイメージを表現する芸術作品を対象に論じている。その際、ガンボーニが注目するのは、

観る者が(物質的対象としてではなく生成プロセスとしての)芸術作品の生成に貢献している事実を重視するとき、「潜在的イメージ」という概念は、視覚芸術という範疇を超えて、コミュニケーションと意味作用に関わる重要な問題を引き起こすことが明らかとなろう」

といった、そもそもイメージというものがもつ曖昧性であり、固定化を逃れようとする動的な生成力である。
それはベルグソン-ドゥルーズとつながる何かを可能にする潜在的な力を形にして見せる/形として見る力だといえる。

「潜在的」という用語に関連するものとして「潜勢的(ヴァーチャル)」という言葉がある。ベルグソンが好んで用いたこの言葉もまた本書で用いるのに価するものである。この哲学者はまず「可能なもの」と「現実的なもの」を対比し、前者が「過去に見出す現在の幻影(蜃気楼)」、すなわち(ここでもまた)「可能なもの」が「現実的なもの」の「遡及的な」視像にすぎないと述べつつ、「現在化するもの」に対置して「潜勢的なもの」という概念を挙げた。このベルグソンの概念的区別については、ジル・ドゥルーズによる明解な解説がある。ドゥルーズによれば、ベルグソンにとって「現実的」になる以前の「可能なもの」とは、類似と限定の規則に従属したものにすぎなかった。

はたまた『ドラキュラ』に続けて読んだフリードリヒ・キットラーの『ドラキュラの遺言』書評)は、今年の読書において、ひとつの転換点だった。
「今日われわれの誰もが承知していながら、決して口にだしては言わないことがある」と前置きしながら、「書くのはもはや人間ではないという事態がそれである」というキットラーのメディア論は、マクルーハンが「メディアは人間の拡張だ」と言った以上に、メディアの物質性とその自律性に注目している。マクルーハン においてはまだ人間との相互依存的な共生関係にあるものとして描かれているメディアは、キットラーにおいては人間とは独立して機能しており、完全に人間中心の考え方から抜け出している。

北野圭介『マテリアル・セオリーズ: 新たなる唯物論にむけて』書評)に所収の対談のひとつで、キットラーのメディア論を「彼のマテリアリズムは北野さんが挙げられた3つの起源とは異なり、物理的な基層を把握することを主眼としていました」と称するのは、アレクサンダー・ザルテンだが、この新しいマテリアリズム=唯物論という考え方に惹かれて、キットラーの本のあとに手に取ったのが『マテリアル・セオリーズ: 新たなる唯物論にむけて』だったわけだが、そこでキットラーの思想がひとつの起点であることが告げられていたわけである。

そこから、以下のような現代における哲学書を順に読んでいったわけだ。

マヌエル・デランダ『社会の新たな哲学: 集合体、潜在性、創発』書評
ブリュノ・ラトゥール『近代の〈物神事実〉崇拝について ―ならびに「聖像衝突」』書評
エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ『食人の形而上学: ポスト構造主義的人類学への道』書評
カンタン・メイヤスー『有限性の後で:偶然性の必然性についての試論』書評
スティーヴン・シャヴィロ『モノたちの宇宙:思弁的実在論とは何か』書評

これらの本を通じて出会ったのが、非人間中心的な思考であり、非人間的な存在もまた他の存在と直接的には経験しあえないまでも、経験の背後にそれらを感じているということだ。物自体を経験できないのは人間だけでなく、物同士でも同じことなのだ。

モノたちは互いに美的に遭遇しあうのであって、ただ単に認知的ないし実践的に出会うのではない。ぼくはいつでもあるモノについて現に知る以上に感じるのだし、モノを知るのでないとすれば、感じるのである。

と記す、『モノたちの宇宙』のシャヴィロは、人間がモノを知るのではなく感じるように、モノ同士も感じあうのだということを教えてくれる。
タイプライターを駆使して、世界=ドラキュラを捕まえたつもりの19世紀が、実はその捕まえる道具であったはずのタイプライターのようなメディア自体が人間には捕まえられない自律した道具であることに気づき始めたのが、現代の哲学が思弁的実在論や新しい唯物論を掲げる要因だと思う。

そんな風に、今年1年読み進めた雑多な本は、実は僕の中ではひとつの流れでつながっているのだが、その締めくくりとして紹介したのが、一番最近読み終えたグレアム・ハーマンの『四方対象:オブジェクト指向存在論入門』だ。 

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ずいぶん前置きが長くなったが、この本はカント以来の物自体と人間の断絶に新たな見方を与えてくれる。

私のカントに対する不満は、彼が物自体を保持したことにではなく、物自体が関係一般でなく、人間の知識にだけ取り憑いていると考えたことである。わたしは、ホワイトヘッドと同様、即自が実在的だと主張する。しかし私はまた、その実在性は、人間主観だけでなく、無生物的な因果関係によっても到達不可能な状態に留まっているとも主張する。というのも、人間の意識から退隠しているのと同じように、火からも退隠している綿それ自体が、実際に存在しているのだから。

意識からの退隠。対象の実在は、人間からも、そして、非人間的な物からも、隠れている。退隠している。人間も、非人間的な存在も、対象を意識における感覚的な存在としてしか捉えることができない。

この考え方をハーマンは、ハイデガーの道具分析に負っている。

私たちは、意識から退隠するのは客観的で物理的なものではなく、世界それ自体が、あらゆる意識的なアクセスから退隠する実在でできているのだという点においても、ハイデガーに同意せざるをえないのである。

そして、ハーマンがもうひとり頼っているのはフッサールで、彼の対象と性質の関係を元にして、感覚的対象とそれに紐づく感覚的性質、実在的性質の関係を明らかにする。

これに先のハイデガーの実在的対象と感覚的性質の関係や、ライプニッツのモナド論に負う実在的対象と実在的性質の関係を合わせて、以下の4つの項の関係性を明らかにする。

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この4つの項の関係において、ハーマンは、この世界の存在と認知の関係を説明しようとする。
例えば、感覚的対象と感覚的性質の間の緊張をハーマンは時間と名付けている。時間の経過とともに、対象の見え方は移り変わったりするが、それでも対象そのものを僕らは別のものと認識したりはしない。変化するプロフィールと変化しない存在、その緊張がすなわち時間であると。
他にも、それぞれの対象と性質の緊張関係をハーマンは、空間、形相、本質と名付けている。

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ただし、この緊張関係は単に人間と世界(対象)の関係に限った話ではない、というのが、ハーマンの哲学において大事なところだ。ハーマンの哲学は、非人間中心主義的である。

シャヴィロも述べていたように、「思弁的実在論」という言葉で括られるものの、カント以来の「相関主義」を否定する点を除けば、メイヤスーとハーマンの立場はまるで異なる。ハーマンは、メイヤスーの提示する実在論は十分なものではないという。メイヤスーの思考が人間中心主義に留まっているからだ。

私は、「実在論」というスローガンは、賞賛に値するものであっても私たちを救うのに十分ではない、と結論する。というのも、こうした弱い形の実在論は、現代哲学を支配する相関主義に対抗できないからである。より重要なのは、対象と対象の関係を、主観と対象の関係と全く対等なものと見なすことである。このことによってのみ--すでにホワイトヘッドがやってみせたように--カントのコペルニクス的転回を逆転させることかできるのだ。

相関主義に対抗する視点としてハーマンが重視するのが、非人間的な存在も視野に入れた対象を志向する存在論である。それはデ・カストロの人類学においても示されるし、彼が参照したドゥルーズ 、そして、ベルグソンの潜勢力がもたらす生成の力に通じている。

メイヤスーが数学や科学に相関主義からの脱出可能性を見たのに対して、ハーマンは、科学や数学の見方も人間的なものであり、それは対象となる世界、宇宙を人間中心主義的な見方に閉じこめてしまうことであり、いっそう相関主義の罠にはまってしまうことになる。

対象であるとは、対象それ自体であることであり、その対象だけがもちうる実在性を宇宙において成立させることである。対象であるとは、何種類かの性質をもつことではない。そうした性質はせいぜい、対象を外から特定するための方法を教えるにすぎないからである。

数学的、科学的にみた性質であろうと、それはあくまで性質なのだ。人間が感じとる対象とそれの性質との関係は、必ずしもその対象に別のものが感じとる性質とは異なる。しかし、だからといって対象そのものが別物になるわけではない。ここにおいて、人間の思考の外において存在はないとするような相関主義は成立しなくなる。
つまり、ここにおいて自由・平等・博愛をセットに人間にフォーカスしまくった革命が起きた18世紀、19世紀と連なる人間中心主義の啓蒙的で科学的な見方が更新される。

こういう立場に立つとき、世界から切り離された人間という見方は成立しなくなり、直接的な経験は互いにできないまでも可能性としての潜勢力を動かす対象と性質の緊張感を与えあう同士として、人間は他のものとともに宇宙に存在していることになるのではないか。

わたしたちからしてみれば、あなたたちはただの自然現象のように見えます。万物と何も変わることのない、感じることのできる物質であるにすぎません。たいていのものがそうであるように、自律していると信じ込んでいる自然現象です。

こう書くのは『エピローグ』の円城塔。ひとつ前の「フィクション」でも書いたが、円城さんの『エピローグ』はハーマンを理解するのにもってこいだ。
そう、僕らは自分が自律していると勘違いしている自然現象であり、他のものといっしょに宇宙に共生しているのだ。

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