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フィクション

あともういくつ寝ると、年末年始の休みというところで、風邪をひいた。休みだと思って気が抜けると、熱とか出しやすいのは昔からだ。昨日ちょっと気が抜ける出来事があったからかもしれない。
今日は朝から頭が痛いなと思っていたが、午前中仕事をするうちに熱っぽくなってきたので、午後から早退させてもらって、家で寝ていた。

早めに薬を飲んで寝てたこともあって、昼間よりは体調もマシになった。
それもあって、数日前に手に入れた円城塔の『エピローグ』を読みはじめた。風邪であまり頭が冴えないので、むずかしい哲学書をお休みして、小説くらいにしておこうと思ったわけだ。
まだ冒頭すこし読んだだけだが、これがなかなか面白い。

訳あってSF小説を読む必要があり、何を読もうかと思って選んだのが、人工知能の高度な発展により生まれたオーバー・チューリング・クリーチャ(OTC)と人間が共生する世界を描いた作品。まだ前半ちょっとしか読んでいないが、こんな設定の文章がなかなか面白い。

そんなんじゃあないのだが、彼が自動的に展開していくラブストーリー空間からは否定を意味する言葉が欠落していた。彼には、「俺のこと好き」と訊ねるだけで、答えがイエスであろうとノーであろうと意味をイエスに転換する能力が備わっていて、抗することは不可能なのだ。何故って彼はエージェントで、エージェントとは人間よりも器用にチューリング・テストをクリアすることのできるスマート・クリーチャにしてオーバー・チューリング・クリーチャだからだ。

この世界には、どうやら生まれたときからOTCとして生まれたスマート・クリーチャと、人間として生まれつつも、エージェントをインタフェースとして他者と対峙している人間が共生しているようだ。そういう共生ゆえに、すべてがインタフェースであることが普通で、生身の人間というものにむしろ異質さを感じるという状況が生まれる。

例えば、主人公である私が祖母のことをこんな風に感じているように。

化粧気のない左右非対称な顔に刻まれた皺や染み、渦を描いて流れる灰色の髪は子供心に、この世の均衡や均整、綱一本で張られた整合性を破るものだと思われた。時折咳に中断される祖母の語りは、故障や修理という単語を連想させた。わたしには祖母がお話の中の悪い魔女のようにひどく恐ろしいものに思われて、窓をある程度以上に広げることさえできなかった。

インタフェースという窓。エージェントを介して外の世界に接する際、外との接点となるところには窓がある。
「わたし」はこんな風に窓をとらえる。

インタフェースとはつまり、他の宇宙へ向けて開いた窓だ。そういう意味では家の内と外を隔てる窓も、あまりに具体的に窓々しいが、窓の一種であるには違いない。通信用のスクリーンも窓なら網膜も窓、わたしたちの顔も等しく窓だ。

人間の顔が窓であるなら、オンラインでスクリーンごしに行うMTGなどは、何種もの窓を介したコミュニケーションということになる。
というわけで、以下のように考える「わたし」の思考は、何もOTCと共生しているサイエンスフィクションの世界に限った話ではなく、現在の僕らの世界においても何も変わらない。

対話相手に、そう見せたい自分の姿を、交渉の全権代理人としてエージェントをまとう。あらゆる種類の交流がインタフェース越しに行われ、そこでは常時膨大な情報が処理され続けている以上、誰かと一緒に対面するときに、よりよい見かけや、そつのない立居振舞、適切なシソーラスを有効利用しない手はない。直接にではなく網膜を通じて物を見るのも、鼓膜の揺れに引き起こされた電気信号を音声と解釈し直すのも、インタフェースを通じた交流であり情報処理であるには変わりない。脳と脳の間を2枚の顔(インタフェース)で隔てられてしまっている以上、それわ3枚にして4枚にして5枚にして6枚にして互いを隔てる膜をどんどん増やしていって一体なにが悪いのか。

実際、このインタフェースを介した外の世界との交流の在り方を、オブジェクト指向存在論として哲学的に考察しているのが、最近読み終えたグレアム・ハーマンの『四方対象』だ。

ハーマンはこう書いている。

私たちは、意識から退隠するのは客観的で物理的なものではなく、世界それ自体が、あらゆる意識的なアクセスから退隠する実在でできているのだという点においても、ハイデガーに同意せざるをえないのである。

世界すべてが意識的なアクセスから隔てられた実在でできている。
ハイデガーは意識こら退隠した物理的なものを「道具」として分析し、ハーマンはそれを実際に私たちが日常意識的にアクセスできている「感情的対象」に対して「実在的対象」と呼んだ。

この実在的対象と感情的対象の関係などは、エージェントというインタフェース=窓を介してしか世界に接することができない「わたし」そのものだ。彼女が見ているのは、ハーマンいうところの「感情的対象」に他ならない。

けれど、それは先にも書いたとおり、円城塔の小説のなかのフィクションに限った話ではない。僕ら自身、実在的対象にはアクセスできないのだから。
大事なのは、日常的な問題を思考の俎上にあげるために、こうしたある種リアリティをもったフィクションへと落としこめる想像力の有無だろう。先にSF小説を読む必要性と書いたのも、そのあたりのことと関連している。

僕らはもっと日常に潜んでいる課題を可視化するためにフィクションをつくりだす想像力が必要だ。クリエイティブなるものに意味があるとしたら、通常は閉ざされた現実へのアクセス権をそんな風にこじあけるきっかけを見出せる点でしかない
それがハーマンをふくむ思弁的実在論が現代の哲学において、ひとつの主流を形成している理由でもあり、思弁的=スペキュラティヴであることが求められる理由だ。
僕らはクリエイティブに思弁することでフィクションをつくりだし、切り離されている実在的対象と感情的対象のあいだに窓をあける必要がある。でなければ、実世界を変える仕事はできないのだから。そういう想像がむずかしくてできないと嘆くだけなら、新たな社会的価値を創造する仕事などしようがない。

ところで、ハーマンのいう実在的対象は、カントの物自体に似ているようですこし違う。

私のカントに対する不満は、彼が物自体を保持したことにではなく、物自体が関係一般でなく、人間の知識にだけ取り憑いていると考えたことである。わたしは、ホワイトヘッドと同様、即自が実在的だと主張する。しかし私はまた、その実在性は、人間主観だけでなく、無生物的な因果関係によっても到達不可能な状態に留まっているとも主張する。というのも、人間の意識から退隠しているのと同じように、火からも退隠している綿それ自体が、実際に存在しているのだから。

そう。実在的対象と感情的対象のあいだのアクセスが隔てられているのは、人間とモノのあいだだけではない。
モノ同士であれ事情は同じだというのが、カントの自体と異なる僕らの時代の発見だ。

『エピローグ』にもこうある。

「じゃあ」とまだ幼いわたしはインタフェース越しに祖母に訊ねる。「スマート・マテリアルは機械的なの生物的なの情報的なの」「そのどれでもないね」と祖母は応える。「まだスマート・マテリアルなんてもの自体が知られてなかったしね」「おばあちゃんは」と記憶の中のわたしは無邪気に訊ねる。「機械的なの生物的なの情報的なの」

機械工学、生物学、情報工学などの区別に意味がなくなる世界のフィクション。それはスペキュラティヴ・リアリズムの哲学が思弁する世界でもある。

こうしたフィクションを生む想像力がこれから誰にも求められる。それがクリエイティブな時代なのだと思う。
そんなことをnote利用2年目に突入した風邪ひきの頭で考えている。

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