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社会の新たな哲学/マヌエル・デランダ

人間中心の考え方は、ますます社会を良くしようと試みていく上でフィットしづらいものとなっている。

人新世といった言葉が取り沙汰されるように、人間の行為はもはや地質学的時間をも左右するものとはなっているとしても、相変わらず、この世界の有り様は人間だけでない、さまざまな生物や自然環境とともにあるという点でも人間中心主義的な発想が通用しないのは以前と変わらないままだ。人が対象を見ているだけではなく、対象の側も人間を見ている。その中心のない関係が近年ますます明らかになっている。人間は中心ではないし、西洋的な考え方も中心性を喪失している。

人間中心な考えがままならなくなったのは、人間が生み出した人工物が人間の生活、社会にますます影響を大きくしはじめているからである。AIやナノサイズのセンサーなどの人工物はますます人間と境目が曖昧になっていくし、自然と人工物も複雑に絡み合うことでもはや両者を完全に分けて考えることの意味はなくなりつつある。
人間も含めてすべてがオブジェ=モノであり、すべてが相手を見つめて思考する。世界を動かすのは観念ではなく、そうした思考するモノたちである。新しい唯物論が求められるのはそうした環境においてであろう。

そんなこれまでにない形で複雑さを増したモノたちの系のなかで、人間というモノを特別扱いして基準にし、物事のデザインを考えていくのは、もはや状況をより悪化させるばかりなのではないかと思う。人間以外の社会構成物も視野に入れて、それらの集合体としての社会をどう良いものにしていくか?という観点でデザインを考えていかなくては、社会のエコシステムが成り立たない。人間中心主義や民主主義という発想はとっとと見直していかなくてはならないはずだ。

最近、そういうことを考えているから、最近の哲学がどのような考え方をしているのかを知りたいと思い、2000年代以降の哲学的著作を順に読んでいこうと思っている。
その中のひとつが読み終えたばかりのマヌエル・デランダの『社会の新たな哲学』。2006年に書かれた本書はまだ、僕の問題意識の背景となっているような出来事が表面化していない時代だ。それでもデランダの提示する集合体の理論は、脱人間中心の考え方を進める上で示唆に富むもののように感じた。

「小さな共同体から大規模な国民国家にいたるまで、ほとんどの社会的実体は、人間の心がやめるなら、完全に消滅する」。そうした存在である社会的実体をデランダは、「私たちが社会について形成している観念から自律している」ものとして「実在」するものとして扱うことを主張する。

デランダは自身がこの著書で提示する考え方を「実在論的な社会存在論」と呼ぶ。この論においては、実在する社会的実体は「なによりもまずは集合するという客観的な過程」に関わっており、小さな共同体であろうと国民国家であろうと、人びと、あるいは、小さな社会的実体が「集まる」という歴史的過程を経て構築される「集合体」であるとデランダはいう。
これに相反するのが従来の「社会構成主義」的な考えだが、デランダはその「構成」がつくられる過程というものを欠いていることを指摘する。同じようにブリュノ・ラトゥールも「社会構成主義は素人向けの創造説である」と言っているのが面白い(『近代の〈物神事実〉崇拝について』において)。

さて、デランダはこの集合体の理論を、ジル・ドゥルーズの理論から受け継いでいる。

歴史的な固有性を創出し安定させる過程としての集合体(assemblage)にかんする理論は、20世紀の終わり間際の数10年の時期に、哲学者ジル・ドゥルーズがつくりだしたものである。この理論は、異種混淆的な部分から構成される多種多様な全体へと適用されるべく意図されている。原子や分子から、生物学的な組織、種、生態的なシステムにまでおよぶ実体は、集合体とみなされることになるだろうし、結果として、歴史的な過程の産物である実体とみなされることになるかもしれない。このことはもちろん、「歴史的なもの」という用語が、ただ人間の歴史だけでなく、宇宙や進化の歴史をも含むものとして使われるということを意味している。集合体の理論はまた、社会的な実体にも適用されるかもしれないが、社会が自然と文化の境界にまたがるという事実こそが、この理論が実在論的なものであることを証明する。

「社会が自然と文化の境界にまたがる」とデランダは書いているが、その状況はもはや「またがる」どころか「混在して区別できない」状況にまで至っているのは先に書いたとおりだ。
こうした社会環境において、デランダが次のように捉える「集合体」という社会実体は、人がつくる組織となんら変わらないことがわかるだろう。

諸部分の相互作用からその特性が創発してくる全体である集合体は、こういった中間的な実体のいかなるものもモデル化するのに用いることができる。すなわち、社会正義運動はいくつものネットワーク化された共同体の集合体であり、中央政府はいくつもの組織の集合体であり、都市は、人々、ネットワーク、組織だけでなく、建物や道路から物流やエネルギーのための経路にいたるさまざまなインフラの集合体である。

さまざまな思考力をもったモノたちが織りなす生態系としての現代の社会環境。モノとモノ、人とモノが集合体を成し、さらに、その集合体同士が別の集合体を構成する。もはや、そこではモノと人、自然物と人工物との区別にばかり気を取られていても意味はない。こうした状況で情報技術やバイオテクノロジーの発展により、遠い地域の人と人、あるいはモノと人、モノとモノ同士がコミュニケーションし、相互作用する機会は劇的に増しているのだから、様々な集合体が生まれる機会も否応なしに増加しているとみてよい。ゆえに、目を向けるべきは構成要素それぞれよりも、それらが織りなす集合体の生態系であろう。

ここでデランダが書いていない部分も含めて、思考するモノたちが織りなす集合体による社会を想像してみたい。

「絶えまない帳簿記入」は、規制を強化するための手段として、兵士、学生、患者、労働者、囚人といった人たちの行動とふるまいの記録をつくり保管することを意味するものとして、フーコーが使う言葉である。これらの絶えまない記録は、比較的最近の、せいぜいここ数世紀程度の歴史的現象である。

と、デランダがフーコーに視線を向けるとき、現代においては、この「絶えまない帳簿記入」の主体はもはや人間だけではないことに気づく。記録の対象も人間とモノとの区別はなく、等しくモノとして、モノとしてのセンサーなどを通じてシステムが記録する。

だから、

フーコーによれば、空間と時間の分析的な使用、検査の強化、記録の維持期間と範囲の増大といったことはすべて、臨床医学、教育法、刑法といった言説の事例における、大なり小なり適切な技術的知識を発展させていくことに寄与した。そうした知識は、知識を活用する人の執行能力を増大させた。

という場合の「知識を活用する人の執行能力」の増大も、もはや、その執行能力を増大させるのは人というより、AIだったりするのだろう。こうした新しい社会環境における社会の動向を考えようとするとき、デランダがここで提示する唯物論的集合体の理論は、モノの理論であるがゆえに、モノと人との区別が失われつつある複雑な社会にこそ、有効なのだと思うのだ。

「有機体論的な全体性にとってかわりうる理論的な手立ての主要なものは、哲学者ジル・ドゥルーズが集合体と呼んでいるもの、つまりは、外在性の諸関係を特徴とする全体性である」とデランダは言う。諸関係は構成要素そのものに内在的に備わっているものではなく、他の構成要素との関係、あるいは集合体そのものとの関係、あるいは集合体の外にあるものとの関係において、結ばれる。その関係による動きそのものが、集合体を構成する創発を生む(ことがある)。

外在性の諸関係はまず、集合体の構成部分が集合体から離脱し、異なった集合体へと接続され、そこでまた異なった相互作用を営むようになることを意味している。言い換えると、諸関係の外在性は、諸関係そのものが関係することになる項がある程度自律していることを意味している。

この自立性をもった動きこそが、集合体の特徴だろう。

デランダの集合体の理論のポイントは先にも示したとおり、集合体というものを「歴史的な過程の産物である実体」としてみるところだろう。つまり、デランダの視点は、集合体というものはどうやって、どのようなプロセスを経て形成されるのか?という点にある。そのプロセスは、決して線形的なものではなく、複雑な系においてはむしろ自然な非線形的なプロセスをとる。

線形的な因果性の定式である「同じ原因であれば、同じ結果がいつも生じる」は、塊としての宇宙を想定することの根拠であるというだけでなく、原因と結果のあいだの関係性の概念そのものに破壊的な影響をおよぼす。とりわけ、線形的な因果性の定式と論理的な包含関係の定式(ある原因は、必然的にある結果をもたらす)との類似性は、多くの哲学者たちを誤らせ、原因とその結果のあいだの関係は、基本的には、原因の発生が結果の発生を包含するというように考えさせることになった。だが、もしも因果性が客観的な総合のための基盤を提供するのであれば、因果関係は、産出的なものであることを特徴とするものでなくてはならない。そこで1つの出来事(原因)が他の出来事(結果)をただ包含するのではなくて産出するという関係のありかたを特徴とするものとならねばならない。

「産出」がここでのキーワードだろう。集合体から、その構成要素が独立してあるからこそ、それらは自律的に集合体の産出に手をつける。
そう、ひとつ前の「手をつける」で書いた物神事実の話につながる。集合体の構成要素はその産出に思いがけず手を出してしまうことで、その集合体の一員となるのだろう。
それは少なくとも線形的な因果関係の機械的なつながりとは異なるものだ。

集合体が形成されたのちも、その構成要素は集合体から影響を受けつつも独立性を維持する。構成要素は決して機械の部品のようになることはなく、構成要素そのものはいつでも集合体から抜け出ることも、入り込むことも可能だ。
その構成要素の離脱や侵入を通じて、集合体の同一性は基本的には保たれるが、それが同一性を危機に導くこともなくはない。

集合体の同一性は、それがいかなる規模の水準のものであっても、つねに(領土化や、ある場合にはコード化の)過程の産物であり、つねにはかない状態にある。なぜなら、(脱領土化と脱コード化の)別の過程が集合体を不安定にさせるかもしれないからだ。このことゆえに、集合体の存在論的な地位は、それが大きいものであれ小さいものであれ、独自で特異的な複数の個の地位と、つねに同一である。

集合体は決して、その構成要素よりも強固なわけではない。集合体が失われても、その構成要素は個別に生き残りうる。企業組織が倒産し、構成要素としての個人はいったん失業こそしても、そのまま別の道で生き残ることは可能なのが、そのわかりやすい例だろう。

けれど、構成要素が集合体から何の影響を受けないというわけではもちろんない。だからこそ、集合体もまた構成要素と同じく実体なのだ。

集合体の理論では、集合体は他の集合体の構成部分(非線形的で触媒的な因果性の背後にある内的な組織へと帰着する)となることが可能であり、集合体はつねに、個体群を生じさせていく反復的な過程の産物であるが、この理論は、因果的な産出性のこうした複雑な形態を提示することが可能である。

つまり、この集合体の理論は、中心だとか、本質だとかを必要としない。個別の構成要素の自律的な動きをこそ、その産出の過程において必要とする。だが、かといって、集合体が生まれればその構成要素はそれから影響を受け、それまでの動きを維持できるかはわからない。
そうした予測不可能性の高い環境で、いかに僕らは社会をデザインしていくのか?
そんなことを考えるためにも、この集合体の理論は重要だと感じる。

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