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「旅する土鍋2018」ねこまんまとパッパ

“イタリアは食材に恵まれているから何でもおいしいのよね” つい言ってしまいがちな言葉だが、海外至上主義に向かうべからず。同じ食材や味を求めたり、レシピを極上になぞらえようとするから「ムリ」が発生するわけで。それは日本に住みながらつくる毎日の食事、そして生き方も同じ。

おいしいものだけでなく、モノをつくるのも同じ。

少し前も書いたが、なにを求めて我を批判し、至上主義に迫るのか。なにを求めて自虐的になり、差異を認めず同質社会に安心するのか。突出をゆるし、個性をみとめれば、そこにシンプルが生まれるのでは。→「旬に満ち足りた料理」


写真:ミラノの朝市で買った
粉屋のおじさんニョッキ


私らしくはシンプルに至り

どの国でも、ふだん着の生活のなかにいると、シンプルであることにホッとする瞬間が何度もある。

写真のニョッキだって、家でジャガイモつぶしてつくれるけれど、時間がなけれ買えばいい。ニョッキは塩おむすびを買うようなものかもしれないけれど、イタリアにて彼らは嘆くどころか、おいしそう!と存分に褒めるか、またはパンさえあればいい、ムリするな、がんばるなと言う(幸い我が家も同じ)。

茹でたパスタ(ニョッキも同様)を皿にとりわけ、個別にオリーブオイル垂らしてパルミジャーノ削るだけのパスタビアンカを前に「ご飯にふりかけ」ってところだなとニマニマしたり、カチカチになったパンをスープに浸したお粥的なパッパ(※幼児語でまんま)を食べながら、まさしく「ねこまんま」だ!と思ったり、パンとチーズしかない晩だって「ごはんとお漬物」のようで最高!などと、ひとりごとを言いながら、ボナペティートの前にオッティモ!(最高!)と小さく手をたたく。シンプルはなによりもホッとするし、その相(姿)はどこにでもある風景なのだ。

写真:マルケ州の食事会にて 
白玉は「米のニョッキ」
あんこは**「小豆のジャム」 **


「無相」というシンプルの極致

それでも本音をいえば、「ねこまんま」よりイタリアの「パッパ」のほうが見栄えいいしステキだわ!という感情が湧かないこともない。そんなときは、滋味深いあの言葉を思い出す。

シンプルな和食に対してイタリア人が言ってくれる「ZENだね」という一瞬とまどってしまう褒め言葉を。90年代のほとんどを過ごしたイタリアで、その本意を考えようと試みたこともあるが、まだ青く硬かった頭はそれを考えることさえやめていた。

その後も、宗教をきちんと学んだわけでもなく、あいかわず無宗教であるが、時を経て、唯一知っている禅宗の3つの心境「無相」「無住」「無念」が頭を浮遊するような年齢になった。

土鍋で日本食をふるまうときは、なるべくシンプルな料理を心がける。保守的なイタリア人は、なにがどうなっている料理か知りたがり屋だし、凝ったり、がんばったりするのも、されるのも好きでないから。


ひとつの相(姿)に留まるべからず

「無相」とは、他と自分をくらべたり、境をおいて自分の立場をまもろうとすることを取り払い、一切の執着を離れた境地を築けという説教のひとつ。料理はもとより、ものづくりに重ねると、結果それらはとてもシンプルになる。今のおいしさをかみしめること。こんなシンプルな人生こそ、美味である。


そんなことを考えるのにイタリアで読んだ本
「LO ZEN E L'ARTE DI MANGIAR BENE/SEIGAKU」
(禅と食の作法/SEIGAKU)

amazon.itより



INFORMATION

我妻珠美 展-秋を炊く-
2018年 11月16日~11月24日 
東京都中央区銀座1-9-8 奥野ビル4F
Ecru+HM(エクリュ+エイチエム)
10年以上企画して下さっている老舗ギャラリー

詳細: tamamiazuma.com











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