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メモ 第一次世界大戦で米軍はどのように情報活動を合理化したのか?

軍隊の指揮官は、刻々と変わる状況を適切に判断し、適切に決定を下さなければなりません。しかし、最適な意思決定の基盤になるのは正確な情報であり、指揮官はそれを必要な時期に入手できなければなりません。迅速かつ正確な情報は戦争で得難いものであり、それを獲得するためには組織的な努力が求められます。このことをアメリカ軍は第一次世界大戦(1914~1918)で学びました。

1917年、アメリカはイギリス、フランスを支援するため、ドイツに宣戦しました。アメリカ陸軍は派遣軍を編成し、総司令官にジョン・パーシングを、参謀長にジェームズ・ハーボードを補任しました。彼らはすぐに司令部を立ち上げましたが、その際に司令部に勤務する人員として抜擢された一人がデニス・ノーランでした。彼は1917年に少佐に進級したばかりの情報参謀でしたが、5月に先遣隊の一員として西部戦線に入り、フランス軍やイギリス軍の情報部隊を現地で視察する機会を得ました。ノーランはそこでドイツ兵の捕虜から情報資料を入手する手際の良さに感銘を受け、両軍の情報活動に関する独自の調査研究を実施しました。間もなくして、ノーランは成果をまとめ、パーシングに派遣軍の情報組織の改革に関する意見を具申していました。

パーシングはノーランが具申した意見を高く評価し、彼を中心に自軍の情報組織の改革を推進することを決めました。この功績から、ノーランはアメリカ陸軍の歴史で情報活動の基礎を築いた人物として高く評価されることになります。

デニス・ノーラン(1872年4月22日–1956年2月24日)

ハーボード参謀長の下で第二部(G-2)が新設され、ノーランがその部長として、合計300名ほどの部下を指揮することになりました。部内の組織としては、情報担当の第一課(G-2-A)、秘密工作担当の第二課(G-2-B)、地図担当の第三課(G-2-C)、検閲報道担当の第四課(G-2-D)の4単位に区分されていました。

ノーランの改革は総司令部の情報業務に限定されたわけではありません。次第に本国から部隊が到着し、総司令部が運用する部隊が増加するにつれて、軍団、師団、連隊、大隊にも情報参謀を設置し、それぞれが異なる範囲の情報業務を担当するようになりました。これは限りある情報能力を効率的に運用する上で有効でした。

例えば、前線全体の状況を上空から観察し、敵部隊の写真を撮影する偵察機については、広範な地域を担当することができるため、軍または軍団の情報幕僚によって統制させました。地上で活動する狙撃手、斥候、または監視所からもたらされる情報資料については、連隊本部または大隊本部の情報幕僚によって収集、処理することにしました。こうした一貫性ある情報組織を通じて情報収集の努力を無駄なく活用することが目指されました。アメリカ軍の情報活動で手に入れた情報はすべて第二部に集められ、部内において評価を行った上で、日報、週報、特報などの定期刊行物に掲載されました。

残念ながら、第一次世界大戦におけるアメリカ軍の情報活動に関しては、まだ不明な点が多く残されており、この研究領域として発展途上にあるといえます。パーシングの指揮統率に関してはCooke(1997)が詳細であり、ノーランの功績に関してはKovach(1998)で概略を知ることができますが、これらは西部戦線におけるアメリカ軍の情報活動の詳細を知る上で十分ではないため、今後さらに研究が進展することが期待されています。

参考文献

Cooke, James J. (1997). Pershing and his generals. Command and staff in the AEF, Westport: Praeger.

Kovach, Karen, ed. (1998). The life and times of MG Dennis E. Nolan, 1872-1956. The army's first G2, Fort Belvoir, Va.: U.S. Army Intelligence and Security Command, History Office.

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