「あー、ごくらくごくらく」 湯船に身を沈めると、勝手に自分の口から言葉が飛び出してきた。 幸せは一瞬。 この湯船に入った瞬間に訪れる幸福感。冷えた身体がお湯に触れた途端、心地よい温もりに包まれる。肌にお湯がシュワシュワと染み込んでくるようだ。この瞬間に感じる、絶頂にも似た気持ち良さ 。この一瞬の多幸感が堪らない。 だけどこの幸福はこの湯船に入った瞬間だけ。しばらく幸福感に浸っていると、いつの間にかその有難味はどこに行っている。気づいた時にはお風呂の温かみに身体が慣れて
世界なんてなくなればいいのに。だけど世界なんてそう簡単にはなくならない。なくなってはくれない。 だから自分の世界をなくすことにした。 そうして見つけたのがこのシャングリラだった。 勿論ホンモノの理想郷や桃源郷ではない。ただしくはシャングリラのような施設だ。至れり尽くせりのサービスだけど、かかる費用は渡航費用だけ。 タダより高いものはないとはよく言うが、ここの支払いはお金ではない。この世で一番価値があるもの。それは何だろうか。人によって価値は異なるものである。とは言え
ここに来てから幾日かたった。 あれから私は目が覚めたらベッドの上でぼーっと外を眺め、空腹を感じたらカフェでお腹を満たすと、そのままカフェでぼんやり外を眺めたり本を読んだりすることもあれば、部屋でぼんやり外を眺めたり本を読んだり、眠くなったらそのまま寝たりという、なんとも堕落した毎日を送っていた。 ここでの私の目的、というかここに来る者に求められているのは欲を満たすこと。 これまでにすでに満たしている欲があれば、それはそのままでも良い。しかし更に欲を深めたければ溺れるほど
このリゾート施設のホテルはカフェの隣の建物にある。もちろん雨が降っても大丈夫なように渡り廊下で繋がっている。 ホテルの建物もまた変わっていた。施設自体が起伏に富んだ地形に合わせて作られているため、入り口からではホテルの全貌を伺うことができない。ホテルは他の施設同様に美しい大自然の景観に溶け込むように、ナチュラルな配色の素材で建てられていた。 建物の中は意外と普通だった。ロビーや廊下はふかふかの絨毯が敷かれているものの、造りは簡素で、ここにはお金はかけないという意思が感じ
いつからか、死ぬことばかり考えるようになっていた。 それも誰にも迷惑かけずにだ。 そんなこと可能だろうか。 例えば病に罹れば、最終的には医療者に看てもらわねばならない。事故も事件もまた同じ。最終的には病院に送られる。 そして死後、最終的には残された家族もしくは親族の誰かの手を煩わせることになるだろう。 そう死はどうしたって、誰かの手を煩わせるのだ。死体がある限り。それが分かっているから中々その先へ逝くことができずにいた。 死を考えているからって、別段、何かある訳
誰かがうわさした 彼が死んだと 彼とは私のこと ああ、確かにそのとおりだ 私は確かにあの日死んだ 誰かに殺された だけども私は今生きている ふむ、どういうことか 殺されたのは私の心であって 私自身が死んだわけではない 私は、あの日犯人に殺されて時を止めた そしてずっと今にいる 今にたたずんでいる ここは地上の空の上 空っぽな地球の上に立っている 人間は消えた あの日、私が消した 私を殺した奴らによって消えた 彼らは知らなかった 私を殺すと
“伝説の三人組バンドGVS解散! 年末ライブがラストステージ!!” スポーツ新聞の見出しにそのニュースが並んだ。スクランブル交差点の巨大スクリーンにおどる文字、しかし立ち止まってそれを見る若者はいない。 ひと昔前、社会現象を引き起こし、一世を風靡した三人組のロックバンド。それがガボールスクリーンことGVSだ。しかしそれもひと昔、いや、ふた昔前のこと。今はもう当時若者だった中高年たちの記憶にしか留まっていない、忘れられたレジェンド。 ジャーンと音が鳴った。エレキギター
ニャオンと飼い猫のモフが鳴きながら帰ってきた。 雲一つない朝、庭で洗濯物を干していた頼子は、しゃがんでモフを出迎えた。よく見ると、小鳥をくわえている。残念ながらもう手遅れのようだ。 「あら、今日は小さめね。でも自分で食事を捕ってきたんだからエライわ」 モフは頼子の足元で戦利品を器用に前足で挟むと頭から食べ始めた。その様子をぼんやり見てつぶやいた。 「今日のメニューは何にしようかしら?」 バリバリと食む音がする。しばらく眺めていた頼子がにやりと笑った。 つ
「おい小僧、貴様はあと七日の命だ」 唸るような声で私は目覚めた。途端に全身を激痛が襲った。 なにが起こってるんだ。分からない、なにも思い出せない。ここはどこだ。暗くて見えない。なぜ身動きができないんだ。 真っ暗で立っているのか横になっているのかさえ分からない。手足は辛うじてくっついているようだが、指すら動かすことができなかった。全身がなにかに押さえつけられているようだった。 真っ暗な記憶をたどる。 脳裏にかすかに残るのは、なにかに落ちていく記憶だ。私を覆って