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青春18きっぷで尾道から神戸へ 『阿房列車』を読むためだけの旅

尾道を午後1時過ぎに出発した列車に乗り、約4時間半かけて神戸に戻ってきた。在来線に乗る青春18きっぷのひとり旅だ。

青春18きっぷ

青春18きっぷとは、JR全線の普通列車の普通自由席が5回(人)分がいちにち乗り放題になるおトクなきっぷのことである。春休み、夏休み、冬休み期間にあわせて発売されるためなんとなく「学生限定」というイメージがあるが、年齢制限はなく大人でも使える。

値段は12050円。5回分なので、1回分が2410円。それ以上乗れば元が取れる。遠くに行けば行くほどおトクだけど、そこはまあ時間と体力次第かな。乗り物に乗っているだけでごきげんでいられるわたしには、ぴったりなきっぷだ。ひとりで好きなだけ本を読めるのもうれしい。気になるのはトイレのことだけど、乗り換え駅で休憩しながら行けば問題なし。急ぐ旅でもあるまいし。

冬季の使用期間は2022年12月10日から2023年1月10日まで。すでに3回使用していて、今回が4回目。尾道から神戸までは通常4070円だからだいぶおトクだ。

旅のおとも本は岡山出身・内田百閒先生の『第一阿房列車』に決めた。列車の旅にぴったりだ。というよりも、この本を列車でじっくり読むための青春18きっぷの旅だったのだ。

尾道から岡山までJR山陽本線で

まずは尾道から午後1時過ぎの山陽本線に乗車する。この日は元日で、早くもふるさとからの帰省客や旅行客で駅は思いのほかにぎわっていた。でもまあラッシュというほどでもない。気温は低いが晴れていて明るく、瀬戸内らしいのんびりムード。

わたしも帰省の帰りで、尾道までは両親に車で送ってもらった。ふたりともまだまだ元気でいてくれていてありがたい。ことしは約20年ぶりにわたしひとりで帰省した。本音を言えばもう少しふるさとでのんびりしたかったのだけど、いろいろな都合で元日の移動となった。それでもふるさとの初日の出はしっかり見ることができてよかった。

りんご畑の向こうに初日の出

わたしのふるさとの町は広島県だが、中国山地のてっぺんにあるのでたくさん雪が降る。平均気温は青森県と同じくらいで、りんごの名産地でもある。

さて、尾道はいかにも「瀬戸内」といった感じで、わたしのふるさとの町と同じ広島県とは思えないほど陽光に満ちあふれている。しかし一般的には広島県のイメージはこっちだろうと思う。

尾道 2022年1月撮影

ほんとうに同じ県とは思えない。山陽と山陰ではこうもちがっている。

尾道駅に光をせおって黄色い列車が入ってきた。かわいい。この列車で岡山まで。1時間23分の旅。

山陽本線 岡山行き列車

旅のおとも本は、内田百閒『阿房列車(あほうれっしゃ)』だ。

内田百閒(1889−1971)
小説家、随筆家。岡山市の造り酒屋の一人息子として生れる。東大独文科在学中に夏目漱石門下となる。『冥土』『旅順入城式』『百鬼園随筆』『阿房列車』など著書多数。酒、琴、汽車、猫などを愛した。

内田百閒『阿房列車 内田百閒集成1』、筑摩書房、2002年

阿房列車は鉄道を愛す百閒先生が世間的な用事のない行程を「阿房列車」と名付け、弟子の「ヒマラヤ山系」くんを道づれに出た列車旅の紀行文で、いわば文豪の「乗り鉄エッセイ」なのだ。

 阿房と云うのは、人の思わくに調子を合わせてそう云うだけの話で、自分で勿論阿房などと考えてはいない。用事がなければどこへも行ってはいけないと云うわけはない。なんにも用事はないけれど、汽車に乗って大阪に行って来ようと思う。

内田百閒『第一阿房列車』新潮社、平成十五年

(ちなみにこの『阿房列車』は、新潮文庫から『第一阿房列車』ちくま文庫から『阿房列車 内田百閒集成1』として出ていて、わたしは新字新かな遣いの新潮文庫版『第一阿房列車』でほとんどを読み、そこに入っていない「雪中新潟阿房列車」と「春光山陽特別阿房列車」をちくま文庫版で読んだ)

この阿房列車が面白いのは、百閒先生に変なこだわりがいっぱいあるところ。用事もないのに列車に乗るのだから借金をしてでも一等に乗るとか、朝は早く起きられないから昼過ぎの列車に乗るために途中で一泊するとか、昼間には温泉に入らないとか。そばにいたら面倒くさいかもしれないけど本を読むぶんにはおもしろい。

百閒先生は道中やたらとお酒を飲むし、連れの「ヒマラヤ山系」くんはぼんやりしていて何を聞かれても「はあ」しか言わない。酔ったら少しは饒舌になるけど、その話にはまったくオチがない。オチどころか、百閒先生に言わせると山系くんの話には頭も尻尾もなく、話がどっちに向いているのかもわからないのだ。

百閒先生は岡山生まれの東京在住だからどうにか許せるのかもしれないけど、もしも関西人ならきっとそうはいかないだろう。「いやオチないんかい!」とつっこまれるのが目に見えている。つっこまれるのはまだ優しいほうで、おそらく話している途中で「その話にオチはあるんやろうな」とひっくい声で脅されるだろう。わたしは関西人(京都人)と結婚して、関西人(神戸っ子)を生んだ。つまりわたし以外の家族はみんなナチュラルボーン関西人だ。あいつら「オチ」にも「噛み」にもやたら厳しい。

 間もなく二本目の魔法罎(注、燗をした日本酒が入っている)に移った。横浜はもうさっき出た。
「我我は、どうも速過ぎる様だ」
「お酒ですか」
「事によると、足りないぜ」
「それはですね、つまり、汽車が走っているものですから」
「汽車が走っているから、どうするのだ」
「走っていますので、ちっとや、その」
 云いかけて、つながりはなかったらしい。後は黙って勝手に飲んでいる。

内田百閒『第一阿房列車』新潮社、平成十五年

いや、つながりないんかい!

関西人だったら、これは絶対に許されない。

まあでも、こだわりが多くて我儘な百閒先生のお供がつとまるのは、ぼんやりしているように見えてじつは細かい気配りができる山系くんのほかにはいないのだろう。

終始そんな調子で、その旅で何が起こるわけでも行き先で何かを体験するわけでもないのに(そもそも何かを体験してしまったら用事もないのに旅をすると云う阿房列車の主旨に反する)それでもなぜか百閒先生とヒマラヤ山系くんの旅に引きこまれてしまう。

なんといっても列車から見える景色の描写が映像的な動きがあってダイナミック。それを列車に乗って移動しながら読めるのがさいこうなのだ。例えばこんな風に。

 汽車が山の筋を横切って向うに出ると、谷川が流れている。鉄橋でその川を渡り、又先の山の筋を抜けると矢張り谷川がある。向う岸にその次の山が迫って来る。目がくらむ程深い谷底の谷川の岸から、燃え立った紅葉の色が一団の燄(ほのお)になって、その上を渡る汽車を追っ掛けて来た。

内田百閒『第一阿房列車』新潮社、平成十五年

この描写、もはやアミューズメント。列車で『阿房列車』、ぜひ体験してみてほしい。

尾道を出発

ここで百閒先生が描く尾道を。

 駅の前の広場のすぐ先に海が光っている。その向こうに近い島がある。小さな汽船が島の方から這入って来たところである。潮のにおいがして、風が吹いて、頭から日が照りつけた。

内田百閒『第一阿房列車』新潮社、平成十五年
尾道 2022年1月撮影

短くシンプルな文章の中に尾道の駅前の光あふれる感じがすべて凝縮されている。駅の前の広場のすぐ先に海が光っている。それはいまも変わらない尾道の光景だ。

岡山から播州赤穂(兵庫)までJR赤穂線で

「さて読者なる皆様は、特別阿房列車に御乗車下さいまして誠に有難う御座いまするが、今走り出したばかりで、これから尾道から神戸まで辿り着く間の叙述を今までの調子で続けたら、わたしはもともと好きな話だから人の迷惑など構わずに話し続けてもいいが、うろうろすると間に合わない」

百閒先生風に書くとこんな感じ。でもこのままではらちがあかないのでちょっと話を進めよう。

百閒先生のふるさと岡山

列車は岡山に到着した。岡山は百閒先生のふるさとである。

岡山駅

百閒先生が東京から鹿児島に向かう「鹿児島阿房列車」のなかに、郷里岡山を通り過ぎるときの記述がある。

「古里の夏霞」
 朝になってから通る京都も大阪も丸で知らなかった。姫路を出て上郡をすぎ、三石の隧道が近くなる頃に漸く目がさめて、気分がはっきりした。郷里の岡山が近い。顔を洗って朝の支度をした。
 (中略)
 瀬戸駅を過ぎる頃から、座席の下の線路が、こうこう、こうこうと鳴り出した。遠方で鶴が啼いている様な声である。何年か前に岡山を通過した時にも、矢張りこの辺りからこの通りの音がしたのを思い出した。快い諧音であるけれども、聞き入っていると何となく哀心をそそる様な気がする。

内田百閒『第一阿房列車』新潮社、平成十五年

ふるさとを通りすぎるときのなんともいえない複雑な感情を、視覚ではなく線路の音で表現するなんて。

 鉄道を渡ったら、じきに岡山駅である。ちっとも帰って行かない郷里ではあるが、郷里の土はなつかしい。停車の間、歩廊に出てその土を蹈み、改札口の柵のこちらから駅前の様子を見たが、昔の古里の姿はなかった。

内田百閒『第一阿房列車』新潮社、平成十五年

ふるさとというのは帰って行かなくても、切なくて、なつかしいもの。

こうこう、こうこう

赤穂線で播州赤穂まで

さてここからは、赤穂線に乗り換えて兵庫県の播州赤穂まで。

岡山から播州赤穂まで


播州赤穂から神戸までJR東海道山陽本線で

列車は岡山を離れ、兵庫県へ。

コムパアトの向かいに座ったおばあちゃんと孫娘、乗っては降りてゆく人たち。それぞれの駅、それぞれの暮らし。

田んぼで凧あげをしている家族がいた。ただいっしゅんで通りすぎる町なみに、そこに住むひとたちの暮らしがある。夕暮れの気配を纏った金色の光があたりを包んでいる。光のなかを愛おしい景色がいくつも通りすぎる。

明石海峡大橋が見えてきた。新快速で通り過ぎる須磨の海を新しい気持ちで眺めた。思いのほか長い間おだやかな海が見えていたが、やがて見えなくなるとそれを合図に日が暮れた。夜が始まる。

 昔、須磨の東須磨に行っていたら、夏の晩の十一時過ぎに、下りの下ノ関行きの夜汽車が、松林の間に、窓のあかりをちらちらさせて通る。その後から、又じきに同じ様な夜汽車が松林の間をちらちら通った。土地の人が、あの後から行くのは本当の汽車ではない。狐が汽車の真似をするのですと教えてくれた。狐の汽車を私は自分でみたから、本当か、うそかの決択は私の中に在る。うそだって構わないから、夜汽車が通らないかなあと思った。

内田百閒『第一阿房列車』新潮社、平成十五年

須磨の松林で、今も狐の夜汽車は見えるだろうか。

神戸へ

本を読んでいたら、4時間半などあっという間に神戸についた。青春18きっぷで『阿房列車』すごく楽しかった。最後に列車のなかで、思わず声をあげて笑いそうになった一節を紹介したい。

 手紙に添えた包みには、サントリのポケット罎とわたしの好物の胡桃餅が這入っている。
 しかし、旅中ウィスキイは飲まない方がいい。
「ねえ山系君」「はあ」「旅行中ウィスキイは飲んではいけないだろう」「飲まなくてもいいです」「その鞄の中に気附けの小罎も這入っているけれど、それは勿論飲むべき物ではない。夢袋さん(注、旅の見送りにお酒を持たせてくれた人)のこれも、飲むのはよそうね」「はあ」「旅行中ウィスキイを飲んではいかん」
 山系に申し渡したのか、自分に申し聞けたのか、その気持ちは判然しないが、今度の旅程八日の内、前半の四日目辺りには、どちらの罎も空っぽになっていた。

内田百閒『第一阿房列車』新潮社、平成十五年

いや飲んでもうてるやん!


一年の計は元日にあり

列車に乗って旅をし、本を読む。旅とブンガク、最高の元日だった。ことしも旅とブンガクにまみれたいい1年になりますように。

次回の特別安房列車は

そういえば、あと1回分のきっぷが残っている。10日までに使い切るつもりだが、行き先はまだ決めていない。

さて、あと1回分、次の特別阿房列車はどこに向かおうか。

胡桃餅とウィスキイを入れた紅茶を魔法罎に入れて、持って行ってみようかな。



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ドレスの仕立て屋タケチヒロミです。 日本各地の布をめぐる「いとへんの旅」を、大学院の研究としてすることになりました! 研究にはお金がかかります💦いただいたサポートはありがたく、研究の旅の費用に使わせていただきます!