篠田節子の小説が面白すぎて、noteを1ヶ月ほど休んでいました。
篠田節子が好きです。
素晴らしい小説の文章に心地よく浸っていると
自分の書く文章がなんだかひどく拙く思えてきて、
書くことから少し距離を置いていました。
プロの小説家と比べるなんておこがましいと感じつつも
小説に綴られる艶やかな美文を目の前にして
一旦、これを味わいながら脳内に埋め尽くしてみて
良い感じのチューニングが起きれば幸いと
ここ1ヶ月は
ずーっと篠田節子の小説を読み耽っていました。
というか面白すぎて止まらなかったです。
表紙画像の右端「弥勒」から読み始めて
「ホーラ-死都-」を読み終えて
一区切りした感覚があったので
くすぶっていた「表現したい欲」みたいなものを
引っ張り出してみたくなりました。
篠田節子の小説にどっぷり浸かって見えてきた
私の考える「小説の面白み」を表せたらと思います。
この記事では、
篠田節子著「弥勒」集英社文庫より、
僕が読み返すべくページを折った、
すげえと思った部分から厳選して引用しつつ
彼女が表した底知れない小説の魅力を
浮かび上がらせてみたいと思います。
小説を読み、書き、愛する人の
何かの参考になれば幸いです。
「弥勒」
以前にも、noteのつぶやきで触れましたが
この小説のおかげで、忘れていた面白さを
思い出しました。
タイトルの「弥勒」は、
弥勒菩薩の彫刻を表してます。
その美麗な仏教美術を多く有する
架空の小国・パスキムへ、
主人公は密入国していく。
半ば鎖国状態のパスキムは、情報も限られたものしか
公開されておらず、ほんの一部の観光地にしか
入国を許可されない。
徐々にあらわになっていくパスキムの内実と
進行中の革命、政変、動乱。
その渦中に巻き込まれる主人公の
深すぎる心の変容のさま。
ページをたぐる手が止まらなくなるのは、
一つに篠田節子の圧倒的な「文章力」によるものだと感じます。
パスキムの複雑な「政治制度」とそれを下支えする
重厚な「思想」、それぞれの「対立」が、
鮮やかな筆致で骨太感をおおいに残しつつ表現され、
脳に心地よく染み込んでいく具合。
今まで感じたことのないような
不思議で絶品の読書体験でした。
その一部を引用します。
革命の理由
パスキムに密入国した主人公・永岡は
革命軍に捕虜として捕らえられる。
首都・カターに住んでいた国民も同様に
捕らえられていて、貧しく過酷な環境で
強制労働をさせられる。
永岡が機会を得て、革命軍の長・ゲルツェンと
対話する場面。
ゲルツェンは永岡に、
パスキムで革命を起こした理由を語る。
具体的にわかりやすく、過不足ない言葉で
パスキムの腐敗ぶりを表す。
このセリフに至るまでの
折り重なる布石も周到だし
架空の国のはずなのに、
実在感を含んで強くリアルに迫ってくる感じ。
永岡が黙りこくった理由が、
僕にもなんとなくわかる気がする。
私たちの心の中枢に、もしかしたらあるかもしれない
わずかな「革命の因子」みたいなものを
刺激して、くすぐって、その存在を示されたような気もしてきて、
恐ろしい。
引用したのはほんの一部で、
本編の大部分では、それぞれの立場の「思想」が
具体的にあらゆる角度から表され、ぶつかり合い、
主人公はその渦中に投げ込まれることによって
人間が持つ深い闇と、平和を望む強い執念を
ありありと見せつけられ、翻弄されていくのです。
明瞭で美しい文章でその物語が綴られるので
するすると深淵まで連れて行かれてしまいます。
秘仏
また、美しい文章という意味で、
際立ったところを引用します。
その主人公がパスキムに密入国するきっかけになった、
美しい「弥勒」の彫像に出会う場面。
外国人はおろか、国民や国王でさえ見ることのできない
秘仏中の秘仏。
革命の動乱の中、アディ尼僧が
命がけで守った「弥勒」の彫像に、
永岡は幸運にも巡り会う。
ため息が出てしまいました。
至高な美しいものを、
極に洗練された言葉で描かれると、
これほど美しいと感じてしまうのか、と。
見たことのない、想像上の代物が
文章によって脳内に描き出されてしまう魅惑。
とくに
「金箔の貼られた内壁が明かりを乱反射」
「黄金色の蜘蛛の糸」
「血の色をした珊瑚」
「トルコ石の衝撃的な青」
「真珠の純白」・・・
色の彷彿が目覚ましく
視覚野をせわしく刺激されるよう。
言葉、文章、小説に跨って
底知れない可能性を感じてしまったシーンでした。
あなたはどう感じたでしょうか?
運命
この美しい「弥勒」が物語上
絶妙な位置で象徴的に機能していて、
ラストの滋味豊かな展開に、おおいに効いてくるのです。
日本に帰るべく、命からがら
革命軍の隙を見て、インドとの国境付近まで
逃げ果せた永岡は
地雷を踏んで片足を失う。
運命的に(と思えてしまう)、
革命軍の監視の目から免れた弥勒の彫像は
不思議な求心力を働かせたように
永岡の手に戻る。
沈黙していた弥勒が
傍らに転がった直後、
別の誰かが永岡を「背負う」。
超常的なことが起こるわけではないんだけど
祈りの力が通じたように、
運命が転がっていくバランスが心地いい。
こういう絶妙な匙加減で
物語は進められていて、文章の想起性が
見事に絡み合って、小説を読んでいるときの
臨場感が高まっていく。素晴らしい。
・・・
骨太な思想や政治制度を描く「剛」の感じと
美しい彫刻や町並み、人の優しさを描く「柔」の感じ、
恐ろしく幅の広い文章のニュアンスが
全編を通して気持ちよく展開されていて、
僕が冒頭で触れた
「忘れていた小説の面白さを思い出した」
というのは、
このあたりの、文章だからこそ表しうる
奥行きと含蓄のある表現の嗜みが
そう感じさせたのだと思います。
まとめ
本書を手に取る2日前くらい、
箱庭療法を受けました。
沢山ある人形や物の中から選びとり
左側に見える箱庭へテーマを設けずに
自由に置いて並べ、潜在意識を読み取っていくという
治療法なのですが、
僕がなんとなく手にとって据えたのは
美しい弥勒菩薩でした。
それが影響したのかどうかわかりませんが
そのあとブックオフの文庫本コーナーで
本書「弥勒」を見つけました。
一人の小説家に、ここまで
どっぷりハマったのは久しぶりで
深さでいうと一番かもしれません。
そのきっかけになった最初の一冊は
弥勒が運んでくれた、ご縁のようにも思えてきて
不思議な気持ちです。
冒頭にも触れた通り
篠田節子の文章が素晴らしすぎて
おこがましくも自分の書くものが拙く感じてきて
noteもお休みしてしまったのですが
同時に、文章の底知れない可能性にも
触れた気がして、自分もその世界で参加してみたいとも
思えてきました。
小説を書いています。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
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