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論文紹介 2020年のウクライナ東部で、どれほど陰謀論が広まっていたか?

陰謀論とは、社会的、政治的に重大な出来事の原因を強力な集団による陰謀として説明するものであり、客観的な検証が不可能なもの、あるいは検証された上で事実に反していることが判明したものを指します。2016年のアメリカ大統領選挙でロシアがアメリカの有権者の世論を誘導しようと試みたことから、陰謀論が外交的手段として利用される可能性に研究者の関心が集まっています。

ウクライナはロシアの偽情報や陰謀論にどの程度の影響力があるのかを考える上で興味深い事例です。特に東部のドンバスにおけるロシア系メディアの活動は活発であり、かなり多くの市民が陰謀論を信じるようになっていたとされてきました。地理学者のMichael Gentileと政治学者のMartin Kraghは2020年にドンバスの南部にあるマリウポリの市民を対象とした社会調査を実施し、その実態解明に貢献しています。

Michael Gentile, Martin Kragh, The 2020 Belarusian presidential election and conspiracy theories in the Russo-Ukrainian conflict, International Affairs, Volume 98, Issue 3, May 2022, Pages 973–994, https://doi.org/10.1093/ia/iiac053

著者らは2020年7月から9月にかけて、ドネツィク州の州都であるマリウポリに住んでいた18歳以上の成人1,251名を対象にアンケート調査を行いました。質問事項の多くは社会的アイデンティティ、政治的態度、外交的態度に関するものですが、その中には陰謀論を信じる度合いを測定する質問事項が含まれています。

例えば、ウクライナがジョージ・ソロスやマイクロソフトの創業者であり、実業家のビル・ゲイツの組織によって支配されている、などの陰謀論について質問し、「全く同意しない」、「どちらかといえば同意しない」、「どちらかといえば同意する」、「全く同意する」などと回答できるように設計されていました。

アンケートで質問されているのは、ソロスやゲイツといった、いわゆる「グローバル・エリート」の陰謀論にとどまりません。2015年1月にマリウポリの東部地区ボストチュニに対するロケット弾の攻撃が親ロシア派の武装勢力ではなく、ウクライナ軍によって行われた自作自演であるという陰謀論についても質問しています(当時、現地で活動していた欧州安全保障協力機構の特別監視団は、この攻撃が親ロシア派の武装勢力によるものであったことを独自の調査で確認しています)。

また、ウクライナ国内にあるアメリカの研究機関では、ウクライナ人で生物学的な人体実験が実施されているという陰謀論や、ウクライナ系アメリカ人で、ウクライナに移住した医師のウラナ・スプルンはアメリカ政府の工作員であるという陰謀論に関してもアンケートで質問が行われています。いずれも事実に反する主張ですが、マリウポリではかなりの数の市民が何らかの程度でこれらの陰謀論を支持していたことが分かっています。

この記事では、ソロスとゲイツの陰謀論に関する調査結果を紹介します。著者らがこの陰謀論に関する回答を集計したところ、「どちらかといえば同意する」を選択した回答者が最も多く、割合としては42.9%に達していました。「完全に同意する」が25.4%であるため、この陰謀論の支持者が強い確信を持っていることが分かります。これだけでも、陰謀論の影響の大きさが分かる興味深い調査結果だといえますが、著者らが注目しているのは、調査期間の間に発生したベラルーシ大統領選挙の不正疑惑で抗議運動が発生した8月10日以降に、この陰謀論の支持者がさらに増加したことです。

2020年8月9日にベラルーシでは大統領選挙が実施されましたが、不正があった疑惑が持ち上がり、大規模な抗議運動が発生しました。アレクサンドル・ルカシェンコ大統領はこれを弾圧しましたが、同時に野党とその支持者の評判を損なうことを目的とした宣伝にも乗り出しています。例えば、抗議運動が欧米諸国の工作員によって組織化されており、その工作員の一人がジョージ・ソロスであるという陰謀論が宣伝されました。

ベラルーシの抗議運動以降に多くのウクライナ人が陰謀論を支持するように意見を変えたことが著者らの調査結果から読み取れます。陰謀論にどちらかといえば同意しないと答えた回答者は8月10日以降に30.4%から10.7%に減少し、それ以外の回答者(支持した人だけでなく、どちらとも言い難いと回答した人も含む)が69.6%から89.3%に増加したことが報告されています。これは単にベラルーシの事件がウクライナで報道されただけでなく、同時期にロシア系メディアがベラルーシ政府と歩調を合わせて同様の陰謀論を拡散させていたためではないかと推測されています。

著者らは、ロシアとベラルーシのメディアが陰謀論のシナリオを固めた時期をベラルーシの大統領選挙から1週間ほど経過した後だと見積っており、国内の報道量の増加による影響と、ロシア系メディアの宣伝の影響のどちらが重要だったのかを特定しようとしています。ベラルーシでの大統領選挙に関する報道がウクライナで増加し始めたのは7月30日であり、ロシア系メディアで陰謀論の拡散が始まっているのは8月20日からでした。著者らの分析結果によると、マリウポリで陰謀論に同意する回答者が増加し始めているのは8月20日以降、つまりロシア系メディアの宣伝が活発化した後です。

ちなみに、著者の一人であるMartin Kraghは以前からロシアが取り組む世論工作に関して研究に取り組んでおり、ロシアの宣伝がウクライナだけを標的にしているわけではないことを明らかにしています。例えば、ロシアの通信社スプートニクが2015年から2016年にかけてスウェーデン語で発信していた記事3,963本を彼はデータベース化して分析しており、北大西洋条約機構が脅威をもたらしていることや、欧州連合は末期的な衰退を見せていること、ロシアは欧米から包囲されていることなどが一貫したストーリーとして登場することを特定しています。

Martin Kragh & Sebastian Åsberg (2017) Russia’s strategy for influence through public diplomacy and active measures: the Swedish case, Journal of Strategic Studies, 40:6, 773-816, DOI: 10.1080/01402390.2016.1273830

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