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戦間期の米軍はいかに「作戦」の視点を確立したのか:Carrying the War to the Enemy(2011)の紹介

現在の軍事理論では、軍隊の戦略行動と戦術行動を統合し、指導する技術を作戦術(operational art)と概念化し、その基本原則や戦闘・後方支援の関係、統合運用などを検討しています。軍事思想の歴史においては、作戦術は第一次世界大戦の経験からソ連で発達したものと考えられており、アメリカに持ち込まれたのは冷戦の後期になってからであると解釈されることがあります。

しかし、Mathenyはその定説に挑戦する見解を打ち出しました。その見解によれば、アメリカ軍も第一次世界大戦の経験からソ連の作戦術に対応するような視点を獲得し、軍事思想の発展に取り組んだとされています。彼の著作では、戦間期から第二次世界大戦にかけてのアメリカ軍の運用思想の変化を包括的に調査していますが、この記事では戦間期のアメリカ陸軍で生じた変化に焦点を合わせて、その研究内容を紹介したいと思います。

Matheny, M. R. (2011). Carrying the War to the Enemy: American Operational Art to 1945. Norman: University of Oklahoma Press.

アメリカは1917年に第一次世界大戦に参戦することを宣言し、ジョン・パーシングを司令官とする遠征部隊を西部戦線に投入しました。しかし、西部戦線の戦闘は、経験が不足していたアメリカ軍にさまざまな課題を突き付けることになりました。パーシングは、その経験を踏まえ、1918年の停戦後に各部署において教訓の抽出に必要な調査研究を実施するように命じています。

1919年4月27日に召集された「編成及び戦術に関するアメリカ遠征軍上級会議(AEF Superior Board on Organization and Tactics)では、小委員会が分担して行った調査の結果を検討し、指揮官を補佐する幕僚組織を、大隊に至るまで全戦術単位に配置する必要があるという勧告が出されており、その他にも指揮の統一、兵站の充実、歩兵部隊をあらゆる職種部隊で支援することの必要など、その後のアメリカ軍が取り組むべき課題が具体的な形で示されました(p. 46)。これ以降、パーシングはアメリカ陸軍の改革を積極的に推進するようになります(p. 48)。

改革の機運が高まっていた中で、1919年に教育が再開された指揮幕僚学校では多くの軍人が新しい視点で軍事理論の研究を進めていました。著者はこの時期の教育と研究の成果に注目し、第二次世界大戦で活躍することになる軍人がどのような知識を得ていたのかを詳しく調査しています。この時期に指揮幕僚学校で活躍した軍人の一人がウィリアム・ネイラー(William K. Naylor)大佐でした。1913年から1915年までは指揮幕僚学校で教官を務めていた軍人であり、第一次世界大戦では西部戦線で実戦の経験を積みました。著者は、ネイラーの軍事思想は独創的なものではなかったものの、クラウゼヴィッツの『戦争論』(1832)を取り入れたカリキュラムを導入し、学生に教範の表面的な学習で満足するのではなく、戦争に対する理解を深めていくような教育を試みたことを高く評価しています(p. 51)。

第一次世界大戦で出征し、1918年から1919年までシベリア出兵にも参加したオリヴァー・ロビンソン(Oliver P. Robinson)中佐も著者によって評価された軍人の一人です。彼は1923年に指揮幕僚学校の教官として着任し、やはりクラウゼヴィッツの『戦争論』を教材として使用していました。著者は1926年5月、ロビンソンは戦略に関する講義でクラウゼヴィッツの著作において用いられる重心の概念を説明した上で、あらゆる力を集中して打撃すべき敵の重心を適切に決定することが重要であると主張しています(p. 53)。敵の重心は理想的には敵の戦意とすべきですが、ロビンソンはそれを直接的に打撃できないために、敵の部隊を撃破することで、敵の戦意を打撃することができると説明していました(Ibid.)。ロビンソンの議論は、個別の戦闘で勝利を収めること自体が重要ではなく、戦闘の効果を利用することで、より上位の目標を達成する視点を示すものでした。

このような視点は、指揮幕僚学校の講義で繰り返し参照されており、特に第一次世界大戦の重要局面だった1918年3月のドイツ軍の攻勢を解釈する枠組みとして使われていました。著者は講義録を使用し、1928年に第一次世界大戦の経験者であるフランク・パーカー准将が学生に向けてどのような講義を行っていたのかを記述しています。その際に、パーカーは1918年3月に始まった西部戦線におけるドイツ軍の攻勢作戦が戦術的な成果を上げたにもかかわらず、「明確な戦略的インスピレーションがなかった」として、その成果が適切に利用されず、より上位の目標達成に寄与できなかったことを批判しました(Ibid.: 63-4)。

翌1929年の講義でもチェイフィン(A. D. Chaffin)中佐が、1918年のドイツ軍の攻勢には戦略上の意図がなかったことが問題であるとして批判を加えています(Ibid. 64)。これらの批判に共通していたのは、司令官が単一の決戦で勝利を収めるだけでは不十分であるという認識であり、個別の戦闘の結果が有意義な結果に繋がるように作戦計画を立案する重要性が強調されました。1920年代には指揮幕僚学校の教育内容に作戦計画の立案作業の演習が組み込まれ、図上演習を通じてその妥当性を検討する教育が行われるようになっています。このような取り組みは必ずしも国際的な標準ではなく、同時期のイギリス帝国国防学院では学生に多くの民間人が含まれていたので、計画立案作業は教育に組み込まれてはいませんでした(Ibid.: 67)。

著者は、アメリカ陸軍で現代的な意味での作戦術の視点が確立されたのは1930年代以降のことだと主張しており、指揮幕僚学校で匿名の教官が作成した『作戦地域における独立軍団・軍のための戦略原則』(1936)は重要なドクトリンの修正であったと考えています(Ibid.: 71)。この著作で注意すべき要素として、戦争指導(conduct of war)、戦略、戦術という三層の構造で戦争を捉えていたことが指摘されています。戦争指導は「戦争における国家目的を達成するため、武力だけでなく、政治的、経済的手段をも用いること」で、戦略は「戦闘で敵を打ち負かすため」、「戦域において優勢な戦闘力を集中させる技術」と定義されました(Ibid.: 71)。戦術については、「戦闘に先立って戦略機動を実行し、戦場で戦闘力を運用する技術」と定義されていました(Ibid.)。ここで興味深いのは、当時のアメリカの軍事ドクトリンにおける戦争指導が、現在の戦略の意味を持つものに相当していることであり、代わりに戦略の概念が現在の作戦術の概念と対応していることです。

著者はアメリカ陸軍のドクトリンにおいて、作戦術という用語が使われることはなかったとしても、それは作戦術に相当する視点を持っていなかったことにはならないと考察します。『作戦地域における独立軍団・軍のための戦略原則』では、最終的な勝利は連続的な作戦を通じて達成されると述べていたことも述べられており、近代的な交通、通信の技術が包囲機動の重要性を高めることになったと解釈されています(Ibid.: 72)。ただし、著者はアメリカのドクトリンがソ連の作戦術と同一のものであると主張しているわけではなく、比較可能なものとして提示していることには注意が必要でしょう。

この著作は作戦術の成立史に関する定説を見直す以上の価値があると思っています。というのも、第一次世界大戦の教訓を組織に実装するために、軍隊が教育研究にかなりの投資を余儀なくされたことを具体的に示す研究でもあるためです。アメリカ軍は第一次世界大戦が終結した後で大規模な軍備縮小を行っているため、組織が戦争経験から得た知識を次世代の軍人へ継承することを確保する取り組みは決して簡単なことではなかったことが分かります。この著作は軍事教育の歴史に関する詳細な記述を展開しているので、そのような観点でも価値ある内容になっていると思います。

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