見出し画像

戦間期における米国の対日戦構想の変遷を辿る『オレンジ計画』の紹介

アメリカは1941年に第二次世界大戦に参戦し、日本との戦闘を開始する前から、日本との戦争を想定した計画、すなわち「オレンジ計画」の準備を何年もかけて進めてきました。オレンジ計画は1906年の日米関係の悪化を受けて立案が始まりましたが、そのきっかけは1906年4月18日のサンフランシスコ震災でした。

この震災では家屋の倒壊などで多くの犠牲者が出ていますが、地元の住民の一部は東洋人の財産を略奪し、時には暴行を加える事件を起こしていました。現地のメディアは日本人がアメリカの脅威であると書き立て(黄禍論を参照)、地元の地方議会は日本人の財産権を制限する措置を講じたため、日本政府は外交ルートを通じてアメリカ政府に抗議する事態になり、日米関係に大きな影響が生じました。この事件では、セオドア・ルーズベルト大統領が市当局に圧力をかけて条例を廃止させ、日本政府はアメリカ移民を量的に制限する措置を講じたことで、緊張の緩和に成功していますが、この出来事をきっかけとして、アメリカ政府の内部ではオレンジ計画の検討が始まっています。

軍事的視点でこのオレンジ計画の変遷を辿った研究成果としてエドワード・ミラーの『オレンジ計画』は基礎的な業績として位置づけることができます。この著作は、戦間期の日米関係の変化を理解する上でも、また、太平洋という特異な広大さを有する戦域における戦争計画の難しさを理解する上でも参考になります。

Miller, Edward S. (1991), War Plan Orange: The U.S. Strategy to Defeat Japan, 1897–1945, Annapolis: Naval Institute Press.(邦訳、エドワード・ミラー著、沢田博訳『オレンジ計画:アメリカの対日侵攻50年戦略』新潮社、1994年

アメリカが海外の敵国との戦争を計画する場合、基本となるのは海洋戦略の原則となります。地理上の制約からアメリカ軍は必ず海を越えて敵の軍隊を撃破する必要があり、その軍事的手段として主要な任務を与えられていたのは海軍でした。

この海軍中心の考え方はオレンジ計画の基礎となっていますが、大規模な陸上作戦を遂行する戦略案が検討された時期もありました。一度目は中国大陸で、二度目は日本の本土で陸軍を戦わせることが考慮されました。ただ、これらは例外的な考え方であり、基本的にアメリカ軍は海軍を中心に対日戦を遂行することを検討していました。アメリカ海軍が作戦を遂行する上で解決すべき問題は、太平洋が戦域としてあまりにも広いことに由来するものであり、また海軍基地を置ける地点がごくわずかしかないという事情もありました。

太平洋戦域で基地がいかに重要な意味を持っているのかを説明するために、著者はいくつかの数値を挙げています。第一次世界大戦の時代の海軍で主力艦とされる戦艦の行動半径の大きさは3200km、補助艦として位置づけられていた駆逐艦や水雷艇の行動半径の大きさは1600km程度と見積られていました。もしアメリカ領土のハワイから日本の東京に向けて艦隊を差し向けるとすれば、艦隊が移動すべき距離は5600kmであるため、主力艦はその途中で任務遂行に支障を来す事態が予想されました。行動半径の制約を無視して部隊を送り込めば、アメリカ海軍は手痛い敗北を喫する恐れがありました。艦艇の戦闘力は基地から1600km離れるたびに10%低下すると想定されており、敵艦と交戦すれば、彼我の戦力の二乗に相当する損耗が発生すると予想されていました。つまり、対日戦の成否は、海上戦力の機動展開の根拠地となる基地を、日本の周囲にどのように確保するかにかかっているのです。

オレンジ計画では、1906年に立案された当初から、この問題を解決するために段階的に前進基地を開設することが考えられていました。第一段階では、日本がアメリカが海外に保有する基地を迅速に攻略奪取することが想定されており、グアムやマニラは日本に奪い取られることが予想されていました。この段階でアメリカ軍は全般的に防勢をとりますが、第二段階で陸海軍が連携を図り、日本に対する反攻に転じます。この段階で、どの程度の時間をかけるべきか、つまり短期戦を目指すのか、長期戦を目指すのかは関係者の間で大きな論争に発展しました。

短期戦を目指すべきであるという論者は、直ちにフィリピンに新たな基地を開設するための部隊を急派することを提案していました。これは戦時にフィリピンの守備隊を救い出したいと考えていたアメリカ陸軍でも支持されていましたが、日本の航空戦力が増強されるに従って、次第にフィリピンの防衛は非現実的と見なされるようになり、最終的には放棄されました。これに代わって台頭したのが日本との長期戦を考える論者の見解であり、彼らは太平洋を渡るために必要な基地を一つずつ着実に攻略する作戦案を支持していました。この案は最初から支持されていたわけではありませんが、航空機が発達したことによって、それまで海軍が基地を開設することが難しいと考えていた島嶼部でも飛行場として活用できることが認識されるようになると、対日戦の有力な案となりました。

最後の第三段階では、日本から制海権を奪い取るための決戦が予定されており、これは日本、あるいはフィリピンの近海で生起すると考えられていましたが、その具体的な地点に関しても時期によって変化していきました。この段階でアメリカ海軍が日本海軍を数的に圧倒することは確実視されていました。実際、制海権を喪失し、海上交通路を完全に遮断された日本が経済的に立ち行かなくなるという認識は、現代でもほとんど議論の余地がないほど正しいでしょう。

著者の研究で最も興味深いのは、第二段階の部隊運用をめぐる論争を取り扱っている箇所です。第一次世界大戦が勃発する直前の1914年3月のオレンジ計画では、フィリピンを日本から防衛することを戦略上の目標とした上で、海上部隊をどのように機動展開させるかが問題となっていました。アメリカの東海岸に配備している海上部隊を、フィリピンに差し向けることを考えるならば、最短の経路はパナマ運河を経由するルートとなります。その距離は11,772nm(21,801km)、所要日数は65日、部隊が停泊する回数は3回から5回と見積られました。この経路に沿って部隊が迅速に機動するためには、途中で燃料の補給ができなければなりませんが、アメリカ海軍は太平洋の沿岸部に位置する州政府と協議し、各地の貯蔵所に海軍専用の備蓄を確保させることで、この問題を解決しています。

しかし、アメリカ海軍が戦時に艦艇を東海岸から西海岸に移動させることは、オレンジ計画の問題のごく一部分にすぎませんでした。アメリカの海上部隊を東太平洋から西太平洋を通過してフィリピンに至らせる方法は、より大きな問題でした。太平洋の中部に良好な港湾が存在しないことが、この問題の解決を極めて難しいものにしていました。1914年に第一次世界大戦が始まる前から、アメリカ海軍ではグアムを経由してフィリピンに部隊を移動させる方法について検討していましたが、その成否はグアムを作戦基地として確保できるかどうかにかかっているという見解がありました。日本はグアムを早期に攻略奪取しようとすることが予想されていたので、アメリカとしては徹底抗戦が可能な部隊を配備することを主張していましたが、1922年のワシントン海軍軍縮条約の結果、アメリカの軍備が制限されることになると、短期戦の前提が揺らぐことになりました。

次第に長期戦を想定した議論がなされるようになり、グアムより東に位置するミクロネシアが重要な目標として位置づけられるようになってきました。第一次世界大戦が勃発するまでミクロネシアは、ドイツが植民地として支配していました。戦時中に日本がこれを奪取し、戦後も委任統治領として日本の支配下に残されたので、アメリカ海軍はこれを攻撃し、特にカロリン諸島を基地化することを構想するようになりました。1920年代にアメリカ海軍がフィリピンとグアムの防衛をあきらめざるを得なかったことは、戦間期の日本の太平洋における勢力拡大の影響を考える上で絶えず考慮に入れておくべき点だと思います。

1920年代の後半になると、アメリカ海軍は日本海軍に対する数的優勢を確実なものとするために、戦闘では敵に対して1.25倍の戦力を集中させることが必要であると考えられていました。もしワシントン海軍軍縮条約によってアメリカ海軍は日本海軍に対して5対3の割合で優位に立っていることを前提にして計算し、日本海軍の戦力を仮に100とした場合、アメリカ海軍の戦力は167となります。アメリカ海軍の部隊が1.25倍の優位を保持して交戦するためには、125÷167=0.748となるので、アメリカ海軍全体の75%の戦力が作戦の準備を完成させておけば実現可能だと考えられます。

ただし、これは海上交通路を保全するための海上護衛戦の所要戦力を無視した計算です。もし作戦の前提となる海上交通路を保全するための戦力を差し引いた上で、戦闘の際に1.25倍の戦力を集中するのであれば、全体で150の戦力が必要であると見積もられていました。これは当時のアメリカ海軍の能力では実現不可能な数値であったため、開戦後に戦力の増強が必要と見込まれ、艦艇と航空機の整備を急がせました。そのため、戦争が1年で終わることがないことは確定し、第一段階を終えるまでには3年の月日を要すると見積もられました。著者はこの段階でアメリカ海軍が適切に情勢を予測できていたことを評価しています。

「R.R.コーク大佐は、新大統領フランクリン・ローズベルトに提出した報告の中で、第一段階作戦は3年間続き、米国はその間に主力艦を建造するだろうという予測を示した。海軍は東部太平洋を守るミッドウェーウナラスカ間に非常線を張り、攻撃行動を限定して潜水艦を使って日本艦船を密かに探り、米国に最も近い日本の委任統治領の島々を時折襲うことだけにとどめる。やがて、護衛、襲撃、制圧を行う戦力を別にしても、互角に戦えるだけの5対3の優勢を回復したら、米国海軍は委任統治領を抜けて西太平洋の日本基地を攻撃する。そして日本により近い封鎖を行う地点まで前進し、特別設計の時速40ノットの巡洋艦を配備し、日本の通商路を塞ぐ。そうすれば4、5年後には勝利がほぼ確実になるとコーク大佐は予測した」

(171-2頁)

アメリカが日本を打ち負かすために要した時間は実際には3年と8か月であったため、この予測はかなり慎重な判断に基づいていたといえます。アメリカ議会が1940年に成立させた海軍拡張法の影響によるところが大きく、この法令によってアメリカ海軍は1940年から1943年にかけて海上戦力の規模を大幅に増強することができました。ただし、こうしたオレンジ計画を実行するために、軍需生産能力の75%を割り当てなければならないことは、アメリカ陸軍にとって受け入れ難いものでした。

また、1930年代にはドイツがヨーロッパで再軍備を推進し、領土的な野心をむき出しにしつつありました。アメリカは、ドイツがイタリア、スペイン、ポルトガルを同盟に引き入れ、西アフリカに根拠地を構築し、そこを足掛かりとしてアフリカやラテンアメリカの方面に勢力を拡大してくる危険を考慮するようになりました。

このような脅威が現実的なものであるかどうかに関しては疑問が残りますが、当時のアメリカ海軍は太平洋に戦力を集中させるあまり、大西洋が無防備になる恐れがあることを認識するようになりました。1939年にドイツが第二次世界大戦を引き起こしてからは、アメリカ海軍はイギリスを支援するため、大西洋に戦力を集中させる必要に迫られました。1940年にアメリカ海軍は世界の情勢を分析した上で、アメリカはドイツを打倒することを優先する必要があるという結論を下しています。

日米開戦の直前にアメリカ海軍作戦部長を務めたハロルド・スターク海軍大将のある報告書を著者は紹介しています。スタークは1940年11月12日、ルーズベルト大統領にアメリカが選択可能な戦略を(1)西半球防衛戦略、(2)対日全面戦争、(3)太平洋・大西洋の二正面戦略に区分し、それぞれの利点と欠点があることを報告しました。

スタークはアメリカにとって最大の脅威となっていたのはドイツと判断し、ドイツを打倒することにアメリカ軍の決定的な戦力集中が必要であるものの、(1)から(3)の戦略はいずれもそれが不可能であるという点で問題を抱えていました。しかし、イギリスがドイツに屈服すれば、アメリカは世界のどこでも勝利を得ることは困難であるため、イギリスを支援することは必要であるとされました。ただ、イギリスを負けさせないだけでは、事態の打開に繋がらないため、最終的にはヨーロッパ大陸にアメリカ軍を上陸させる必要があり、そのためには太平洋では防勢に回らなければならないと主張しました。ルーズベルトはこの戦略を受け入れ、イギリスと連絡を取り合い、対ドイツ戦の準備を進めることにしました。

1940年12月17日にスタークはオレンジ計画の廃止を命令し、1941年7月にオレンジ計画は公式には政府の公文書の目録から削除されています。新たに戦争計画として策定されたのは、複数の国家を仮想敵国として想定したレインボー・プラン5であり、これでオレンジ計画は形式的には終わりを迎えましたが、長年にわたる調査研究で積み重ねられてきた議論はアメリカ海軍の首脳部によって共有されていました。レインボー・プランでは、対日戦が短期で終わることはないというオレンジ計画の研究成果が取り入れられていました。著者は、オレンジ計画がそのまま踏襲されたわけではないと念を押していますが、それでもオレンジ計画の構想の影響は第二次世界大戦のアメリカ軍の戦争計画に色濃く反映されていたとして、次のように述べています。

「何百人という将校がすでにオレンジ・プランを研究しつくし、戦時にそれを改めて繰り返す必要はなかったのだ。戦時の計画は、「戦前の計画をほとんど完全に踏襲した続編」であった。第二次世界大戦で決定権を握っていた人物たちの記憶のなかには、オレンジ・プランの戦略がまさに「遺伝子レベルで組み込まれていた」のである」

(同上、329頁)

研究の分野で区分するならば、これは軍事史の著作として位置づけるべきでしょう。しかし、将来のアジア太平洋戦域における軍隊の運用を考える上で、基地の利用可能性が重大な論点であることを具体的な事例によって示している研究でもあります。2010年代以降にアメリカ軍は対中戦の作戦計画に関して検討を進めてきましたが、当時のアメリカ軍人が悩んだように、現在でもアメリカ軍の部隊の活動を支援できる作戦基地を中国の周辺に確保することが大きな戦略上の問題になっているはずです。このような議論に関心を持っている読者にとって、本書は単なる歴史的な関心を満たすだけにとどまらない価値があるでしょう。邦訳が出ていますが、これには脚注がついていないので、研究を目的とする場合は原著で読むことを推奨しておきます。

関連記事


調査研究をサポートして頂ける場合は、ご希望の研究領域をご指定ください。その分野の図書費として使わせて頂きます。