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第一次世界大戦でドイツが英米に送り込んだスパイ:Spies of the Kaiser(2004)の紹介

1909年、イギリス陸軍省に外局として秘密情報局(Secret Service Bureau)が設置されました。秘密情報局の任務は、国内に潜伏するスパイを探し出し、イギリスの国防に関する秘密を守ることであり、主な脅威としてドイツのスパイが想定されていました。この組織は1916年に設置された軍事情報第5課、すなわちMI5の前身にあたります。その活動に関しては多少認知されていますが、同時期のドイツがどのような情報活動を遂行していたのかに関してはあまり知られていないと思います。

第一次世界大戦以前のドイツの情報活動を知る上で参考になる資料として、Thomas Boghardt氏の『ドイツ皇帝のスパイ:第一次世界大戦期におけるイギリスにおけるドイツの秘密工作(Spies of the Kaiser: German Covert Operations in Great Britain during the First World War Era)』(2004)があります。この研究は20世紀初頭のドイツの情報機関の規模や活動を明らかにしただけでなく、イギリスの防諜とどのように相互作用していたのかを解明しています。

Boghardt, T. (2004). Spies of the Kaiser: German Covert Operations in Great Britain during the First World War Era. Palgrave Macmillan.

1890年代、ドイツは自国の勢力拡大を図るため、本格的に海軍の増強を始めました。この事業は1897年にドイツ皇帝ヴィルヘルム二世の指導によって開始され、海軍大臣に任命されたアルフレート・フォン・ティルピッツ(1849~1930)の下で具体化されました。ただ、ティルピッツは海軍大臣として自らの権力を守るために、ドイツ海軍の予算配分を厳格に統制し、特定の部門に権限が集中することを避けました。ティルピッツは海軍が情報活動を拡大することに反対し、オットー・フォン・ディーデリッヒ(1843~1918)がドイツ海軍の情報活動を一元的に指揮統制することを主張した際にも、これを阻止しようとしたほどです(pp. 13-4)。ヴィルヘルム二世が情報活動の充実を希望したため、ドイツ海軍は専門の情報機関を設置できたものの、戦時中も小規模な組織にとどめられ、第一次世界大戦が終わった1918年の時点で海軍情報部の幕僚は1,139名にすぎませんでした(p. 16)。

ドイツ海軍はイギリス海軍の軍事情報を大量に必要としていましたが、その情報網は必ずしも大規模ではありませんでした。イギリス海軍の動向を探るには、世界中でスパイを運用する必要がありましたが、ドイツ海軍はすぐに人材の不足という問題に直面しました。海軍の内部で人材を採用することには限界があったため、早くから予備役に編入された陸軍将校への採用活動を強化しようとしています。しかし、理由も明かさないままドイツ国外に居住する将校の名簿を提出するように陸軍に求めたので、陸軍は海軍に対して手続きに難点があると批判し、いったい何を期待しているのか問いただすという事態になりました(p. 18)。著者はドイツ国内で陸海軍の情報協力がまったく確立されておらず、その後も全面的な協力に至ることがなかったと述べています。陸軍は海軍を信用しておらず、海軍の関係者から情報が漏洩することを絶えず懸念していました。

イギリスでは、1909年に秘密情報局を設立したことは冒頭で述べましたが、初代局長に就任したヴァーノン・ケル(1873~1942)は自らのキャリアをかけてドイツのスパイを見つけ出そうとしており、そのためドイツの脅威を誇張しようとする傾向がありました(pp. 37-9)。2年にわたる調査にもかかわらず、外国のスパイに関する情報をほとんど何も手に入れることができなかったことが指摘されており(pp. 39-40)、それどころかこの時期にドイツの状況を探らせていたイギリスの情報網の一部がドイツに特定される事件が起きています。

「ケルの部門は、その多忙な活動ぶりにもかかわらず、最初の2年間はドイツのスパイを1人も発見できなかった。1910年にドイツの当局がイギリスの複雑な情報活動を発見していたので、これは恥ずべきことであった。1910年8月、Vivian Brandon大尉、コードネームbonfireがボルクム島の立入制限区域で逮捕された。その2日後にはエムデンでBernard Trench大佐、コードネームcounterscarpが逮捕された。二人ともイギリス海軍の士官であり、ドイツの調べではイギリス海軍の情報部からドイツの海岸と、キール運河を調査するように指示され、それを成功させていたことが判明した」

(p. 40)

こうした事態を踏まえ、ケルはさらに力を入れてドイツのスパイを探し続けましたが、1911年頃からスパイの特定に繋がる成果を積み上げていきました。ちょうど、1911年のアガディール事件(第二次モロッコ事件)で緊張が高まったことを受けて、ドイツ海軍がイギリス海軍と戦闘状態になることを想定し始めていました。

著者の調べによれば、ドイツが戦前にイギリスの国内に確保したエージェントの勢力は最低でも120名であり、その多くが複数の任務に従事していたはずです(p. 94)。ただ、これは目を引くほどの数値ではなく、浸透の程度も限定的だったようです。浸透の程度が限定的であったことは、ドイツが雇用したエージェントの国籍から分かります。エージェントの92名に関しては国籍が確認できるのですが、最も多いのはドイツ国籍を持つエージェントであり、その人数は20名、オランダ国籍を持つエージェントは19名でした(p. 95)。3番目に割合が多かったのはアメリカ国籍を持つエージェントで、その数は14名でした(p. 95)。肝心のイギリス国籍を持つエージェントはほとんど採用できておらず、著者はアイルランド人2名、ボーア人3名が志願してきた程度にとどまっていたことを明らかにしています(p. 95)。イギリスの政府や軍部の内情を詳しく探ろうとする場合、イギリス国籍のエージェントがより多く必要だったはずですが、ドイツの情報網はそこに限界がありました。その詳細について著者は次のように述べています。

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