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天獄 第2話

 このリゾート施設のホテルはカフェの隣の建物にある。もちろん雨が降っても大丈夫なように渡り廊下で繋がっている。
 ホテルの建物もまた変わっていた。施設自体が起伏に富んだ地形に合わせて作られているため、入り口からではホテルの全貌を伺うことができない。ホテルは他の施設同様に美しい大自然の景観に溶け込むように、ナチュラルな配色の素材で建てられていた。
 建物の中は意外と普通だった。ロビーや廊下はふかふかの絨毯が敷かれているものの、造りは簡素で、ここにはお金はかけないという意思が感じられた。受付カウンターも3人同時に対応できればせいぜいという広さで、よくある街の高級ではないホテルのそれだった。
 受付でカギをもらうと、私は与えられた部屋へと向かった。どんな部屋だろうと少しドキドキしながら部屋のドアを開けた。
「わあ」
 どの部屋も景観は良いという評判は聞いていたけど、部屋に入った途端、目に飛び込んできたのは、ガラス窓全面に映る緑だった。
 幸運なことにカフェの窓と同じ向きの部屋だったようで、部屋の窓からもカフェで見た森が見えた。ただし部屋は3階なので少し上から見る景色だけど。
 こちらの部屋もカフェと同じように窓側がテラスの様に3方ガラス張りになっており、そこにベッドと一人がけソファが置かれてあった。
 ここはビジネスホテルとは違う。部屋でもゆっくりと滞在できるようになっている。シングル用の部屋だけど、二人でも充分過ごせそうな部屋の広さに、二人でも余裕で寝れるベッドが置かれている。そこに軽く食事が出来そうなテーブルセットまで置かれ、さながらおひとり様用のVIPルームだ。これにキッチンシンクまであればりっぱにひとり暮らしの部屋にもなりそうだ。
 部屋には既に荷物が届いていた。とは言ってもそれ程多くの物を持ってきたわけではない。ここでは下着から化粧品に至るまで、何でも無料で貸し出してくれるから、自分が本当に必要な物だけ持ってくれば良かった。だから鞄に入っているのは、ここに来るまでに要る着替え一式と、お気に入りの服、読みかけの本、いつも持ち歩いてるノートが入ってるだけだった。
 だけど私はそれらを解くこともなく、窓際のベッドに座ると窓からゆっくりと漆黒が降りていく森を見ていた。
 ほんのりと部屋に灯りが点った。
「もう、夜か」
 何か夕飯を口にするには、先ほどのカフェで物を食べ過ぎた。入浴施設に行くのも少し大義だ。部屋の備え付けのシャワーで済ませることにした。
 何か欲しい。
 シャワーから出ても、空腹にはならないものの、満たされないものがあった。
「ビーフフィレサンドとスパークルのグラスワインが欲しいな」
 カフェの時と同じように、ホテルでも注文は音声認識システムだ。
 持ってきたお気に入りの部屋着に着替えて顔を整えていると、ノックが聞こえた。ドアを開けるとワゴンを押しながらスタッフが入ってきた。彼女が被せていた蓋を除けると、ぷーんとビーフの香ばしい匂いが鼻をくすぐった。その匂いに心奪われているうちに、スタッフはいなくなっていた。忍者の訓練でも受けているのだろうか。ここのスタッフは存在感をまるで感じさせない。辛うじて先ほどのスタッフが女性だと認識したのは、そのスタッフが長髪だったからだ。もしかしたらただ髪の長い男性かもしれない。それほどにここのスタッフは個を感じさせなかった。
 ビーフフィレサンドは匂いどおり美味しかった。ファーストフードで食べた時の味を想像していたが、とんでもない。肉はホンモノの牛肉で肉汁がちゃんと出ていた。ファーストフードの安い肉なんかとは大違いだった。
こんなに美味しいビーフフィレサンドを食べるのは初めてだ。頬を緩めてビーフフィレサンドを平らげた。
 スパークルワインもまた格別だった。特に銘柄を指定したわけじゃない。そもそもそんなに銘柄など知らない。けれどもグラスに注がれたワインを一口飲んで、それがドンペリニヨンだと分かった。
「ウマい」
 高級なだけあって、サンドもワインも満足した。
 お腹が満たされた私はベッドに入り、窓の外を見た。外は夜の闇で真っ暗だ。まだ雨でも降っているのだろうか。こんなに大きな窓だというのに、雨音一つ聞こえてこない。外の冷気も伝わってこない。建物の造りはしっかりしているようだ。
 今夜は眠ろう。
 しばらくはひとりを満喫しよう。
 日常に疲れたから、私はここに来たのだ。心の底から癒やされたい。魂まで洗われるように真っさらになりたかった。何もかもを捨てて軽くなりたかった。何も持ちたくなかった。何もいらなかった。

 ここは心と体とそして魂までをも癒すリゾート施設。疲れた心身を蕩けさせる場所。傷だらけの魂を真っ白に元に戻すための場所。

ここはテンゴク。楽園ではない。天獄。
(続く)

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