けが

生きてく命綱

こうして毎日文章を書くようになって、もう2年と3ヶ月ほど経つ。

文章を書くようになって得たメリットは沢山あるのだが、面白いことに一番良かったと思うのは「文章では言いたいことがほとんど伝わらない」という現実だ。
それを見聞きしただけでなく、体感できたのは財産である。

同じことを何回も表現を変えて言い続けなければいけないし、何回も同じことを言っていいのだ。

「伝達力」というのは格ゲーのハメ技のようなものだ。あらゆる角度からやりまくって、ようやく伝わる。たぶん、質より量だ。質もゼロだとダメだけども。

生まれてきてから「伝わらなかった」という力量不足で大モメになったことがドッサリある。ドッサリすぎて、僕はある日から「伝わらなくて当然」とすら思うようになった。

というか「伝わる」ってそれぐらい奇跡なのだ。世の中は伝わらない状態で、進んでいるカップルや企業ばかりだ。伝わらなくてもなんとかなるし、もし伝わったらハンパないぐらいゴキゲンな日々がやってくるのだ。

でも重要なのはドッサリの失敗があってこそ、それに気づけたことだ。

あのときムカつき狂ったことが、落ち込みまくったことが、もう死んじゃうか、ぐらいまでいったことが今の自分をガッチリ支えている。

この「伝達の難度に対する認識」みたいなものが無かったら、僕は今マトモに生きていないと思う。この能力は「1,000~1,500万円で買う」というひとがいてもきっと売らない。それ以上の資産価値があるからだ。

もちろんこれまた「僕の場合」だ。ひとによっては伝達に対してそこまで意識を向ける必要もないだろう(社会動物である以上、伝達スキルのは凡庸性は高いが)。

僕にとっての命綱がこの「伝達の難度に対する認識」なのだ。

「これが俺の命綱やで」というものがひとによって違う。命綱とは資本社会的に言えば食い扶持だ。

いろんな意味合いの「大人になる」があるけど、「大人になる」ってことは「子どもではない」ということだ。逆説的に考えれば子どもでないなら大人なわけだ。

年齢もそうだし、法規的にもそうだし、異性を知っているか知らないかでもそうかもしれない。

じゃあこの「命綱の使い方、力学が分かるようになって実践できるようになる」もひとつの「子どもとの違い」かもしれないなぁと。

やっぱり成人してから何回だって「大人になった」と思いたいではないか。その回数が多い方がなんだかいい気がするのだ。

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