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天獄 第1話


 いつからか、死ぬことばかり考えるようになっていた。
 それも誰にも迷惑かけずにだ。
 そんなこと可能だろうか。
 例えば病に罹れば、最終的には医療者に看てもらわねばならない。事故も事件もまた同じ。最終的には病院に送られる。
 そして死後、最終的には残された家族もしくは親族の誰かの手を煩わせることになるだろう。
 そう死はどうしたって、誰かの手を煩わせるのだ。死体がある限り。それが分かっているから中々その先へ逝くことができずにいた。
 死を考えているからって、別段、何かある訳ではない。仕事に不満があるわけでも、人間関係に問題があるわけでも、誰かが憎いわけでも、心が傷ついてるわけでも、ない。ただ、未来に希望がいだけないだけ。
 会社帰りの電車の窓に映る黄昏色。落ちていく太陽。木枯らしに散る街の樹の葉。何か秋の夕暮れの絵画でも見ているように、そんなことを考えていた。
 手元の端末機が震えた。
 誰かからの通知だ。だけどそれを見ずに別の通知をタップした。それは勝手に流れてくるリール。
 ふと、目に留まった。みごとに釣られた画像に目をやる。
 まるで合成されたような、いや、もしかしたら合成された動画なのかもしれいない、そんな不思議な、御伽噺に出てくるような景色だった。
 見たこともない様なスケールの異なる大きな崖。その谷間に見たこともない緑の樹木が生い茂り、そこに雨が降っていた。それを映し出している全面ガラス張り窓とその前にあるカフェみたいに設えられた部屋。
 こんな場所があるのなら行ってみたい。でもそうしたらもう二度と来ないだろう。
 駅を出ると黄昏時が終わり、すっかり暗くなっていた。
 そうだ。音信不通になればいいんだ。簡単に連絡が取ることができないような場所へ移住したことにして、そのまま行方不明になればいい。時々手紙を出すようどこかに手配しておけば、そのまま忘れられるんじゃないだろうか。
 私は真っ暗なドアを開けた。
 目を開けていられないほどの光が差し包み込まれると、その中に引き込まれていった。
「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
 目を開けるとカフェの入り口に立っていた。後ろでドアが閉まる音がした。声に応じて、見渡すと見慣れぬ店内に戸惑った。
 店の奥はロフトになっており、1階には暖炉があり、その暖炉の周りと2階は壁を覆うほどの本棚が置かれてあった。そこには無いものはないのでないかと思うほど書物がびっしり並べられ、自由に取れるように梯子がいくつも置かれていた。店の南側とガラス張りの窓になっており、その向うにはまるでお伽噺に出てくるような緑に覆われた渓谷と森が映っていた。その森からの木漏れ日が店内に差し込み、自然の照明のよう。西側は壁面と天井の一部がガラス張りになっており、南と西の間にある席はテラスのようになっていた。
 窓の外はリールのように雨は降っていなかった。店内には私以外に客はいなかった。それどころか全く人気がなかった。それなのに、寂れている様子はなくて逆に繁盛しているかのような華やかさがあった。見えないだけでどこかに客はいるかのような賑やかさ。静寂ではない、のどかさを感じる店だった。
 私は本棚と窓に挟まれた席に座った。窓の外に気をとられていると、メニュー表がそっと置かれた。ぱっとそちらを向くともう人はいない。不思議に思いながらもメニュー表を開いた。こちらも無いものは無いのでないかと思うほどびっしりとメニューが書かれてあった。
”当店は音声認識システムを導入しております。その場で声に出してご注文いただければ、ご用意いたします”
 景勝地という自然の中にいるというのに、最新のシステムを使っているとはなんとも奇特なことだろう。
「キリマンジャロにしようかな……そのブレンドのホットを一つ」
 静かな店内で声を発することは中々の勇気が要った。それでも自分の声が店内に響くと、厨房がにわかに活気づきだし、少しだけほっとした。
 コーヒーを待っている間、店内をウロウロしてみることにした。真っ先に向かったのは東側の本棚だ。ざっと目を通していると、声がした。
「お待たせしました」
 声のほうを見ると、コーヒーを置いたスタッフらしき人影が去っていくところだった。ここへ来てはじめて見た人だ。いや人影だ。その人影が男なのか女なのか分からない。最初店内に入った時に聴いた声は男性だったような気がする。では先ほどは、女性のような気がした。どちらも確かではない。それ程に印象しにくい声だった。
 私は席に戻りゆっくりとソファーに座った。そしてゆっくりと窓の景色を眺めながら、ゆっくりとコーヒーに手を伸ばした。
 ここはあるリゾート施設の中にあるカフェ。施設そのものもカフェと同じコンセプトで造られている。建物は外観はもとより内観も外の景色と混ざるように自然の色と素材がふんだんに使われ、かつ斬新なデザインでそこが人がいる場所であることを明確に示していた。
 カフェのほかに宿泊施設や入浴施設、スポーツもできる庭園もある。他にも施設外にある景勝地を巡るツアーなどもあり、至れり尽くせりの施設だ。
 この場所に来るためにはある条件が必要だった。その条件をクリアしても契約書にサインしなければ、そこへ渡るチケットをもらえないという中々制約のある場所だった。
 でもここでなら、私は私の願いを遂げられる。そう確信していたから、私は条件を潜り抜けてここまで来たのだ。
 先ほどまで森に木漏れ日が差し込んでいたのに、今はしとしとと雨が降っていた。雨に打たれて揺れる木の葉と葉や地面を打つ雨音を眺めながら、ゆったりとキリマンジャロのブレンドコーヒーを飲む。
 なんとも言えない至福のときだ。それでもこの身は贅沢なもので小原がすくのを憶えた。
「イチゴとチョコレートが載った、ミルクやホイップを入れてないホットケーキがほしいな」
 こんなわがまま通る分けないと思いつつも呟いた。どこまで注文が通じるのか好奇心もあった。
 ワクワクしながらも窓の景色を楽しんでいると、5分もしないうちに、ガラス窓にスタッフの姿が映った。
「お待たせいたしました」
くるりと振り向いてスタッフを見たつもりだった。だけど彼女が手にしていた、注文のホットケーキに目を奪われ、結局スタッフの顔を見るのを忘れてしまっていた。気づいた時にはもう彼女の背中を見せて遠ざかっていた。
 ここのスタッフは忍者かそれともアンドロイドなのだろうか。
 窓の外が夕闇に染まりつつあった。
 どのくらいこのカフェで、この席で過ごしたのだろうか。
 あそこに行ってみたかったのに。
 窓に映る闇に消えつつある森を見た。そして昼間見たお伽噺のような森の景観を脳裏に映す。
 まあ、いいか。いつでも行けばいい。
「ごちそうさま」
 相変わらず人気の無い店内をゆっくりと歩き、店を出た。
「いってらっしゃいませ」
 (続く)

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