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篠田節子の小説が面白すぎて、noteを1ヶ月ほど休んでいました。

篠田節子が好きです。

素晴らしい小説の文章に心地よく浸っていると
自分の書く文章がなんだかひどく拙く思えてきて、
書くことから少し距離を置いていました。

プロの小説家と比べるなんておこがましいと感じつつも
小説に綴られる艶やかな美文を目の前にして
一旦、これを味わいながら脳内に埋め尽くしてみて
良い感じのチューニングが起きれば幸いと

ここ1ヶ月は
ずーっと篠田節子の小説を読み耽っていました。

というか面白すぎて止まらなかったです。

表紙画像の右端「弥勒」から読み始めて
「ホーラ-死都-」を読み終えて
一区切りした感覚があったので

くすぶっていた「表現したい欲」みたいなものを
引っ張り出してみたくなりました。

篠田節子の小説にどっぷり浸かって見えてきた
私の考える「小説の面白み」を表せたらと思います。

この記事では、
篠田節子著「弥勒」集英社文庫より、
僕が読み返すべくページを折った、
すげえと思った部分から厳選して引用しつつ
彼女が表した底知れない小説の魅力を
浮かび上がらせてみたいと思います。

小説を読み、書き、愛する人の
何かの参考になれば幸いです。

本記事は、約4500文字あります。

「まとめ」では本書との不思議な出会いを書きました。



「弥勒」

以前にも、noteのつぶやきで触れましたが
この小説のおかげで、忘れていた面白さを
思い出しました。

タイトルの「弥勒」は、
弥勒菩薩の彫刻を表してます。
その美麗な仏教美術を多く有する
架空の小国・パスキムへ、
主人公は密入国していく。

半ば鎖国状態のパスキムは、情報も限られたものしか
公開されておらず、ほんの一部の観光地にしか
入国を許可されない。
徐々にあらわになっていくパスキムの内実と
進行中の革命、政変、動乱。
その渦中に巻き込まれる主人公の
深すぎる心の変容のさま。

ページをたぐる手が止まらなくなるのは、
一つに篠田節子の圧倒的な「文章力」によるものだと感じます。

パスキムの複雑な「政治制度」とそれを下支えする
重厚な「思想」、それぞれの「対立」が、
鮮やかな筆致で骨太感をおおいに残しつつ表現され、
脳に心地よく染み込んでいく具合。

今まで感じたことのないような
不思議で絶品の読書体験でした。

その一部を引用します。

革命の理由

パスキムに密入国した主人公・永岡は
革命軍に捕虜として捕らえられる。

首都・カターに住んでいた国民も同様に
捕らえられていて、貧しく過酷な環境で
強制労働をさせられる。

永岡が機会を得て、革命軍の長・ゲルツェンと
対話する場面。
ゲルツェンは永岡に、
パスキムで革命を起こした理由を語る。

「アメリカから戻った後、私は二年間、ピティにある僧院に入った。アメリカの文化に触れその行き詰まりを肌で感じた私は、もう一度、パスキムという国の心、無執着と慈悲の心とは何なのかを自分に向かい、問い直したかったのだ。しかし僧院が、私の期待したようなところでないということは、すぐに思い知らされた。それはアメリカ社会以上に、腐敗した世界なのだ。仏教司祭と、高僧、僧院長、そして多くの修行僧が、カターの町の人々が周辺の村から吸い上げて蓄積した富に群がり、急な山の斜面を切り開いて作った畑から農民が収穫した米や豆を吸い上げてきた。パスキム仏教だけではない。 ヒンドゥー教もチベット密教も、カターの町にあるあらゆる寺の内情は同様だ。違いはその形式だけだ。迷信に人々を閉じこめ、地獄に落ちると脅迫し、あらゆる穀物を奉納させ、厳しい気候の中で農耕さえままならぬ牧畜民からは、来世の幸福を保証するという言葉によって、貴重なバターを取り上げて燃やす。無執着であるべき彼らの財への執着ぶり、そして人を押し退け、だまし、自分と自分の近親者を高僧の座に座らせようとするあさましさ⋯⋯。
王朝と僧と、新貴族であるところのカター市民が、このヒマラヤの懐に抱かれ、天の恵みのもとに真面目に慎ましく暮らす人々から搾取し、築き上げたのが、あなたの称賛するパスキム文化とカターの風俗であり、美術品であり、宗教や哲学なのだ」
永岡は、黙りこくった。自分がなぜあのとき、日本に真っすぐに戻らず、違法に国境を越えてここにきたのか、自分が日本の生活に抱いていたいらだちと疑問への答えの一部がゲルツェンの言葉に含まれていることは確かだったが、それは到底認められるところのものではなかった。

篠田節子「弥勒」集英社文庫

具体的にわかりやすく、過不足ない言葉で
パスキムの腐敗ぶりを表す。

このセリフに至るまでの
折り重なる布石も周到だし
架空の国のはずなのに、
実在感を含んで強くリアルに迫ってくる感じ。

永岡が黙りこくった理由が、
僕にもなんとなくわかる気がする。

私たちの心の中枢に、もしかしたらあるかもしれない
わずかな「革命の因子」みたいなものを
刺激して、くすぐって、その存在を示されたような気もしてきて、
恐ろしい。

引用したのはほんの一部で、
本編の大部分では、それぞれの立場の「思想」が
具体的にあらゆる角度から表され、ぶつかり合い、
主人公はその渦中に投げ込まれることによって
人間が持つ深い闇と、平和を望む強い執念を
ありありと見せつけられ、翻弄されていくのです。

明瞭で美しい文章でその物語が綴られるので
するすると深淵まで連れて行かれてしまいます。

秘仏

また、美しい文章という意味で、
際立ったところを引用します。

その主人公がパスキムに密入国するきっかけになった、
美しい「弥勒」の彫像に出会う場面。

外国人はおろか、国民や国王でさえ見ることのできない
秘仏中の秘仏。

革命の動乱の中、アディ尼僧が
命がけで守った「弥勒」の彫像に、
永岡は幸運にも巡り会う。

床の汚物を避けながら、永岡は一番奥の三つ目の塔に近づき、扉を開けた。
直径一メートルほどの内部に、懐中電灯の明かりが入ったとたん、目がくらんだ。金箔の貼られた内壁が明かりを乱反射し、その中央でさらにまばゆく弥勒が輝いていた。
しばらくは息をつくことさえできなかった。 これほどに美しい物を、永岡は見たことがなかった。 ほっそりした腕、緩やかな曲線を描いてわずかにひねった胴体、息苦しさを覚えるほど繊細な彫刻が施された衣。黄金色の蜘蛛の糸で織上げたようなその質感と、そこに縫い止められたかのように見える血の色をした珊瑚、トルコ石の衝撃的な青、そして真珠の純白。宝冠を被った頭部は、やはりチベットともインドとも異なる典型的なパスキム様式だ。ガンダーラ仏に近いほっそりした輪郭、高い鼻筋。そしてガンダーラ仏とは異 なる神秘な曲線で描かれた上瞼。両端を引き上げた唇は、永遠の微笑を浮かべている。
永岡は、恐る恐る手を伸ばした。高さにしてわずか七十センチ。台座を入れなければ、 せいぜい六十センチ。衣に包まれた下肢の部分を摑み、手元に引く。しかし動かない。 力任せに動かしてみたが、びくともしない。この塔に台座が固定されているのだ。
永岡は塔を飛び出した。アディ尼僧を救い出したときに、漆喰で固められた扉を破った鉈が、そのまま外に転がっている。それを拾い内塔に戻る。慌てて入った拍子にアディ尼僧の排泄物を踏んだが、そんなことにかまってはいられなかった。 鉈の柄を握りしめ、注意深い一撃をその台座に加えた。

篠田節子「弥勒」集英社文庫

ため息が出てしまいました。

至高な美しいものを、
極に洗練された言葉で描かれると、
これほど美しいと感じてしまうのか、と。

見たことのない、想像上の代物が
文章によって脳内に描き出されてしまう魅惑。

とくに
「金箔の貼られた内壁が明かりを乱反射」
「黄金色の蜘蛛の糸」
「血の色をした珊瑚」
「トルコ石の衝撃的な青」
「真珠の純白」・・・
色の彷彿が目覚ましく
視覚野をせわしく刺激されるよう。

言葉、文章、小説に跨って
底知れない可能性を感じてしまったシーンでした。

あなたはどう感じたでしょうか?

運命

この美しい「弥勒」が物語上
絶妙な位置で象徴的に機能していて、
ラストの滋味豊かな展開に、おおいに効いてくるのです。

日本に帰るべく、命からがら
革命軍の隙を見て、インドとの国境付近まで
逃げ果せた永岡は
地雷を踏んで片足を失う。

気を失うことさえできないことを彼は呪った。脈打つ度に、失った足から頭にまで上ってくる痛みに、永岡は脂汗を垂らして耐え、これといった信仰もないまま、傍らの弥勒菩薩に祈り続けた。
弥勒は沈黙していた。苦痛を取り去るでもなく、すみやかな死を与えるでもなく、サンモに姿を変えて寄り添うでもなく、鋳造仏の硬く冷たい感触もそのままに、沈黙して傍らに転がっていた。
やがて陽が昇った。いつまでたっても死ぬこともかなわず、乾いた目で永岡は仰向い太陽を眺めた。自分の意志とかかわりなく、呻き声だけが唇から漏
続けた。
かさりと足音がした。枯草を踏む軽やかな音は、小動物のようでもある。頭上に影が差す。声がした。サンモではない。しわがれた、男の声だった。なまりの強い村の言葉だ。皺に埋まった、なめし革のような老人の顔が、視野いっぱいに広がった。老人は小さく咳をした。ひやりと冷たい唾液が降ってきた。
「だいじょうぶか?」
老人はそう言ったようだった。永岡は助け起こされ、ひょいと背負われた。

篠田節子「弥勒」集英社文庫

運命的に(と思えてしまう)、
革命軍の監視の目から免れた弥勒の彫像は
不思議な求心力を働かせたように
永岡の手に戻る。

沈黙していた弥勒が
傍らに転がった直後、
別の誰かが永岡を「背負う」。

超常的なことが起こるわけではないんだけど
祈りの力が通じたように、
運命が転がっていくバランスが心地いい。

こういう絶妙な匙加減で
物語は進められていて、文章の想起性が
見事に絡み合って、小説を読んでいるときの
臨場感が高まっていく。素晴らしい。

・・・

骨太な思想や政治制度を描く「剛」の感じと
美しい彫刻や町並み、人の優しさを描く「柔」の感じ、
恐ろしく幅の広い文章のニュアンスが
全編を通して気持ちよく展開されていて、

僕が冒頭で触れた
「忘れていた小説の面白さを思い出した」
というのは、
このあたりの、文章だからこそ表しうる
奥行きと含蓄のある表現の嗜みが
そう感じさせたのだと思います。


まとめ


本書を手に取る2日前くらい、
箱庭療法を受けました。

沢山ある人形や物の中から選びとり
左側に見える箱庭へテーマを設けずに
自由に置いて並べ、潜在意識を読み取っていくという
治療法なのですが、

僕がなんとなく手にとって据えたのは

美しい弥勒菩薩でした。

それが影響したのかどうかわかりませんが
そのあとブックオフの文庫本コーナーで
本書「弥勒」を見つけました。

一人の小説家に、ここまで
どっぷりハマったのは久しぶりで
深さでいうと一番かもしれません。

そのきっかけになった最初の一冊は
弥勒が運んでくれた、ご縁のようにも思えてきて
不思議な気持ちです。

冒頭にも触れた通り
篠田節子の文章が素晴らしすぎて
おこがましくも自分の書くものが拙く感じてきて
noteもお休みしてしまったのですが

同時に、文章の底知れない可能性にも
触れた気がして、自分もその世界で参加してみたいとも
思えてきました。

小説を書いています。


最後までお読みいただき
ありがとうございました。






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