見出し画像

メモ なぜヒトラーは自分が平和主義者であるかのように振舞っていたのか?

ドイツのアドルフ・ヒトラーは政権を発足させた当初から戦争の準備を進めていましたが、その意図を隠蔽することに用心し、内外に向けて自らが平和を望んでいることを繰り返し宣伝しました。これは戦争の準備に多大な時間を要したためであり、準備が完成する前に外国から攻撃を受けることを避けるという狙いがありました。

1933年1月30日、アドルフ・ヒトラーはドイツの新首相として内閣を発足させ、政権の運営を開始しています。それから3日が過ぎた2月3日にヒトラーは国防軍の首脳を集め、非公開の場で訓示を行いました。

この訓示の中でヒトラーは国防軍の首脳に「全政策の目標はただ一つ」であり、それはドイツとしての「政治権力の奪還」と表現しています(ホーファー『ナチス・ドキュメント』242頁)。「この目標に国家指導の全体が向けられなければならない」と強調した上で、この目標を達成する上で最も重要な前提となるのは「国防軍の建設」であり、「国民兵役義務制を再実施すべきである」としつつも、「徴兵義務者が入営前に平和主義、マルクス主義、ボリシェヴィズムなどによって毒されないよう、また、兵役を終えるまでにこの中毒を解消させるよう、国家指導部が予め配慮すべきである」と思想的な統制の必要を示唆しています(242-243頁)。

ドイツが「政治権力の奪還」を実現した後で何をするのかという点に関してヒトラーは何ら具体的な構想を述べてはいません。ただ、「今はまだ言えない」と前置きした上で、「恐らく新しい輸出可能性の獲得、恐らく――もっと良いことは――東方における新しい生活地域の奪取とその徹底的ゲルマン化」を掲げています(243頁)。ここからヒトラーが経済的利益の追求だけでなく、むしろそれ以上にイデオロギー的野心の実現に関心を持っており、東ヨーロッパの民族分布を自分の思う通りに塗り替えようとしていたことが分かります。

ただし、この政策を実施するために解決しなければならない問題があることもヒトラーは訓示の中で指摘していました。それがフランスの存在であり、もしドイツが再軍備を進めている間にフランスがドイツの意図を察知すれば、フランスは先んじて攻めてくる恐れがあると述べています。具体的には「最も危険なのは国防軍建設期である。その時には、フランスに果して政治家がいるか否かが明らかになろう。もし政治家がいるならば、我々に時を籍さず、フランスから攻撃をかけてくるだろう」と述べています(244頁)。

当時の軍事バランスを調べてみると、ドイツの軍事力はフランスの軍事力にはるかに劣っていたことが分かります。Correlates of Warの物的国力指数(NMC)のデータで確認すると、1933年の時点でドイツ軍の兵員として測定されているのは11万8000名です。同時期のフランス軍の兵員は44万9000名であったので、ヒトラーが政権を成立させた直後のフランス軍はドイツ軍に対して数的な優位があったといえます。これほど圧倒的な勢力比ではヒトラーとしても十分な勝算が見込めなかったでしょう。だからこそ、彼は再軍備を進める時間を必要としていたともいえます。

その後、ヒトラー政権は1934年にドイツに対する警戒感が高まっていたポーランドと相互不可侵条約を締結するなど、早期開戦を回避することに努めました。1935年5月21日の議会演説では「ナチズム・ドイツは心の底からの世界観的確信から、平和を欲する」と述べており、さらに、「我々の全般的な、ヨーロッパの苦境の本質を除去するためには、いかなる戦争も不適当なものであり、却ってこの苦境を増すだけであるという、簡単で原始的な認識から、ドイツは平和を欲するのである」とも述べていました(241頁)。現代の私たちは、4年後の1939年にヒトラーがソ連と手を結び、ポーランドに侵攻したことによって、第二次世界大戦が始まったことを知っているので、ヒトラーが述べていることは嘘であったことを知っています。しかし、当時はこのような宣伝戦略に一定の効果があったことを認識しておかなければなりません。

1939年にドイツ軍の兵員は275万名に拡充されましたが、これほど大幅な軍備の拡張を進めることができたのも、ドイツがその意図を上手く隠し通すことができたために他なりません。このような外交史上の事例から学ぶべきことはたくさんありますが、政治家は自らの本当の意図を明らかにしない方が合理的であると考えるような状況があること、したがって政治家の言葉をそのまま受け取るべきではないことは覚えておく価値があると思います。

参考文献

ワルター・ホーファー著、救仁郷繁訳『ナチス・ドキュメント』ぺりかん社、1982年

関連記事


調査研究をサポートして頂ける場合は、ご希望の研究領域をご指定ください。その分野の図書費として使わせて頂きます。