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モノたちの宇宙/スティーヴン・シャヴィロ

僕らの生きる世界はさまざまなモノが複合的に重なりあって構成されている。

それは家やスマホや衣服や食物やペットや水や空気のような物理的なモノだけではない。家族や企業や部活や学会や議会などのさまざまなコミュニティや組織のようなものもあれば、法律や学問分野や、数字や言葉や通貨などの物理的な形をもたない概念やしくみもモノといえる。美術作品や音楽作品、料理の種類、あるいは、さまざまな素材や部品などの人工的なもの、血液や細胞、DNA、分子、原子、電子、ニュートリノ、あるいはダークマターやダークエネルギーまでの非人工的なものまで、さまざまな要素が組み合わさり、ときには集合体として動きつつも、個別の要素としての独立性を維持しながら世界そのものをつくりだしている。マヌエル・デランダが『社会の新しい哲学』書評記事)で描いた集合体をさまざまなモノが形成し、その集合体そのものもモノとなる世界。
それが僕らの生きる宇宙である。

けれど、僕らはその世界=宇宙を、人間中心に考えすぎてしまっている
そう、指摘するのが、スティーヴン・シャヴィロの『モノたちの宇宙』だ。

シャヴィロはこう書く。

科学の実験や発見の光に照らしてみても、人間中心主義はますます支持できないものになっている。今やぼくらはこの地球上の他のありとあらゆる生きものとどれほどぼくたちが似ていて緊密に関係しているかを知っているので、自らを他に例のない独自の存在と考えることはできなくなっている。だから、ぼくらは、その境界をとうてい把握しえない宇宙において、コスミックな尺度で生起している様々な過程と、自分たちの利害や経済を切りはなすことはできなくなっている。

人間は自分とモノとの関係を考えることくらいはたまにしても、モノと別のモノとが互いにどう思っているかを考えてもみない。人間のことばかり考えていない人でさえ、人間だけが他のモノについて考えていると思っているのではないか。

「人類」は万物の尺度ではない」とシャヴィロは言う。

ぼくらは普通、この世界をぼくら自身にあらかじめ課された概念によって把握する。この世界におけるモノたちの奇妙さ=異方性にいたるためには、つまり、ぼくらに「措定され」たり、「与えられ」たり「提示され」たりすることなくモノたちが存在する仕方に行き着くためには、この習慣を打ち破る必要がある。

カントが物自体と人間の間の断絶を指摘して以来、人間が扱えるのは自らの思考に登ってくるモノの表象だけになってしまった。
しかし、カントが忘れていたのは、モノ自体に接することができないのは人間だけではないということだ。モノ同士も他のモノには同じように接することができない。シャヴィロが指摘するのはその点だ。

そして、同時に人間がモノを知る以前に感じている、刺激されているように、異なるモノ同士もモノに影響を受け続けているし、むしろ、人間も含めて、モノ同士は常にモノにとってのモノという関係にある。

ハーマンの主張では、あらゆる存在者は道具存在である。そのうちどれ1つとして単に目の前にある存在やただの諸属性のリストに還元しえない。(中略)道具は当たり前のものとして受けとられ、大抵の場合、ぼくらはこれらの道具に対象として気づいてもいない。ぼくらは道具の効果に寄りかかっており、道具の効能がそれじたい連携=同盟や媒介関係、回路からなる膨大なネットワークの帰結であるという点を忘れている。

ここで言及されるハーマンは、オブジェクト指向実在論を展開するグレアム・ハーマンのこと。いま、そのハーマンの『四方対象』を読み進めているが、ハーマンはハイデガーの道具分析を考察しながら、次のように書く。

ハイデガーにとって道具とは、孤立した存在者として存在するものではない。実際、道具の外形は、それ自体、他の存在者を考慮した上でデザインされている。例えば、「屋根付きのプラットフォームは、悪天候を考慮しており、公共の照明設備は暗さを、というよりむしろ陽の光が一定の仕方で変化し現れたり消えたりすること--つまり「太陽の位置」を考慮している」。

しかし、これはあくまで人工物のデザインの話であって、本来のモノとモノとの関係はこんなにも整合のとれた関係ではない。
ハイデガーの道具分析では、道具はそれが有効に機能している状態では存在が忘れられていて埋没している。道具が姿をあらわすのは、それが壊れて機能しなくなったときだというのが、ハイデガーの主張だ。つまり、道具が対象として存在するのは、その関係が通常とは異なる状態になったときで、何らかの形でデザインされた状態を維持できなくなったときである。
ようするにデザインするということは、対象を意識の外に追いやるということでもあり、何らかのものの意味を知るということ自体、世界を自分に都合よくデザインされたものに貶めてしまうということに他ならない。

しかし、そうした人間的視点の外において見れば、そこにある「連携=同盟や媒介関係、回路からなる膨大なネットワークの帰結」は、お互い直接的には触れ合うことのないモノ同士の相互作用の偶然性によるものだと言えるだろう。

この偶然性は、カンタン・メイヤスーが『有限性の後で』で展開する思弁的実在論の主張に重なる。

けれど、そのメイヤスーや先のハーマンを含む思弁的実在論を代表する4人は、「実際、かなり立場を違えている」とシャヴィロは指摘する。それでも彼らに共通するのが、

カンタン・メイヤスー、レイ・ブラシエ、グラハム・ハーマン、イアン・ハミルトン・グラントという4人の思弁的実在論の創始者たちは全員、メイヤスー呼ぶところの相関主義を受け入れない。

という点で、ゆえにシャヴィロは、「カントにはいささか申し訳ないが、ぼくらは自分自身の思考の外で思考しなければならない」と、カント以来の哲学の人間中心主義的なところを他の思弁的実在論の思想家たち同様に批判するのだ。

もっと一般的に言えば、相関主義が何らかのたぐいの思考の外部性--カントの物自体や現象学的な志向対象、あるいはラカン的現実界(現実的なもの)--をまさに措定する場合であっても、この外部性は依然として「われわれの関わったままであり……この外部性の空間はわれわれに面するものの空間、われわれ自身の存在の相関項としてのみ存在する何かの空間にすぎないのだ」。相関主義にとって、この世界そのものは、ぼくらに世界が「与えてられているということ(贈与、所与性)」に根ざしている。

この世界が「与えられている」という見方こそ、人間中心主義以外のなにものでもない。世界が人間に与えられていると考えるとき、その世界を人間とともに構成している、さまざまなモノたちそれぞれにとっては世界は同じように与えられているのだろうか。
ほかの動物たちにとって、木々や草花などの植物にとって、石にとって、コンクリートにとって、鉄骨にとって、空き缶にとって、水の流れや燃えさかる焔にとって、世界は与えられているのだろうか。そのとき、世界とは、宇宙とは何を指すのだろうか。お互いのことを知りえないモノたち同士によって構成される宇宙を「与えられている」と考えることなどできるのだろうか。
それが本書が示す新しい宇宙認識だろう。

いや、認識というのはすこし違う。

月は、ぼくらが月について知っている--知らない--ことがらに関わりなく、絶え間なくぼくらに影響を与え、触発し、何らかの効果をおよぼしている。月は、たとえそれが「隠れている」さいにもぼくらに影響を与える。つまり月が人間に全く関与せず、明らかにこちらに向かっていないときも、月はこちらを触発する。月があらかじめぼくらに影響し、変化をおよぼすさいの様々なやり方を事後的にぼくらが認知している場合も--あらゆる場合というわけではないが--おそらく多々あるかもしれない。しかしながら、月が人間におよぼす影響は、ただこういった点に限ることはできない。ゆえに有限性とは、月についてのぼくらの知識には限度(リミット)があるということだけでなく--より重要なことに--ぼくらが月から独立してあるということについても制限(リミット)があることも意味している。言いかえれば、おそらくいかなる対象も他のあらゆる対象から認識論的に「ひきこもって」いるにせよ、諸対象が存在論的かつ美的に互いに隔てられたまま「防火壁の陰にこもっている」ということでは必ずしもない。

認識の観点からは、モノたちはお互いに引きこもり、ほかのモノたちについては知りようがない。けれど、存在論的観点からはまったく別の見方になる。それはむしろ隔てられてあることができず、個別に引きこもることなどなく、互いに干渉しあった状態に常に置かれているのだ。

そんな宇宙のなかに僕らは存在するのだということを、本書はあらためて気づかせてくれる。


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