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天獄 第4話

 世界なんてなくなればいいのに。だけど世界なんてそう簡単にはなくならない。なくなってはくれない。
 だから自分の世界をなくすことにした。
 そうして見つけたのがこのシャングリラだった。
 勿論ホンモノの理想郷や桃源郷ではない。ただしくはシャングリラのような施設だ。至れり尽くせりのサービスだけど、かかる費用は渡航費用だけ。
 タダより高いものはないとはよく言うが、ここの支払いはお金ではない。この世で一番価値があるもの。それは何だろうか。人によって価値は異なるものである。とは言え、全ての者に等しく共通に存在する価値もある。誰もが持っているもの。等しく。それを最後に支払う。
 ここはそういうところだ。

「ねえ。肉蒲団をこんなにも欲して、肉蒲団にまみれてるこの状態も肉欲と言えない? そしたらさ、性欲も制覇したことにならないかな?」
 私は隣に寝そべっている彼に聞いた。
「うーん。難しいんじゃないですかね」
 素敵なの低音ボイスなのに、人肌くんは言葉少なげなのでちょっと物足りない。
 あれから私はすっかり人肌の常連になっていた。おしゃべりしたい時は女性の人肌さん。それ以外は大抵この低音ボイスの彼を指名していた。
 基本的に彼らは名のならない。だから非情に呼びにくい。だがここに居るスタッフはあくまでサポートでしかない。欲を満たすための。脇役どころか黒衣でしかない。居るか居ないか分からないくらいの存在感でなければいけない。だから彼らには名前はないし、自己はなきものとされている。
 根掘り葉掘り、寝物語の代わりにようやくここまで聞き出した。これは知的欲求、好奇心という欲望と言いつのって。
「やっぱりダメか。あなたの体でもう充分なんだけどな」
 こうやって少しずつ欲望を満たして行っていた。けれどもどうしても満たされない欲望があった。
 それが性欲だ。
 満たされないというより、むしろそれを欲しいと思えないのだ。
 あえて言うなら、彼のやわやわむっちりの人肌で充分に満足しているので、それ以上欲しいと思えないのだ。
「意味深な言い方をしてもダメです。もし僕が来ることで、欲が起こらないのなら、しばらく人肌控えてみてはいかがですか」
「そんなー!もうあなた無しでは寝られない。人肌のないベッドなんて無理だよー」
 少し駄々をこねてみた。
 影の口元がすこしクスリと笑った気がした。いつもは冷たいくらい感情を殺してるのに。
「だけど毎晩あなたを独占しちゃってごめんね。他にも指名があるんじゃないの」
「いえ、こんなぽっちゃりデブな体はそんなに求められていないですから。というかお客様以外いません」
「そうなの?おかしいなあ。じゃあもう一人の彼女は?」
 彼のふわふわの両腕に包まれながら聞いた。
「彼女は人肌以外でも多少呼ばれることもあります」
 彼の微妙な言い方に、突っ込みたいような、大人の対応をしたほうが良いような、二つの感情に逡巡した。
「ふーん。彼女人気あるんだね」
 大人な事情など知りたくなくて、誤魔化した。
「性欲なんてよく分からないな。とりあえず、目の前の肉欲に浸りたろうっと。今日はすこし触っても良い?」
「気の済むままに、好きなだけどうぞ」
 彼の声にゾクゾクっとした。そしてそっと手のひらで柔らかい感触を楽しんだ。最初はそっと、それから優しくサワサワと、それからペタペタ、そしてナデナデ。腕、二の腕にとどまらずお腹や胸、背中、太もも、お尻などなど手が届く範囲のふわふわを触っていった。
「あ~気持ちいい。もう最高」
ふわふわの腕に包まれ、ふわふわの胸に顔を埋め、背中に手を回してふわふわを撫でる。ふわふわの肉布団。
 もう恍惚に支配され、私の感情は最高潮に達した。
 これをエクスタシーと言わずしてなんて言うのだろう。
 私はここに来るまで、性経験を全く知らない訳ではない。ただそこに楽しさや気持ち良さを感じたことはない。不感症と相手に皮肉られたこともあった。それを鵜呑みにしてきたけど、今なら、ただ相手が自分の下手を誤魔化したいだけの言葉だったのだと分かる。私は多分人より淡白なのだろう。きっと相手との相性が悪かったのだろう。どちらにせよ、私にも非はある。相手に全てを任せられなかったという落ち度だ。
 だけど、それって必要なのだろうか。性欲がなくとも体の関係がなくとも、人は共に生きることはできないのだろうか。それをなくして恋人は恋人としていてはいけないのだろうか。身体の関係がないままだと何時しかその関係は色あせていくのだろうか。
 でもまあ、今となってはどうでも良いことだ。愛だの恋だの。この場所ではそんなものいらない。愛欲とは愛と言う心を欲するのではなく、愛の形、愛の身体を欲することだから。つまり愛欲とは性欲のことで、究極的に言えば、愛は寝なきゃ得られないってことなのだ。
 全く、私には程遠い欲望だ。
「ねえ、あなたも注文が入れば寝るの?」
 私の質問に彼は息を吸った。
「はい」
 そしてその声に少しだけ緊張が混じっていた。
「そう。じゃあ、もし私が……」
 そう言いかけて私は止めた。
「……つまんない。ああ、つまんない。やめた」
 私はベッドを降りて窓下のソファにドカリと座った。

「こんなの全然面白くない。こんなものがない世界に来たくてここに来たのに。なんでここに来てまでこんなつまらないこと言わないといけないわけ? もううんざり」
 憤慨する私に驚いた様子だった彼が少し笑ったように思えた。飽きれたように笑ったあと、起き上がって私のそばに座った。
「お客様、ここはあなたの自由な世界です。思いのままに、欲望のままにいて良い世界です。あなたがお望みのままで良いんです。無理して嫌なことをする必要はないんです」
 決して私を否定しない。優しく諭すように、けれど尊重してくれる彼の気遣いに、憤慨していた私も絆された。
「じゃあ、私が眠るまでお布団になって」
「かしこまりました」
 そう言って、彼は私に腕を回した。
 これで良いんだ。これで正しいんだ。望まない欲など欲望とは呼ばない。自分が望むからこそ、欲するからこそ欲望なのだ。
 私は彼の温もりに抱かれて、心地よい眠りの闇へ落ちていった。

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