Vol.18 幼少期を振り返る

自分でも驚くほどに2月があっという間に過ぎてしまったことで何も振り返れませんでした。。。世の中はコロナウィルス関係の話題も何かとありますが、ウェディングの世界においても多少影響が出ており、お客様対応もする場面も出てきました。どうなろうと、やることは一つであり、カスタマーサクセスの条件をしっかり考えて行動するかどうかなので、限られた時間を有意義に有効に使う姿勢で日々過ごしています。

今日は今の仕事含め、自分の棚卸をしたいなと思い、少し幼少期のことを振り返ろうと思います。自分にも娘がいることもあり、親としてもどのように育って欲しいかとか色々かんがえるようにもなりました。仕事だけでなくプライベートのこともどんどん文字にしたいです。ちょっと自分の整理のためのテキスト化なので、あまり需要ないかもしれませんが・・。

幼児期

長男として平成1年の時代の変わり目に誕生した私は、両親の愛情をたくさん受けて東京都に住所を、そして父方は山形、母方は新潟のそれぞれの田舎という大変恵まれた環境の中で様々な親族や関わる人との接点を持たせてもらえたんだなというのが今振り返って思うことです。

親族の中でも時代の変わり目での第一子誕生というのはそれなりにニュースとなり、里帰りの夏休みや母が落ち着きたいときによく新幹線に乗せて連れて行ったと聞いています。私は出生体重が4k越えだったので母には生まれた瞬間から申し訳ないことをしたなという想いがあるせいか、幼い頃から配慮はある程度あったようです。笑

1歳ごろをすぎ、言葉をある程度話せるようになった際、私がよく話していた言葉はApple(ITではなく食べ物ですね当時は)という単語と、世界地図に描かれた国旗だったようです。新潟の祖母によく育ててもらっていたのですが、世界地図の周りに世界の国旗がいっぱい書いてあるタイプの世界地図が当時祖母の家の居間にあり、私はそれを見るのがとても好きだったようです。

おそらくその見過ぎのせいなのか3歳の里帰りあたりから祖母は苦悶の表情で世界地図でのクイズ合戦をしていたようです。(その当時の国旗を全て私は覚えてしまっていたようで、本当にごめんねおばあちゃん。)

3歳で弟が誕生してからは、兄としての自覚があったのかはわかりませんがよく弟と行動をしていたと聞いています。昔からレゴブロックで遊ぶのが好きだったのですが、小さな弟と一緒に何かを作る経験は今でもうっすら記憶にあり、兄弟でレゴを使って過ごす時間というのは小学校高学年くらいまで続く面白い伝統になっていました。好きなものに対して夢中になることと、ある程度形にすることが私の得意分野だった気がします。弟は何に対しても夢中になり、職人のような集中力で私よりも独創性と細やかな作品を作ることが得意でした。私は無論嫉妬しました。

私は保育園ではなく、幼稚園での幼少期を過ごしていました。昼間の時間は幼稚園でとにかく外遊びやおままごとも女の子たちとよく遊んでいたようです。幼い頃から先生ともよく話し、友達とも喧嘩もあったようですが、基本的にはうるさすぎないくらいのソフトな感じで、満遍なくコミュニティを築くことが得意だったと先生から後日談で聞いたことがあります。ちなみに当時先生が好きすぎて抱っこを何度も強要していたようです。それを振り返ると今娘が私にしていることは過去の自分と同じだと思うと少し怖い気持ちもあります。遺伝?子供の本質?

好きな遊びはサッカーでした。点を取ることがとても好きだったのと、特に幼少期は足が速い方だったのでたくさん走ることがとても楽しかったです。親が喜ぶことをする、応援されることが好きになったのはこの辺りが特に印象的な気がするのと同時に、勝ち負けが発生することを幼稚園で少しずつ学びました。サッカーだけでなく、ドッチボールやリレー、砂遊びなど様々遊びのフィールドは変わると思うのですが、幼い自分は勝ちたい気持ち7割と、負けた人に対してどうやって接すると良いだろうかということを3割くらい考えていた雰囲気があったとのことでした。いわゆる慰めとか、弱者についても少し考えられていたのは視点としては自己よりも他人に向いていたのかもしれません。

家遊びだと、女の子とたちや、保護者とのおしゃべりというのが私は幼少期から多かったと近所でも評判だった気がします。私は団地住まいスタートなので当時全く気にはしてませんでしたが、親としては団地住まいというのはある程度レッテルを貼られることを意味するとのことで、結構コミュニケーションを気にしていたようです。結果的にどういうわけか、波風を立たせないように空気を読むことが幼少期から環境として察していたようで、挨拶をすること、おやつをもらったらお礼を言うこと、〜〜さんのお母さんと言うこと(おばさんと言わない)、何か普通に会話をすること、日頃の学校の様子を言うことなどを話すと、自然と話しかけてくれることに当時から手応えを感じていました。手応えってなんだろうって感じですけど私はとにかく他者からの評価を幼少期から聞こえてくることに過敏に反応していたような気がしています。

幼少期の記憶としては、母は家で遊んでくれる人、父はどこかに連れて行ってくれる人。そして役割として母が日頃からやや口うるさい人、父が基本甘いが起こるとめっちゃ怖い人。怒られることが嫌いになりました。怒られないように生きることが私の中では大きな軸になる環境となりました。

父とはよく電車の歩道橋に散歩しに行き、電車の流れをただ見ながらきっと何かを話をしていたのだと思います。色が何かとか、空が何か、とか。車庫のある最寄駅だったので、ゆっくり動く電車が私の思い出の情景として強いです。床屋にも幼少期から連れて行ってくれて、ヒゲもないのに髭剃りをいつもしてもらってよく寝ていました。今でも床屋や美容院で寝てしまうのはこの時からの癖です。男同士の秘密としてゲームボーイ(ブロス、でかいやつ)を買って外でやっていた時期が一時期ありましたが、結果的にあれのせいで私の視力はかなり落ちました。。。テトリスとシューティングゲームが面白かったです。

母との記憶は実はあまりないのです。日常に溶け込みすぎていたのだと思いますが、色々遊んでくれたのは覚えているのですが、色濃く残っている記憶があまりないのです。ただ、この母は本来家庭に入るだけでいいと父に言われていたようでしたが、私の家の家計はそんなに潤沢ではない環境だったようで、ずっと悩んでいたみたいです。現実の象徴がきっと子供である私たち兄弟だったのだと思いますが、私たちが反抗的なクソガキだったとしたらこの母はきっと壊れてしまっていたと思うと自画自賛的にいい子だったのかもしれません。近所での付き合いが良い母は、いろんな登場人物を今でも思い起こさせてくれます。アパートの目の前の〜〜さん、隣の誰々さん、などたくさんコミュニケーションを取っており、私もそう言うお茶会に参加をしていたようです。近所に政府関係者も住んでいたのですが、仲良くさせてもらっていた関係でよくお家に招待してもらっていました。お金持ちの一軒家に憧れを抱いた瞬間でしたが、私はよく絵本や漫画を見たり、アニメ映画を見ていたようです。海外物のお菓子はそう行ったタイミングで食べていたようですね。

もう少し記憶はありますが一旦今日はここまで。

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