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吸血鬼ドラキュラ/ブラム・ストーカー

変幻自在。神出鬼没。

時と場所を選ばず、自分の思うところへ自由に現われることができるし、どんな姿にもなれる。嵐が呼べる。雷が呼べる。また自分より低いもの、鼠とか、梟、蝙蝠、蛾、狐、狼などを下知することができるし、自分の身体を小さくすることもできるし、時にはパッと消えて、どこへ行ったんだかわからなくなってしまうこともある。

どんな姿にもなれるし、小さくもなればパッと消えてしまうことができる。ようは決まった形がない。曖昧で捉えどころがない。

この三連休に呼んだブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』で描かれるドラキュラはそんな性質を持っている。


ちょうどこれを読みはじめる前に書いた「区別するか混ぜちゃうか」という流れでいえば、わかりやすい固定された形でもってする分類・解釈の網をするするとすり抜けていく厄介な存在だ。とらえてつかまえようにも、すぐに霧や煙のように輪郭が曖昧になり、何かと混ざって姿を消してしまう。

いや、そもそも、この小説にドラキュラの姿はそれほどはっきりとは描かれない。

この小説は基本的に登場人物たちがさまざまな形で残す記録の集積によって物語のあらすじが浮かびあがるように作られている。
通常の日記に加えて、速記文字で記述される日記、蠟管録音と録音方式で残された日記も出てくる。

「ええ、私はいつも蠟管で日記をとっておくのです」(中略)「まあ、私は速記術で日記を書いているんですけど、私、負けましたわ」

日記だけではない。
女友達同士でやりとりされる手紙、その他の登場人物間や登場しない人物との間で交わされる手紙、あるいは新聞の切り抜き、そして電報。

そうした記録の集積によって物語は進行していくが、ドラキュラは姿を現わすのは、彼がまだ吸血鬼であるとはしれない冒頭の方がほとんどで、それ以降は時折、姿を現しては霧のように消えてしまうだけだ。

それでも、この小説がドラキュラをめぐる小説たりうるのは、姿がみえないドラキュラのことについて主人公たちがああでもないこうでもないと考え、議論を繰り広げるからに他ならない。
そうした会話や頭のなかの思考としてのみあるのであれば、ドラキュラは文字通り、変幻自在で神出鬼没な存在としてあり続けられる。だが、その思考や会話がテキストとして記録されることで徐々にではあるが、固定化されていく。

冒頭、トランシルヴァニアの山中にある荒れ果てた古城で客であるジョナサン・ハーカーに姿を見せていたドラキュラ伯爵が、ロンドンに移ってからは気配のみで姿を見せなくなるのだが、彼についての記録が蓄積され、もともとは個人的な日記であったり、または閉じた個人間で交わされていた手紙が、タイプライターによって書類に落とし込まれ、その書類が主人公たちの間で共有されるようになると、徐々にその曖昧な存在を露呈するようになってくる。

「これ全部、私に写さしてくださいましね。ヘルシング教授がお見えになったら、お目にかけたいと思いますから。私、さっきジョナサンに、ロンドンへ着いたら、すぐにこちらへ来るように電報を打っておきましたの。この事件はとくに日付が肝心ですから、資料が揃ったら、それをすっかり日付の順に整理したいと思って。さっきのお話ですと、あしたはゴダルミング卿とキンシーさんもお見えになるのですから、私、お話しできるように準備しておきますわ」

現代においても、口頭だけのやりとりより、なんらかの資料としてまとまった記録があったほうが、実際に自分がまだ見たことのない事象を理解するのは楽になる。それと同じように各自それぞれの体験し見聞した事柄を「日付の順に整理」して資料にすることで、何が起こったかは随分と把握しやすくなる。
それで不定形なドラキュラにも、形が与えられていくというわけだ。

1897年発表のこの小説がドイルのシャーロック・ホームズのシリーズと同時代のものだったことを忘れてはいけない。奇怪な事件の謎を明らかにし、それが吸血鬼ドラキュラの仕業であるとわかってその退治に向かうストーリーの流れは、怪奇小説であると同時に、推理小説でもある。
ホームズが集めた情報を科学的、論理的に整理・分析していく推理によって事件を解明したように、この小説においても、日記や手紙の記述を「丹念に読んで」、「自分の前にある事実を偏見なく考える」ことによってドラキュラの追跡を可能にする。

調査の拠点。ドラキュラ伯爵の問題は、彼自身の立場にもどって考えるべきである。(a) 彼は何者かの手で連れもどされるにちがいない。これは明白である。なぜならば、彼が望むままに自分で動く力があるなら、人間になろうと、狼になろうと、蝙蝠になろうと、その他どんな方法でも、行くことができるだろうが、それができないのだから。彼は当然の無縁孤立の状態で、人に見つけられ、人に干渉されることを恐れ、……。

曖昧で不定形なドラキュラという何百年もの昔から生き延びてきた超自然的な存在が、新しい科学、新しい技術によって追い詰められていく。
象徴的なのは、ドラキュラがロンドンからトランシルヴァニアに逃げていく際、彼が昔ながらの帆船で移動せざるを得ないのに対して、それを追う主人公たちは楽々と鉄道で移動して、何日も先回りできてしまう箇所だ。過去から長い時間を生き長らえてきたおかげでさまざまな知識ももつ利口なドラキュラも、複数人の19世紀末人たちの知と技術の結晶によって追い詰められてしまうのだ。

曖昧で不定形なものが、細かく分けて整理し、組み立てていく思考に屈服する物語としても読める。

けれど、書かれたのは世紀末。そんなに単純な構図ではない。
もはや産業革命がもたらす変化にも、啓蒙主義的ななんでも科学的、論理的に明るみに出しさえすれば人間はどんどん良くなっていくなんて単純な思考が信じられなくなり、世紀末という終わりと、未知の新しい世紀のはじまりを前に、さまざまな見通しを失っていた時代である。
ホームズにおそろしい謎を解いてもらうことを期待すると同時に、そのおそろしい謎そのものにも魅力されていた時代だ。単純にドラキュラを忌み嫌って、科学的・論理的思考の勝利を描いた作品になるはずもない。

そもそも主人公たちのうち、2人は医師であり、科学的な視点をもっている。だが、この事件を吸血鬼の仕業だと見抜くのも医師のうちの1人である。科学という視点にこだわれば決して導きえない推理を導くことができたのは、もう1人の医師、そして、自分の教え子である若い医師にこう言えるような人だったからだろう。

「ではわしの主旨を教えよう。それは、きみに信じてもらいたいということだけだ」「何を信ずるのですか?」「きみが信じられないことを信ずるのだ。あるアメリカ人が、信念というものを『人間が真実でないと知っているものをわれわれに信じさせる力』だといった」

そういった彼であるヘルシング教授は、「科学の欠陥」として、「人の説で知ったり、人の説で考えたりするために、肝心のその人間の目で見ないでいることが世の中にはたくさんある」と言い、「幽霊が現れるとか、霊体なんてことは信じやしまい? 千里眼、読心術、催眠術なんてものもな?」という問いに、「ええ、そんなこのらシャルコがすでに充分に証明しましたからね」と答える愛弟子に、「そらみろ。そのとおり、きみは他人の説で満足しているじゃないか」と戒めている。ちなみに、ここでいうシャルコはフロイトの師にあたる人だ。

テクストに明らかにされた人の説で考えてしまう時代だからこそ、その説では信じられないことを、自分の目で見て信じろとヘルシングは言う。それは狭い視点にこだわって、大事なものを見うしなうことの問題を指摘するものだ。

同じ指摘がドラキュラに対しても繰り返される。ドラキュラの行動を読もうとする際のことだ。

「そこで彼は犯罪者ですから、勝手者です。彼の知性は小さく、彼の行動はわがままに基づいていますから、彼は1つの目的に自分を閉じこめて、そこより外へ出ません」

1つの目的に自分を閉じこめる、わがままさ、小ささ。それによって考えが固定され、変化する状況や現実に起こっている事柄を見失わせてしまう。これは「区別するか混ぜちゃうか」でも書いたように日常的なレベルにでも出会う。
そして、その小ささな範囲で固定的な思考を展開することは、まわりも自分も悪い方向に向かわせてしまう。

この台詞に続く「その目的はじつに残忍非道です」は、自分を小さく閉じ、わがままになっている際の誤った目的設定をよく言い表していると思う。

このすこしあとに続く、ヘルシング教授の台詞も、こうした状態にある人をよく表しているようだ。

「彼の小児的頭脳は、ただ遠くのほうを見るだけだ。どうも悪いことをするやつは、自分勝手な、都合のいいことばかりを考える。そして、これが悪いことをするやつの致命的な傷になるものらしいね」

この狭い視点がドラキュラを致命傷に導いた。けれど、この思考を固定化する視点の向け方こそが、テクストによる記述、データを重視する科学的な視点であり、すなわちドラキュラを追い込んだ主人公たちの姿勢そのものでもある。

高山宏さんは『殺す・集める・読む』所収の「テクストの勝利」で、この小説のことを書いている。だが、そこでの指摘は必ずしも「テクストの勝利」という読みでは決してない。むしろ、合理一本槍になってしまった文化への世紀末的な懐疑の視点をこの小説のドラキュラ対近代の構図のなかに読みとっている。

さて、あなたは「信念」を持っているだろうか?
信じられないものを信じる力をもつこと。それが曖昧模糊として変幻自在、神出鬼没な何ものかを捉えて、その価値を自分の言葉で明らかにする唯一の方法なんだけど。

もちろん、一度つかまえたつもりのものが雲散霧消しても必要以上に悔しがることはない。そうしたら、もう一度、別のやり方でつかまえればいいのだから。

P.S.
続いて、フリードリヒ・キットラーの『ドラキュラの遺言』を読みはじめた。

そのなかで、こんな記述がある。

ストーカーは1893年に心理学研究協会において熱狂的に受け入れられたフロイトのレポート『ヒステリー現象の心理的機制に関する暫定的報告』から着想を得たという。実際これはそうである。人々を、たとえそれがただの事務職員であろうと小説の登場人物であろうと、「森林の向こうに隠れた土地」トランシルヴァニアへと送り込むなどということは、エスのあったところに自我が生じる、ということを聞いたことがなければ思い付くはずがないのである。

そう、ストーカーはフロイトと同時代のものである。

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