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ソ連軍の戦略と戦術を繋いだ作戦術を分析する『ソ連軍〈作戦術〉』の紹介

19世紀以来、軍隊の運用を分析する研究者は、戦争における軍隊の運用と、戦闘における軍隊の運用を区別するため、前者を戦略(strategy)、後者を戦術(tactics)と呼び分けてきました。しかし、19世紀の後半以降に軍隊の運用はますます大規模化、複雑化すると、次第に戦略と戦闘の間における軍隊の運用を検討する作業が必要となりました。この中間の領域こそ作戦(operation)と呼ばれているものです。

作戦を戦略や戦術に並ぶ独特な軍隊の運用として位置付け、専門的な分析を展開し、軍事学の新たな地平を切り開いたのは20世紀のソ連の研究者たちでした。その革新的な研究は第二次世界大戦、特に独ソ戦における軍事的成功に寄与し、1980年代には軍制改革に取り組んでいたアメリカ軍の研究者の思想にも大きな影響を及ぼしました。日本でもその研究成果が紹介され始めており、重要文献の翻訳が出てきています。

デイヴィッド・グランツ『ソ連軍〈作戦術〉』梅田宗法訳、作品社、2020年

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これはソ連の軍事史を専門領域とするデイヴィッド・グランツの著作であり、1991年に初版が出版されて以来、ソ連軍の作戦術の特性と歴史を解き明かした古典的著作として高い評価を受けてきました。ソ連の軍事思想を知る上でも、また作戦それ自体を理解する上でも必読の一冊であると言えます。

ソ連軍で部隊の運用を研究する次元として作戦を取り入れたのは1920年代のことです。第一次世界大戦からロシア内戦にかけてソ連軍は数百万名の兵力を運用する経験を積みました。そこから、戦略と戦術の中間に作戦という新たな領域を設定する必要があるという認識が広がり、作戦を準備し、計画し、遂行する術を作戦術として体系化する研究が始まりました。作戦術で想定されていたのは主に正面軍、軍のような大単位部隊の運用でした。

ソ連軍で作戦術の調査研究を推進していたのは1920年10月に発足した労農赤軍参謀本部大学軍事学会であり、トゥハチェフスキーの論文が最初期の成果として注目されています。トゥハチェフスキーはロシア内戦で得た経験から広大な前線で敵軍を一回の戦闘で撃破することは不可能になったと考え、前線に沿った戦闘行動を遂行するだけでなく、その敵を縦深にわたって撃破する連続作戦が必要になっていると主張しました。1920年代の半ばまでにソ連軍の研究者はこの連続作戦の構想を受け入れただけでなく、自動車化、機械化された陸上兵力の機動展開によって縦深戦闘を遂行することを目指し、積極的に改革を推進しました。

ところが、1937年から1938年にかけてスターリン政権の大粛清が行われたことで、連続作戦の構想を指示していた多くの軍人が追放、あるいは殺害されてしまいました。この政治的事件のために、ソ連軍では革新的なドクトリンの研究開発が中断されましたが、1941年に独ソ戦が勃発した後で、縦深戦闘、連続作戦を目指す作戦術を取り入れることが認められるようになりました。ただし、開戦直後には多大な損失を被ることになり、ソ連軍の態勢を立て直すためには多大な努力を要したことがグランツの解説から分かります。

この著作で特に大きな価値があるのは1942年から1943年にかけての分析です。グランツはこの時期にソ連軍が抜本的な改革を行ったことを詳細に説明しています。注目すべきは、ソ連軍がドイツ軍の防御線を巧妙に突破し、その後方に迅速に進出することができるようになったことであり、その理由としてソ連軍の正面軍、軍が広い区域で攻撃を行いつつも、突破すべき区域を狭く設定して巧みに兵力を集中し、迅速に敵の防御線を突破したことだとされています。正面軍の攻撃正面は150kmから200kmですが、突破区域は25kmから10kmで、突破区域における兵力の密度は2.5kmから3kmごとに1個狙撃師団、1kmごとに火砲・迫撃砲が150門から180門、戦車は30両から40両とされていました。徹底した兵力の集中が図られていることが分かります。

その後、ソ連軍は戦闘支援と兵站支援の機能を強化することにも取り組んだため、正面軍と軍の機動性はさらに向上しました。1945年の終戦までにソ連軍の正面軍は敵の正面と側面を包囲するだけでなく、複数の正面軍が連携することで、より遠大な包囲を達成することもできるようになっていました。この時期のソ連軍の攻勢作戦における機動性をグランツは高く評価しており、狙撃部隊は1日あたり20kmから30km、戦車部隊は1日あたり50kmから60kmの前進速度を達成していたことからも、その作戦機動が驚くべき効率性で行われていたことを読み取ることができます。

第二次世界大戦で目覚ましい効果を発揮した作戦術ですが、グランツの議論は第二次世界大戦の終結までで終わるわけではありません。冷戦が始まるとソ連軍の作戦術には核戦略の影響を受けるようになり、その作戦機動の効率は大きく制限されたことも明らかにされています。フルシチョフ政権の下でソコロフスキーが出版した『軍事戦略』では、将来の戦争において決定的な役割を果たすのは核兵器であり、地上軍は核攻撃の成果を利用し、敵軍を撃破し、領土を征服すると論じられています。作戦術が核戦略によって厳しく制限される時代に入りました。

戦場で核火力が使用されることを想定した場合、大兵力を集中させることは自殺行為に等しい危険な運用です。正面軍は突破のために兵力を集中することはできなくなりました。そのため、正面軍は核攻撃で敵の防御線に間隙を創出し、そこから戦車師団と自動車化狙撃師団を突破させ、可能な限り速やかに機動することが目指されました。しかし、このようなドクトリンには技術的な課題が多く、一歩間違えれば味方が核火力で損害を受ける恐れがありました。

1960年代半ばに核戦争を想定する一面的なドクトリンの研究開発から脱却が図られるようになり、通常兵器で遂行される限定戦争への関心が戻ってきました。それに伴って作戦術と戦術に関する調査研究が活発となり、作戦のレベルにおける機動が再び研究されるようになりました。1980年代のソ連軍のドクトリンでも作戦機動が勝敗を分けると考えられていますが、敵と味方が戦場で入り混じった状況で戦いが繰り広げられると想定されるようになっていることが指摘されています。グランツは本書の結論で、ソ連軍が大規模な動員を回避するようになり、小規模な兵力で物量の優越を補完するために、奇襲や迅速な突破を達成することに大きな意義を見出すようになったと述べています。

この研究は1991年に出版されたものであるため、現代のロシア軍のドクトリンに関する言及はありませんが、冷戦期を通じて形成されたソ連軍のドクトリンが現代のロシア軍にも影響を及ぼしていると考えられます。軍事史に関心を持つ方だけでなく、ロシア軍の作戦運用に興味がある方にとっても有益な文献です。

見出し画像:U.S. Department of Defense

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