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クリミア戦争でロシア軍がセヴァストポリの陥落直前に試みた反撃の悲惨さ

クリミア戦争(1853~1856)で激戦が繰り広げられた戦場の一つにクリミア半島のセヴァストポリがあります。セヴァストポリは黒海に面する港湾都市であり、ロシア海軍の基地でもありました。1854年10月から1855年9月にかけて、この要塞都市に立て籠ったロシア軍の部隊に対し、イギリス軍、フランス軍、トルコ軍、サルデーニャ軍で編成された連合軍の部隊が攻囲を行いました(セヴァストポリ攻囲戦)。およそ1年にわたる激戦の末に、セヴァストポリは陥落しましたが、その直前にロシア軍は多大な犠牲を伴う攻撃を実施しました。

歴史学者のオーランド・ファイジズは、著作の『クリミア戦争』でこの攻撃を取り上げています。1855年6月末の時点で、セヴァストポリの戦況はロシアにとって絶望的でした。武器や弾薬が極度に不足しているだけでなく、糧食や水も満足に供給されておらず、市街地ではコレラで命を落とす患者が1日あたり30人を超えて増えていました(下巻153頁)。当時、戦闘に参加していた砲兵科将校の回想では、都市機能が急速に失われており、「五月にはまだ賑やかで洒落た目抜き通りだったエカチェリンスカヤ通りも、七月に入ってからは瓦礫と化し、人通りも少なくなった。エカチェリンスカヤ通りだけでなく、中央大通りでも、婦人の姿を見かけなくなった。以前のようにのんびり散歩する人々はもういない。残っているのは、いかつい顔の兵士の集団だけだ」と述べられています(同上、154頁)。

ロシア軍では大量脱走が問題となっていました。7月以降にロシア兵の脱走は急増し、特にロシア各地から送り込まれた補充部隊で集中的に発生していました。ワルシャワ軍管区から派遣された補充兵は4名のうち3名が脱走している状態であり、セヴァストポリ全体でも1日あたり20名が脱走していました(同上、155頁)。主な理由は食事の内容の悪化とされており、当時のロシア兵の多くが満足な糧食を与えられておらず、配給の食肉は腐敗していたとも指摘されています(同上)。8月にセヴァストポリ市内で一部の部隊が反乱を起こした際には直ちに鎮圧されたものの、100名近くの兵士が軍法会議の判決に基づいて銃殺され、複数の連隊が解体され、危険分子と見なされた個人は予備役に編入されました(同上)。

もはや、セヴァストポリの防御は軍事的に困難でしたが、1855年3月にロシア皇帝に就任したアレクサンドル二世は、要塞から出撃して最後の攻撃を実施するように命令を下達しました(同上)。セヴァストポリの防衛を任されていたミハイル・ドミートリエヴィチ・ゴルチャコフ総司令官は、この命令に強く抵抗し、「敵は数的に優位であり、しかも堅固な塹壕を構築して我々を包囲している。そのような敵に対して現段階で攻勢に出ることは愚策としか言いようがない」と意見を具申しました(同上)。これは軍事的に妥当な見解でしたが、アレクサンドルは国家の名誉のため、領土を保全するため、そして可能な限り有利な条件で終戦に持ち込むために、何か軍事的な成功を達成し、それによってイギリス、フランスとの和平交渉を推進する必要があると感じていました(同上、155-6頁)。アレクサンドルはゴルチャコフに重ねて反攻に転じるように命令し、新たに3個師団を派遣することを決めました。アレクサンドルはゴルチャコフに対して、「攻勢に出ることは絶対に必要である。さもなければ、今回クリミアに派遣した増強部隊もこれまで同様にセヴァストポリの底なし穴に吸い込まれて消えてしまうだろう」と7月30日付の書簡で述べました(同上、156頁)。

アレクサンドルの命令とはいえ、ゴルチャコフは要塞から出撃することには消極的でした。ゴルチャコフは、セヴァストポリを取り囲む敵の攻囲環の弱点として、フランス軍とサルデーニャ軍が共同で使用していた陣地を取り上げ、この陣地の内部に位置する給水基地を奪取することを提案していますが、「しかし、自信過剰は禁物です。この攻撃が成功する見込みは大きくありません」とも述べています(同上)。アレクサンドルは、こうした慎重な意見を退け、「セヴァストポリで連日損傷が発生している事実は、私がこれまで繰り返し主張してきた出撃作戦の正しさを裏づけている。この恐るべき虐殺を終わらせるためには、何らかの決定的な行動に出る必要がある」と8月3日の書簡で書き送りました(同上)。

アレクサンドルは、ゴルチャコフが出撃したことで敗北を喫する責任を負わされることを恐れていると考え、彼に代わって指揮の責任を負うべき緊急参謀会議を開催することを許可しました(同上、157頁)。この会議は8月9日に開催されました。出席者の多くはセヴァストポリから出撃して攻撃に転じても、実質的な戦果は見込めないと悲観的な意見を持っていましたが、「敢えて皇帝に逆らって出撃反対を表明する者は多くなかった」だけでなく、一部の指揮官はセヴァストポリを徹底的に破壊した上で総攻撃を仕掛けることを主張しました(同上)。

このような作戦案では、多数の人命が無駄に失われるという反論が出され、結局はフランス軍とサルデーニャ軍の共同陣地を攻撃するというゴルチャコフの作戦計画が多数決で了承されました(同上)。作戦を開始する日は8月16日と決まりましたが、その前日にゴルチャコフは陸軍軍人に宛てて「万が一、この作戦が失敗しても、それは私の責任ではありません。その場合の私の任務は損傷を最小限に抑えつつ、セヴァストポリから撤退することです」と書き送っていました(同上)。

8月16日未明、セヴァストポリのロシア軍は早朝の霧に身を隠しつつ、チョールナヤ川に架かるトラクティル橋の付近まで前進していました。その勢力は歩兵4万7000名、騎兵1万騎、砲兵270門であり、攻撃方向はフランス軍の陣地とサルデーニャ軍の陣地の二つに分かれていたので、部隊も二手に分かれました(同上、158頁)。ゴルチャコフは、午前4時に突撃を支援するため、砲兵に射撃を開始させましたが、この砲撃でたたき起こされた1万8000名のフランス軍と、9000名のサルデーニャ軍は即座に防御戦闘を開始しました(同上)。

フランス軍とサルデーニャ軍の一部の部隊はロシア軍が渡河を試みていることを察知し、チョールナヤ川に向かって部隊を前進させました(同上)。ゴルチャコフは、思い通りに事が進んでいないことを認識しつつも、前線に伝令を送り、「直ちに開始せよ」と命令しました(同上)。ロシア軍の歩兵は、フランス軍の砲撃と銃撃の中でトラクティル橋を通じてチョールナヤ川を渡り、そこで多数の死傷者を出しました。ファイジズによれば、このときロシア兵は20分で2000名の犠牲を出したとされています(同上、159頁)。このとき、ロシア軍の攻撃部隊の指揮官は、師団を一斉に前進させるのではなく、連隊ごとに前進させたので、フランス軍の砲兵は十分に敵を引き付けた上で砲弾を落下させることができました(同上)。

ゴルチャコフは、このような方法で攻撃することの不利を見て、すべての師団を一斉に攻撃させるように命令を発しました。この命令によってロシア軍の部隊は多大な犠牲を出しながらも、フランス軍の部隊が守っていたフェデューヒン高地に前進し、いったんは高地の頂上にまで迫りましたが、フランス軍の一斉射撃に撃退され、最後はチャールナヤ川にまで退却しなければならなくなりました(同上、160頁)。この過程で現地の指揮官が戦死したため、ゴルチャコフ自身が指揮を継承し、左翼にいた部隊を呼び寄せて支援を命じますが、その部隊も側面攻撃を開始したサルデーニャ軍の銃撃に圧倒されて後退しました(同上)。ゴルチャコフは午前10時に総退却を命令しました。この戦闘でロシア軍は敵に死傷者合わせて1800名ほどの損害を与えましたが、その代償として2273名の戦死者、約4000名の負傷者、1742名の行方不明者を出しました(同上、160-1頁)。退却するロシア軍は味方の死傷者を収容することができませんでした。

ゴルチャコフはこの敗北に責任がなく、部下が自分の命令を理解しなかったという趣旨の報告をアレクサンドルに送りました。しかし、アレクサンドルはその内容に納得せず、「我が軍の勇敢な兵士たちは膨大な損害をこうむったが、何の戦果も上げることができなかった」とゴルチャコフに返信を送りました(同上、162頁)。しかし、ファイジズは、敗北の責任はアレクサンドルとゴルチャコフの二人にあり、「アレクサンドル二世は勝算のない出撃作戦を強行することに固執し、ゴルチャコフは無理な出撃を求める皇帝の要求に抵抗しなかった」と述べています(同上、162頁)。この戦闘で負傷したあるフランス軍の大尉は、8月25日に両親に宛てて次のように書き送りました。「これがクリミア戦争の血なまぐさい戦闘として最後か2番目になることはほぼ確実です。次にやって来る最後の戦闘では、セヴァストポリを奪取することになるでしょう」(同上)

この予測は正確でした。間も無くして、ロシア軍は残された戦闘力を振り絞り、セヴァストポリ市内へ進入したイギリス軍、フランス軍を相手に最後の抵抗を繰り広げました。一部の部隊は撤退しましたが、セヴァストポリ出身の多くのロシア兵は自分の地元を離れようとはせず、最後まで戦い続けました。

参考文献

オーランド・ファイジズ『クリミア戦争』染谷徹訳、白水社、2015年(この記事では参照していませんが、この著作は2023年に新装版が出ています)

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