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冷戦期の平和運動は東側の情報機関にどれほど利用されていたのか?

アメリカとソ連の冷戦構造によって東西に分断されたドイツは、両陣営が活発に情報活動を遂行した地域の一つです。近年、東ドイツの情報機関であり、対外工作も行っていた国家保安省(Ministerium für Staatssicherheit)、通称シュタージの史料が開示され、東ドイツが西ドイツの平和運動の組織化を支援していたことが分かってきました。トマス・リッドは、『アクティブ・メジャーズ(Active Measures)』でこの長期にわたるシュタージの対外工作について記述しています。

シュタージでは、西側の平和運動を支援する工作をフリーデンス・カンプ、つまり「平和戦争」と呼んでいました(邦訳、p. 273)。東ドイツ単独で実施していたわけではありません。これはソ連のKGBの指導の下で東ドイツとブルガリアが連携して実施した積極工作であり、ソ連の暗号ではマルス(MARS)と呼ばれていました(pp. 273-4)。

この構想を最初に発案したのは、東ドイツの政治家アルベルト・ノルデンであり、1978年の指令で彼は「西独の平和運動は支援を必要としている」、「西ヨーロッパ全体でも弱い運動の一つである」という見解を示しています(p. 274)。間もなくして、東ドイツは西ドイツの平和運動を支援する積極工作に着手し、西側の核兵器の配備に反対させようとしましたが、この際に問題となったのがバートランド・ラッセル平和財団という団体の動きでした。

1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻をきっかけとして、世界全体が新冷戦と呼ばれる米ソ対立の影響を受け、ヨーロッパでも核兵器の軍拡競争が進んでいました。ラッセル財団は1980年に平和主義の立場からヨーロッパの東西どちらの陣営の核兵器にも反対することを表明し、その活動家をアメリカとソ連の両方に送って抗議を始めました(p. 275)。この運動が広がれば、平和運動を東側の利益のために利用することが難しくなると考えたシュタージは、西側の平和運動を東側に取り込む工作を推進するようになりました。

1981年8月17日付のシュタージの内部文書であり、極秘扱いを受けたメモ「ドイツ連邦共和国における平和運動を進めるための政治的積極工作構想」があります。これはシュタージの偵察総局第2部の長であるクルト・ガイラートが作成したもので、シュタージとして西側の平和運動を支援する目的は「質的に新しい中距離核弾道ミサイルを1983年までに配備するNATOの計画を妨害すること」と設定していました(p. 280)。

その狙いは、平和運動を通じて西側の核兵器の配備を妨害し、中距離弾道ミサイルの配備を遅らせ、1984年に予定されていた議会選挙で核兵器の配備問題を争点にすることでした(Ibid.)。ただし、このような積極工作を進めるためには、草の根の活動家を多数形成する必要であるため、「これはIM(非公式の協力者)やKP(連絡員)のネットワーク配置だけでなく、新たな工作を担当する職の創設も目指す必要がある」と考えられており、ガイラートは要請書も出していました(Ibid.)。

ガイラートが西ドイツで平和運動を組織化するために採用したアプローチは実に独創的でした。それは「軍事的・戦略的観点から計画されている再軍備の根拠に疑問を抱かせるために、連邦国防軍の将校を集めること」でした(p. 281)。すでにイタリア、フランス、ポルトガルでは政治的見解を発表する軍人の調査がシュタージ偵察総局第4部を中心に進められていました(Ibid.)。このような組織化を通じて結成されたのが平和のための将軍団(Generale für den Frieden)でした。

この団体はラジオ、テレビ、会議、展示会、報告書などのメディアを通じて平和運動を展開し、特に1981年には世間で広く認知されるようになりました(p. 282)。彼らはNATOの核兵器配備に反対し、特に巡航ミサイルをイギリスや西ドイツに配備することを非難しましたが、東側から資金援助を受けているため、ソ連の核兵器配備を非難することは避けました。西ドイツの軍人でこの活動に参加した人物の中には、西ドイツの軍備再建の功労者として著名だったヴォルフ・グラーフ・フォン・バウディッシンが含まれており、また西ドイツの平和運動で象徴的な役割を果たした元軍人の政治家ゲルト・バスティアンもメンバーでした(Ibid.)。

著者は、マルスが西側で成功を収めた東側の積極工作の一つと位置付け、平和運動に深く浸透できたことを述べていますが、その理由として「細部にこだわったこと」を挙げています。多くの人々は、それが東側の工作であることを認識できませんでした。

「一例は、ヨーロッパに新たなミサイルは要らないという、核兵器凍結キャンペーンでいくつかのフロント組織によって喧伝されたスローガンだった。このシニカルなスローガンがソ連側に有利に作用したのは、特に『新たな』のところだった。それは暗黙のうちに最近確立したソ連のSS20中距離ミサイルのヨーロッパでの存在を認めながら、米側の兵器の近代化を非難しているからだ。このスローガンは、1981年、西独で行われたデモのとき、共産党のフロント団体が配布したプラカードに書かれて登場したと言われる」

(pp. 286-7)

このようなシュタージの積極工作において、東西両陣営の核兵器のどちらにも反対する平和運動は邪魔な存在でした。例えば、平和活動家のユルゲン・フォックスはシュタージから警戒されていた人物であり、「フォックスを不安にさせ、公衆を不信にし、結果的に東独攻撃について無力にするために、内向きにさせ、たえず日常的ないやがらせで手一杯にすること」という指示が出されていました(p. 288)。

シュタージの積極工作においてすべての平和運動が望ましい存在であったわけではなく、東側にとって望ましくない運動には犯罪に触れない範囲で繰り返し嫌がらせを行い、言論活動から手を引かせようとしていました。東側がこのように平和運動を抑圧しようとしたことも、冷戦の歴史において軽視されるべきではないでしょう。

参考文献

トマス・リッド『アクティブ・メジャーズ:情報戦争の百年秘史』松浦俊輔訳、作品社、2021年

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