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中学の僕がダルいと思った文章を自分で書いている件

僕は昔から国語が嫌いで苦手だった。苦手だから嫌いだったのか、嫌いだったから苦手だったのか。とにかく国語の時間は学校だろうが塾だろうが憂鬱ゆううつだった。

幸い、国語の先生とは仲が良かったので、授業中に先生と積極的に話したり、それっぽい質問をしたりして、時間を潰しつつそこそこの成績をもらうという感じで逃れていた。

数学とか化学とかが好きだった僕がなぜ嫌いだったのかというと、シンプルに面白みがないからだ。文章を読むのはめんどくさいし、人の気持ちとか知らんわ!というのが当時の僕だった。

「なんでそんなにめんどくさい言い回しでわざわざ言うのだろう。」
「もっとシンプルに簡単に言ってくれればいいのに。」
「この文章ダルくね。」

日本語が兼ね備えている表現の豊かさや美しさを僕は理解できなかった。

こんなだからもちろん本なんてめったに読まない。夏休みに出る読書感想文の課題図書すら読まなくて、夏目漱石の「こころ」は読んだフリしてそれっぽいことを言ったら、先生にバレてつっこまれクラス中で笑われた。

文章からストーリーを想像できないし、読むのも遅いのでなかなか進まない。次に読む時にはそこまでのストーリーを忘れていて、また前回のおさらいから入り、、、、と、ここで毎回ギブアップ。ただでさえ本が嫌いなのに、こんな調子なので国語ができるようにも好きになることもなかった。

そんな僕が本を読むようになったのは大学1年生の頃。大学に対するモヤモヤなのかなんなのかは分からないが、「このままでいいのだろうか」という謎の焦燥感が僕に本を読ませた。初めて自分のお金で買った本は「ブレイン・プログラミング」だった。気がする。

相変わらず読むのは辛かったが、謎の焦燥感と自分のお金を払ってまで買って損したくないという気持ちが何度も僕を本に向かわせ、なんとか読み切ることができた。

本を読み終わった後の見える世界の変わりように驚き、また次の本を求める。こうして僕は徐々に徐々に(ビジネス書や自己啓発本と言われるジャンルではあるが)本の世界の魅力に気づき、読むようになっていった。

今の僕は本を好きで読んでいるのか、それとも実利的な動機で読んでいるのか、きっと後者の方が強いが、それでも読書に対する抵抗は減り、昔に比べたら好きになった方だと思う。今、中学や高校に戻って現代文のテストを受ければ、当時よりは点数がとれるのだろうか。

と、そんなこんなで国語が苦手で嫌いだった僕が、本を読むようになり、こうして文章を書いて発信するようにまでなっている。驚きだ。

そこで思い出すのが、中学の僕が当時抱いていた「なんでそんなにめんどくさい言い回しでわざわざ言うのだろう。」「もっとシンプルに簡単に言ってくれればいいのに。」という問い。なにやら小難しい言葉を並べてわかりにくい表現の文章を書くようになったこのタイミングで、当時の自分に向けて答えてみたくなったので手を走らせることにした。




・・・




基本的に人は歳を重ねるとどんどんこじれていく。プライドとか見栄とかそういったやつがまとわりつき始めるのだ。

小難しい言葉を使えば少し賢く見られるし、複雑な表現を使えばこの人は言葉が堪能で表現が豊かな人なんだなと思ってもらえる。基本的にはこの「どう見られるか」「どう見られたい」という感情が僕らの文章を難しくしていると捉えていいだろう。

一方で、詩や短歌のようなものが日本では昔から歌われていたように、日本語の表現の豊かさを遊んだり、美しさを求めたりするのも文章の魅力である。かつて夏目漱石が「I love you」を「愛してる」と訳さずに「月が綺麗ですね」と訳したのは有名だが、こうした言葉遊びを面白がり、そこに美しさを見出す人もいるのだ。

そもそも言葉というのは完璧ではない。世界には言葉じゃ表現できないようなもので溢れている。だから僕らは絵を書いたり、踊ったり、他の表現方法で何か言葉では伝えられないものを表そうとする。僕らが生きている世界が思っている以上にカオスだから。

「世界は〇〇だ!」と断言できるほど世界は単純にできておらず、たくさんの矛盾や解明できない謎の中に僕らは住んでいる。それをどうにか言葉という不完全なもので表そうとするとき、どうしても小難しいものになってしまうのだ。

逆に、わかりやすくて簡単な文章の裏側には何かの思惑が隠されていると疑ってみる必要があると僕は思っている。ビジネス的な思惑なのか、スピリチュアル的な何かなのか。




・・・




何度もいうが、世界はそう単純にシンプルにはできていない。カオスで溢れている。勉強すればするほど、矛盾する情報に出会い、まだ頭の整理がつかないうちにまた新しい情報が入ってくる。そうして、頭の中にカオスが構築されていく。

インプットの量が少ないうちは大丈夫だった。しかし、読む本が30冊、40冊を超えてきたあたりで、カオスに冒される。その頭の中のカオスを少しでも片付ける為に僕はこうして文章を書くようになった。

アウトプットの形は、動画でも音声でもなんでもいいが、僕にとっては文章がいちばん適している気がして、文章として自分の外側に吐き出すことで、頭の中のカオスが少しずつ整理されていく。それはまるで絡まった毛糸がほどけていくように。

あらゆるジャンルからインプットした複雑に絡まった情報やらノウハウやらを、どうにか自分なりの理論にしてまとめたり、データベースとして整理することで、カオスから少しだけ抜け出し、澄んだ世界を眺めることができる。

きっと中学の頃の僕には分かってもらえないだろうが、これが10年前に僕が国語に抱いた疑問の答えだ。



かくいたくや
1999年生まれ。東京都出身。大学を中退後、20歳で渡独するもコロナで帰国。鎌倉インターナショナルFCでプレー後、23歳で再び渡独。渡独直後のクラウドファンディングで106人から70万円近くの支援を集め、現在はサッカー選手としてプロを目指しドイツ5部でプレー。好きなテレビ番組は『家、ついて行ってイイですか?』『探偵!ナイトスクープ』

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