foundling ~見つけられた子供4 兄弟の夏~

 コートを羽織らなければまだまだ寒さに耐えられない3月上旬。

ある一家が8畳一間のアパートに引っ越して来た。これで3度目の引越しになる。

 一度目の引越しは母親が子供たちを置いて逃げてしまった時。二度目は近所の人に児童相談所へ通報され、それ以来頻繁に人が来るようになった去年の夏。そして三度目の今回もやはり児相に通報されてしまったため、逃げるように隣の区から引っ越してきた。

 雲竜(うんりゅう)は荷物を運びながら空を見た。パラパラと粉雪が舞い始めていた。

  本当は転校などしたくなかった。やっと心打ち解けるようになった友達。ようやく迷わなくなった道、住み慣れ始めた町。

  しかし父親の保護の下、生きているこの身ではどうしようもなかった。何より、まだ庇護が必要な妹と弟の事を考えると、無駄に反抗するわけにいかなかった。

 5歳の妹、紅玉(るびい)は幼いながらも、1歳半の弟、風虎(ふうと)を背負い小さな荷物を運んでいた。冷たい風が吹く中、兄妹は長袖のTシャツ一枚で寒さに震えていた。唯一、背中の風虎から伝わる体温の温もりだけが紅玉を支えていた。

 ダウンジャケットに身を包んだ28歳の父親、辰利(たつとし)は、一通り大きい家具を雲竜と運び終えると、子供たちの働き振りを眺めながら、煙草を燻らせていた。

「うわあーん」

紅玉の背中で風虎が泣き出した。紅玉があやすも泣き止もうとしない。

「よしよし、風虎。お願いやから泣き止んで………」

紅玉がちらちらと父親を見ながら、必死に背中を揺すった。

 引越しによる無駄な出費とやりたくも無い肉体労働のせいで、ただでさえ苛々していた父親は、風虎の声が余計癇に障った。

「おい、紅玉。風虎を黙らせんか!」

煙草を片手に娘に詰め寄った。

「だって、あやしても泣き止んでくれんのんやもん」

紅玉は泣きそうな顔で気丈に口答えした。

バシッ。紅玉の頬が叩かれる。

「子守りはお前の仕事やろうが!」

余りの剣幕に、風虎が本格的に泣き出した。紅玉は赤くなった頬を押さえ、無言で涙を溢した。必死で泣くのを堪えても、身体の震えを押さえることはできない。

部屋に荷物を運び入れていた雲竜が、風虎の泣き声を聞いて慌てて外に出てきた。頬に手をやる妹と泣きじゃくる弟の元に掛け寄った。

「大丈夫?」

ほんの少しの間二人を両手でぎゅっと抱き締めてやってから、雲竜は父のそばに寄った。

「父さん、紅玉を叱らんといて。ちゃんと見とらんかった僕が悪いんや。それに風虎は多分さむ、いや遊びたいんや思う。まだ赤ちゃんやから背中でじっとしてられへんのんよ」

「うるせえ!! せや言うても人手が足りないんや。風虎を一人遊ばせておく訳にはいかんやろうが!!」

以前、雲竜と紅玉に風呂掃除をさせている間、一人遊んでいた風虎がいなくなったことがあった。幸い、近所の人が見つけて保護してくれて無事だったのだが、それがきっかけで児童相談所に目を付けられてしまった経緯がある。

「けど………!なら父さん、風虎と紅玉を中に入れて、紅玉にダンボールの中身を仕舞わせん? それなら風虎も温もるし、紅玉の目が届くから一人どこかに行ったりせんと思うんやけど」

「……分かった。ほな部屋の片付けは紅玉にやらせるわ。部屋の片づけは言い出したお前の責任やからな。それから紅玉! お前絶対風虎から目を離すなや。もし居んようなったらどうなるか分かっとるやろ?」

 世に絶対というのは有り得ない。ましてや8歳や5歳の子供に絶対という保証を負わせることなど不可能だ。子供の責任は親が持つものであるのに……。

 それでも紅玉は「はい」と返事する他無かった。

ほっとした顔をして、紅玉はまだ泣いている風虎を背負ってアパートの中に入って行った。
 あんなに泣きじゃくっていた風虎は暖かい部屋に入った途端に泣き止んだ。そして姉のそばで一人遊び始めた。

 部屋の中は、外よりマシだった。しかし暖房も付いていないボロアパートはそれなりに寒かった。しかも紅玉が着ている服も、襟元が伸び伸びになった兄のお古の長袖だ。けれども外で、トレーナー一枚で荷物を運んでいる兄を思えば文句は言えなかった。自分たちを庇い、ぎゅっと抱き締めてしてくれた兄を思った。

 そもそも大人の男手が一人しか居ないのに、4人家族分の引越し代をケチり、軽トラを借りて自分たちだけでやろうとすることに無理があったのだ。

 元々一家の所得は低かった。父親の辰利は工場の低い賃金で働いていた。それでも正社員だけマシな方だった。しかし、趣味のパチンコが全てを狂わした。パートで働いていた妻も、生計を助けるため遂に夜の店で働き始めた。だがそれも、風虎を妊娠したことにより、夜の仕事は辞めざるを得なくなった。子供2人でも苦しいというのに、3人目はキツかった。出産までパートだけでもと続けていたが、無理をしたのが祟ったようで、切迫早産で安静を余儀なくなりパートも続けられなくなった。妻の収入がなくなると最悪だった。

  やむなく生活保護を申請した。
  申請はあっさり通った。
  彼が正社員だったこと。それなのにその所得が一家5人の生活を賄うには低すぎること。なにより預貯金が全く出来ていなかった事が大きかった。ただし、妻の産後休暇が明けて再び働けるようになるまでの間の期間限定という条件付きだった。

  生活保護は彼らにとって最高だった。妻が働かなくても、夜の仕事ほどには及ばなくても、4人が生活するには事足りる額が入ってきた。おまけに医療費がタダになり、妻の産院代も出産費用も用意する必要が無くなった。

しかも、妻が仕事を辞めたにもかかわらず、優先的に保育園に入れてもらえ、こちらもタダだった。ついでに雲竜の学校費用もタダになった。ただし実際は、学校費は無料になったのではなく、保護費から天引きされているだけだったが本人たちは理解してなかった。

生活保護費のお陰で、贅沢を言わなければ何とか暮らして行けるようになった。

妻が倒れ生活保護を申請せざるを得なくなった最初の頃は辰利もパチンコもせず、大人しく真面目に働いていた。夫婦揃ってスマホからガラケーに戻し、節約も心がけていた。しかし、妻のお腹が膨らんでいくのと反比例するように、辰利の箍は外れていった。

真面目にノルマをこなすために残業までしたことで、反ってストレスが溜まり、気晴らしのつもりでパチンコ屋に入ったのが最後だった。

妻のお腹が臨月に入る頃には食費にも支障が出るようになった。当然妻も黙ってはいなかった。それでも辰利は盗むように妻の財布からお金を抜き取ってはパチンコに出かけた。

彼は疑惑を抱いていた。妻のお腹の子が本当に自分の子であるのかどうか。

彼は自分の給料が低いことは自覚していたから、避妊には気をつけていたつもりだった。それでも100%はありえないということも分かっていた。しかし、夜の仕事をするようになった妻はどんどん派手になり、早朝に帰ってくることも時々あったことを思い出すと、疑いを掛けずには居られなくなった。

妻の不満と辰利の不満は段々ぶつかるようになり、喧嘩が絶えなくなっていった。

風虎が生まれ、しばらくは二人の喧嘩も落ち着いていたが、妻の育児ストレスが溜まるようになると再燃した。

風虎の誕生を喜び、とても可愛がっていた雲竜と紅玉は、両親の喧嘩が始まると、弟を別室や外に連れ出し、二人で世話をするようになった。

ある時から紅玉の保育園の迎えを雲竜がさせられるようになった。しばらく経つと雲竜と紅玉が学校と保育園から帰っても、母と風虎が居ないことが度々あった。兄妹は、母たちは散歩や買い物に行っているものだと思っていた。

そうして風虎が3ヶ月を過ぎた11月のある日。母は風虎と共に離婚届を置いて居なくなった。

子供たちに理由は知らされなかったが、夜の仕事の時に知り合った男性と逃げたのだ。

パチンコを止められない辰利も身勝手だが、妻も身勝手だ。生活保護費をパチンコに使ってしまう夫に絶えられないのなら、離婚して子供たち3人を連れて出て行くか、夫を追い出せば良かったのだ。

しかもその3ヵ月後、どうやって知ったのか母親は引っ越した先に現われた。そして風虎を紅玉たちに託すと再びどこかへ行ってしまった。

 それから、3兄弟の日々は地獄に変わった。

 4月、引越しの荷物がまだ残っている中、雲竜は新しい学校へ通い出した。今度の学校は、制服は無かったが、着ていけるようなまともな服がなかったので、雲竜は前の学校の制服を着て家を出た。

 その後姿を、紅玉は風虎の手を引きながら不安そうに見ていた。父親も早々に仕事へ行ってしまい、二人取り残されてしまうからだ。

 紅玉は兄の背が見えなくなると、静かに部屋に戻った。

 前の地域と完全に絶ちたかった父親は、生活保護さえも切った。いや、実際はパチンコを止めないと支給を止めると脅されて、ムキになって自分から止めたのだ。

 そのお陰で保育園は無料にならなくなった。とはいえ低所得者に変わらないのだから費用は最低額で行けたのに、その微々たる保育料さえも辰利はケチった。そして風虎の面倒は紅玉にさせ、雲竜が戻ってくるまで家で留守番させることにしたのだ。

 辰利は目先の数字ばかり気にして、その先のことが見えない、浅はかな男だった。

 

  二人は少しだけ家の中で遊ぶと、紅玉は風虎を連れて近所の公園に出かけた。父にも兄にも外へ出るなと言われていたが、遊び盛りの二人が家でじっとできるわけがない。

二人はいつも父親が外出すると公園に遊びに行った。公園には年齢の違う子供たちが入れ替わり立ち代わり遊んでいた。二人も彼らに混じり遊ぶのだ。

 今まで保育園で日中過ごしていた紅玉にとって、保育園に行かない生活は戸惑うことばかりだった。

 しかし、こうやって他の子たちと遊んだり、弟の面倒をみていると時間はあっという間に過ぎた。

 ただ、最初は優しく話し掛けていた子供たちの母親らも次第に遠巻きに見るようになった。毎日汚れてボロボロな服を着て、同じような格好をした二人は余りにもみすぼらしく目に余った。

 太陽が頭上に差し掛かると、次々に公園から人が居なくなる。

「風虎、そろそろ家に帰ろか。もう昼ご飯や」

「パン………」

風虎が渋い顔をした。

「けどお腹空いたやろ?」

 家に戻り、紅玉はキッチンの籠から菓子パンの袋を取り出し、こたつテーブルの上に牛乳と一緒に置いた。

 閉店間近のスーパーで父親が沢山買ってきた見切り商品だ。調理が出来ない二人の昼食はほぼ毎日売れ残りのパンだった。パンならば離乳食完了期の風虎にも食べれるだろうと思ったようだ。

「うううう」

風虎は半べそになりながら座った。

 引っ越すまで通っていた保育園では栄養バランスの取れた美味しい給食が出ていた。例え朝晩のご飯が足りなくても、例え晩御飯が出なくても、保育園に行けば美味しい給食が食べられていた。

 引っ越して以来の、この変わりように風虎は中々慣れなかった。

  紅玉だって慣れた訳ではなかった。ただ判っていた。母親が出て行ったから。父親がそうしろと言ったから。お金が無いから。

 二人はパンの前に座って手を合わせた。

「ほな風虎いくで、おててをあわせてぱちん『いただきます』」

「いーます」

保育園の頃の習慣だ。

 二人はボソボソするジャムパンを頬張った。

 食べ終わってもお腹はいっぱいになったのに何か物足りない。二人は満たされない思いを残したまま、食事を終えた。

「るー、ちーでた」

風虎がもじもじしている。保育園ではトイレットトレーニング始まっていたから、風虎は事後申告できるようになっていた。だが、まだ自分から行くことはできない。

「えー風虎。どして出る前に言わんのん。今日はもうオムツの替えがないんよ」

 父親は中々オムツを買ってきてくれなかった。オムツを買うお金さえパチンコに使ってしまうからだ。

 最初の頃は、昼間は保育園に行っていたから大して問題は無かった。しかし、4月から保育園に行かなくなると、急激にオムツの減りが早くなった。それは当然の成り行きではあったが、父親は子供の面倒も家の事さえも関心を持たなかった。

 仕方なく雲竜が「オムツは一日2枚まで」と制限した。

 だからと言って、雲竜や紅玉にトイレットトレーニングの知識があるわけない。ましてやアパートにおまるがあるわけもない。オムツに駄々漏れするしかなかった。

 しかし、保育園でトイレットトレーニングをしていた風虎にとって、排泄後のオムツは不快でしかなかった。

 シクシクと泣く風虎を前に、紅玉は固まってしまった。そのうち風虎は泣きながらオムツを脱いでしまった。

「次行きとうなったらちゃんとトイレに行こうな」

 紅玉は精一杯そう言うと、押入れから保育園時に使っていたお昼寝用布団を取り出し、ベランダ窓の傍に敷いた。

「さあ、ご飯食べたらお昼寝や」

まだべそをかく風虎を抱くように布団に横たわり、窓から差し込む陽だまりの中、目を閉じた。

 

  昼下がり。タタタタタっと駆ける足音があった。雲竜の足音だ。

急いで帰ってきた雲竜はアパートの前まで来てギョッとした。

お尻丸出しの風虎が一人アパートの前で土を弄っていたのだ。

「風虎!! おまえお尻丸出しやん。恥ずかしいわ。それにまた紅玉を置いて一人で外に出たりして………」

「にいに」

風虎はニコニコしながら、伸ばしてきた雲竜の手をするりと交わした。

「こら風虎! 遊んでるんやないで。それより紅玉は?」

「るーねんね」

「紅玉はまだ寝とるんか? しゃーないなあ。一旦家に戻るか」

そう言うと素早く風虎の腕を掴んだ。

「いやー」

風虎は身体をのけぞって嫌がる。しかし、雲竜は強引に風虎を引っ張りアパートに連れ帰った。いつまでも弟をフルチンで放置するわけには行かない。

部屋に戻ると紅玉は起きていた。そして一生懸命雑巾で何か拭いていた。

「ただいま! 紅玉、風虎が下で遊んどったで」

 雲竜の声で振り向いた紅玉は鬼の形相だった。

「風虎! また布団にオネショして! お兄ちゃん、虎はオネショしたくせにウチが寝ている間に逃げ出したんよ。こら風虎!!」

 とっさに風虎は雲竜の足元に隠れてしまった。確かに部屋から微かにおしっこの匂いが漂っていた。

「まあまあ。紅玉、学校からバナナ持って帰ったけんみんなで食べようや」

「バアナ!」

風虎が嬉しそうに顔を出した。

「風虎は一番最後やで」

紅玉は意地悪で怒りを収めた。

 雲竜は時々給食の一部を持って帰ってきた。持って帰りやすいものばかりだったが、それでもいつも単調なパンに飽き飽きしていた紅玉と風虎は楽しみにしていた。

 雲竜は自分だけ美味しい給食を食べられることが後ろめたかった。幼い弟妹を置いて学校に行くことに引け目を感じていた。

 特に紅玉には、風虎の世話を押し付けるような形になってしまっていることが申し訳なかった。だから罪滅ぼしの意味も込めてこっそり持ち帰っていた。何とかして二人を喜ばせてあげたかった。

 梅雨に入ったある日。長雨が続くアパートの一室は、真昼でもじめじめと暗い。

 3兄弟は部屋の窓から外の景色を眺めている。他にすることがないのだ。

 ピンポーン

 3人は顔を合わせる。そして仕方なく雲竜が立ち上がり、応対に出た。

「はい」

 雲竜が玄関のドアを開けると、雲竜の担任、中村が立っていた。

「佐藤君……。元気そうやね。何も連絡がないまま休んどるから心配して来たんや」

「………父が給食費を払うくらいなら、学校行かんでいいと………」

雲竜は俯いてボソボソと呟くように答えた。

 父親の辰利は最初の4月だけ給食費を支払うと、後は催促されても払わなくなった。そして頻繁に辰利の携帯に連絡してくる学校が鬱陶しくなり、上記の言葉を雲竜に言い渡したのだ。

 雲竜が無断欠席をして1週間。携帯電話に掛けても父親は出てくれないし、雲竜の家には電話を置いてないため、ついに中村は雲竜の自宅を訪れたのだ。

「そう……。今日はお父さん仕事?」

「はい」

「……そう」

 中村はぐちゃぐちゃに散らかった家の中に目を見張った。それ以上に部屋の奥から覗いている、不健康に痩せた紅玉と風虎に目が行った。

「お父さんに伝えてくれるか? 給食費払えんでも学校に通わせて下さいって。佐藤君も遠慮なく学校においで。お金払わんからって給食食べさせんなんて言わんから」

 中村は何とか学校に出てこさせないと、このままでは拙いと瞬時に感じた。

「………けど妹たちの面倒を見んと………。特に弟は目を放すとすぐどっかいってしもうて危ないんや」

 本当は雲竜自身も学校へは行きたいとは思っていた。給食の残りを弟妹に持って帰ってあげられるという思いもある。しかし、弟妹たちの身を思えば、彼らのそばで面倒を見るべきだという思いもあり、葛藤していた。

「勉強は大事やぞ。誰かを守りたいんなら、尚更知識は必要や。学校で習ったことは必ず別の形で役に立つから。社会に出た時、学校でちゃんと勉強していたかどうかで、生き方が変わることだってあるんや。勿論、教科書の内容だけじゃ足りないこともある。でもな、算数だけじゃない、理科や社会、国語を通してでも生きる方法を見つけることもあるんや。本当に妹さんや弟さんを守りたいんなら、学校においで。まずはキチンとした基礎知識を身に付けることや」

「………分かりました。考えときます………」

 教師の言うことは痛いほど分かった。妹たちを守る方法をもっと知りたいとも思う。でも、自分が学校に行っている間、誰が弟たちを守ってくれるのかという現実が目の前に立ちはだかっていた。

 中村は雲竜の顔をずっと見つめていたが、最後まで雲竜は中村の顔を見ようとしなかった。何か見透かされるのを恐れているかのように。中村はしばらく彼の顔を見ていたが、諦めて帰る事にした。

「ほな、学校で待っとるから。給食を食べるために来るだけでもええからな」

 そう言うと中村は雲竜の家から立ち去った。去り際、ちらりと部屋の奥へ目をやった。好奇心いっぱいの瞳がこちらを見ていた。

 アパートの階段を降り、傘を開いてアパートの前の通りへ出ると雲竜たちの部屋を振り返った。彼らの部屋のカーテンが揺れている。

 彼が再び学校に来るようになることはないかも知れないと中村は思った。部屋の奥で光る4つの目を思い出した。少なくとも妹は幼稚園に行ける歳であったはずだった。彼らの家庭環境なら、保育園にも難なく入れるはずだ。それなのに彼の口ぶりからすると保育園にも行かせてないのだろう。日中妹たちだけに留守番させるなんて信じられなかった。

 翌日、意外なことに雲竜は学校に来た。しかし相変わらず給食費を持参してくる様子はなかった。でもそれで良かった。例え給食だけが目的だとしても、学校に来てさえしてくれれば、それで良かった。

 それに雲竜は、これまでも真面目に授業を受けていて、テストの点も悪くなかった。彼自身に問題はないのだ。

 

 梅雨が明け、目前に夏休みを控えていた。

 雲竜はガリガリに痩せて身体にランドセルを背負い、家を後にした。この頃になると、父親は夜遅くに帰ってくるようになり、生活費も週末に千円札を1枚のみを置いて出るようになっていた。当然それで子供3人のお腹を満たす事など不可能で、雲竜は自宅では食べ物を口にせず、全て弟妹に回していた。そして自分は学校の給食のみを頼りに生活していた。

 この頃になると、弟妹たちは外の公園で遊ぶ体力も無くなり、日中は部屋で遊んだり、ゴロゴロ寝てばかりだった。

 雲竜がガリガリに痩せていく様を見ていると、最初は給食費を払わない雲竜に対してからかったりしていた同級生たちも、次第に口を噤むようになった。

 担任の中村も黙ってみていた訳ではない。雲竜がどんどん痩せていることに気付き、学年主任や教頭と相談し、7月の頭には児相に相談していた。

 中村自身も時々差し入れを持って雲竜宅に様子を見に行くようにしていた。最初はお菓子などを持っていっていたが、貪るように口にする弟妹たちを目の当たりにしてからは、おにぎりなど栄養と腹持ちの良いものを持っていくようにした。

 児相も学校からの通報後、度々連絡を取ろうとしたが、携帯は繋がらず、自宅を訪問しても子供だけがいるばかりで、父親は避けているのか夜になっても帰って来なかった。

 子供たちに伝言や文書で父親に伝えるようにしても、一向に父親とコンタクトを取ることが出来なかった。

 父親の辰利は苛立っていた。ついに児相が出てくるようになったからだ。それでも辰利はパチンコ通いを止めることはしなかった。それにその頃には曲がりなりにも彼女ができ、そちらにばかり目が行き、子供の事が億劫になり始めていた。

 それでも辰利が子供たちを施設などに手放したりしないのは、3人分の児童手当16万円が何もしなくても年に3回も入ってくるからだった。施設や親戚に預けたりすると、手当が自分に入ってこなくなることを知っていた。

 児相の介入が近いうちに入るのは目に見えていた。辰利はどうしたら良いものか頭を悩ませるようになった。

 そんな時だった。先月付き合い始めたばかりの彼女と繁華街を歩いている時のことだった。

「なあ、ネット版赤ちゃんポストがあるって知っとる?」

「何それー」

「ほら、赤ちゃんポストってあるやん? あんな感じでえ、ネットで書き込めば匿名でも子供を引き取ってくれるんやってえ」

「何それー、それって都市伝説? ホンマやったらヤバくない?」

 辰利が声のする方を見ると、キャバ嬢らしき女性たちの姿がちらりと見えた。その時は「何をバカなことを」と思っていたが、時間が進むに連れ段々とその事が頭の中を占めるようになっていた。

 彼女とのデートをそこそこに切り上げると、辰利は自宅に帰り、眠った子供たちを尻目に一生懸命スマホで検索し始めた。そして深夜、ようやくそのサイトに辿り着いた。

 雲竜の小学校が夏休みに入って三日目の朝。雲竜は仕事に出かける父親に食費を求めた。いつもなら渋って中々財布を出さない父親なのに、その日は千円をすっと財布から出して雲竜に手渡した。ただし、何か書かれた紙と一緒にではあったが。

「父さんこれは?」

紙に書かれた地図を見ながら、雲竜は父親の顔を見た。

何とか平常を装い辰利は答えた。

「今日、そこに書かれた場所に11時ぐらいに紅玉と風虎を一緒に連れて行け。そこに行けばご飯を食べさしてもらえるから」

 雲竜は訝しんだ。父親が素直にお金を出すこともそんな指図をすることも今までなかったからだ。

「ここに何かあるの?」

地図に示されていたのは、少し離れた所にある公園だった。

「あれだ、炊き出しだ」

「炊き出しって?」

「貧しい人に食べ物を配ってくれるところがあるんや。そこに行けばお腹いっぱい食わしてもらえるんやて」

 雲竜もどこかで聞いたことがあった。だから父親の言葉を素直に受け入れてしまった。

「お前も一昨日から夏休みに入って給食が食べれんくなったから物足りんやろ? 最近児相の奴らも来るようになったしな………。俺もお金が無くってお前たちの満足に食べさせやれんくて、悪いとは思ってるんや。だからせめてもと思って調べてきたんや」

 辰利がもっともらしい言葉を並べ立てる。

 その言葉で雲竜は信じることにした。つまり父親は少しでも食費を浮かせたいのだと受け取ることにしたのだ。

「………分かった」

 雲竜の返事に満足すると、辰利はさっさと仕事に行ってしまった。

「お兄ちゃん、ご飯がいっぱい食べれるってホンマ?」

部屋の奥でやり取りを聞いていた紅玉が出てきた。風虎も紅玉の後を追うようにフラフラと雲竜の側に寄って来た。

「そうみたいやな。でもこの地図の通りやとしたら、ちょっと遠いなあ。お前らの足やと結構時間が掛かるやもなあ」

 地図に示された場所はここから2キロくらいあった。雲竜が時計を見ると8時半を過ぎていた。幾らなんでも2時間は掛からないとしても、二人の体力を考えると少し厳しいものを感じた。

「それでも行くか? 頑張って歩けるか?」

 雲竜が尋ねると、二人は目を輝かせて頷いた。

「うん!」

最悪、風虎は自分が背負うことを覚悟して、雲竜は二人に服を着させ、キツキツになった靴を履かせ、アパートを出た。

途中、いつも行くパン屋に寄り、パンの耳を貰ってきた。いつもは200円くらいでパンの耳や売れ残ったパンを分けてくれるのに、紅玉や風虎の姿を見た店主がタダでパンの耳や3人分のパンをくれた。パンが貰えて紅玉と風虎は嬉しそうだったが、雲竜は内心複雑だった。同情されるほど自分たちの姿が惨めであることを思い知らされたからだ。

自分たちがいつも空腹で、弟妹たちがどんどんガリガリになっていき、その日食べる物のことばかり考えている生活を自覚しているつもりだったが、自分たちが同情されるほど酷いとは気付いていなかった。

   3人は、一つのパンを3人で分けて食べた。これからご飯を貰いに行くということもあったが、何より今日みたいに父親がすんなりお金をくれることは珍しく、今までも一日一食で何とか耐え凌ぐ生活がずっと続いていたので、今後に取っておこうと思った。

家の近くの公園で、喉を潤すと、ようやく3人は地図に示された場所へ向った。

   7月の夏の暑さがアスファルトからじわじわと襲ってきた。500mも歩かないうちに一番体力の無い風虎が音を上げた。

 泣きべそをかきながら、紅玉の服を引っ張っていた。

「風虎、兄ちゃんがおんぶしてやるから」

 そう言いながら紅玉の顔を見ると、こちらも疲れた顔をしていた。仕方なしに雲竜は歩道にある木陰に座った。そして二人を手招きした。

「仕方ないから、ここで少し休むか。先はまだ長いんやからな」

 3人は横一列に並んで座り、時折吹く風で涼んだ。

雲竜はおんぶ紐を入れた鞄からさっき貰ったコッペパンを一つ取り出すと二つに割って二人に渡した。二人の状態では永遠に炊き出しのある公園まで辿り着けそうにないと思ったのだ。受け取った二人は嬉しそうにパンに齧り付いた。

「お兄ちゃんは?」

紅玉が聞いてきた。

「僕はさっき食べたんで充分。お兄ちゃんはお前たちと違うて大きいからな」

 にかっと笑って紅玉を安心させようとした。紅玉は納得いかない顔のまま、静かに頷いた。

 二人が食べ終えるのを待って、雲竜はおんぶ紐を取り出した。そして風虎に背を向けた。

「紅玉は自分で歩けるか?」

「うん。ウチは大丈夫。でもお兄ちゃん大丈夫?」

「僕は大丈夫や。それにこのまま3人で歩いとったら炊き出しが終わってしまうで」

 風虎を背負った雲竜は立ち上がり、ぴょんぴょんと軽く跳んで風虎の位置を調整した。

「悪いけど紅玉、パンが入った鞄持ってくれるか? 辛うなったら代わってあげるからな」

 紅玉は嬉しそうに手を伸ばした。いっぱいパンが入っているからだ。

「大丈夫。ウチだってこれくらい持てるもん」

 そう言うと紅玉は得意そうにかばんを背負った。

「ほな、行くか」

 風虎を背負った雲竜と紅玉は再び公園に向って歩き出した。

 

 3人が指示された公園についたのは、1時間程たった頃だった。

 その公園はさほど大きくは無いものの、広々とした空間なのに、木々が生い茂った中に近所の公園にはないブランコや複合遊具が置いてあった。それを見た紅玉と背中から降ろされた風虎は、雲竜の制止も聞かずに嬉しそうに駆けて行ってしまった。

 雲竜は公園の遊具に集う親子たちしかいないのを見て、訝しむ。しかし、楽しそうに遊び、嬉しそうに自分を呼ぶ弟妹たちを見たら、疑問も吹っ飛び、弟妹たちの方に走って行ってしまった。

 しばらく遊んでいた雲竜だったが、ふと違和感を覚えた。公園を見回しても一向に炊き出しの準備が始まる様子がないのだ。それにこの公園には炊き出しを必要とする人たちも見当たらなかった。

 本当にこの公園で炊き出しがあるんだろうか。

 一緒に遊ぶ子供たちもその親たちも特に気にすることなく、遊びに集中している様子。

 本当に炊き出しなどあるんだろうか。

 疑い出すと止まらなかった。ついには父親の言葉さえ疑わしくなった。雲竜は一人輪から外れ、遊具の側から公園の様子を観察し始めた。

 11時を過ぎた時だった。公園の入口にボロボロの白い業者用のステーションワゴンが止まり、一人の男性が降りてきた。そして誰かを探すように公園に入ってきた。

 やばい!!

 そう本能が雲竜に告げた。雲竜は瞬時に動き、風虎の手を掴んだ。

「風虎、そろそろおしっこに行かんと。紅玉、お前も行くで」

 そう言うと、まだ遊びたがる風虎を強引に引っ張っていった。それを見て紅玉も渋々後から着いて行った。

 実際、公園に着いてから全くトイレに行かせるのを忘れていた。

 運良く、風虎のパンツは濡れていなかった。パンツとズボンを脱がせ和式トイレに跨がした途端、勢い良くおしっこが飛び出てきた。

「ふーセーフ」

 雲竜は安堵した。替えのパンツなど持ってきていなかった。風虎の用を出し終えると、一つしかないトイレを紅玉と交代した。手を洗いながら、さっきの男性を観察した。やはり誰かを探しているかのように、公園に居る人たちをじっと見ていた。そして時折こちらの方もちらちらと見ていた。

 男性は離れていてはっきりとは分からなかったが白いポロシャツのような物を着て、黒っぽいズボンを履いていた。雲竜の記憶の中にこれと似たような格好をしている人が居た。児童相談所の職員だ。

 それに気付いた雲竜は、トイレから出てきた紅玉に言った。

「やばい。あの男に捕まったら、連れて行かれる。紅玉帰るで」

「けど、ご飯は?」

 雲竜は残念そうに首を振った。

「公園を見てみい。どう見てもご飯貰えるような雰囲気やない」

 紅玉と風虎の手を引いてトイレ近くの出口から雲竜は公園を出ようとした。

「あ、パンのカバンが……」

 紅玉が複合遊具の近くにカバンを置いたままにしていた。

「もう!」

 雲竜は二人の手を引きながら、方向転換して遊具の方へ走った。3人に気付いた男がゆっくりと歩き出した。雲竜はそれを横目で見ながら、何とかカバンを手に取ると、何事も無かったように今まで一緒に遊んでいた子達に顔を向けた。

「ほな俺たち帰るね」

「もう帰るん? お昼まだやで」

「うん、家が少し遠いんや。じゃあな」

「ほなね、バイバーイ」

 雲竜が手を振ると、紅玉と風虎も吊られて手を振った。そうしながらも雲竜は猛烈な速さで公園を出て行った。

 それに気付いた男も走り出したが、3人が公園を出てしまうと、諦めたように立ち止まり、携帯を取り出して耳に当てていた。

 公園から少し離れ、男が追ってきていないことを確かめると、雲竜は二人の手を放して立ち止まった。

 3人ともはあはあと息を荒く吐き出していた。

「ちかれた」

 風虎がポツリと呟いてしゃがみこんだ。

「ご飯、食べれんの?」

 紅玉も風虎と並んでしゃがんでしまった。雲竜は息を整えながら口を開いた。

「うーん。あの公園、炊き出ししそうになかったしな………。父さん場所間違えたんかもなあ」

「走ったからお腹空いたあ」

 いつもは文句を言わない紅玉が疲れた顔で、雲竜に訴えた。ご飯が食べられると期待していただけに、その落胆は大きかったようだ。

「ごめんなあ。でも何かあの男の人に捕まったらどこかに連れて行かれるかも知れんと思ったんや。そんなん嫌やろう? 知らん人に捕まるの嫌やろう?」

 紅玉と風虎は頷くものの、疲れた顔で雲竜の顔をじっと見つめていた。

「……しゃあないなあ、ほな最後に残ったアンパン二人で食べな」

 雲竜はカバンから3つ貰った最後の一つを半分に千切って紅玉と風虎に食べさした。

 二人は嬉しそうにパンを頬張った。甘いこしあんが疲労した二人の幼児の身体に染み込む。しかし紅玉はちらりと雲竜の顔を見た。兄が気になった。

 顔を歪めていた雲竜は、紅玉の視線を感じ、紅玉に笑顔を向けた。

 雲竜だって疲れていないわけ無い。お腹だって空いてないわけじゃない。それでも我慢できたのは、二人の弟妹を守りたいからだ。ガリガリにやせ細り、遊ぶ元気も無くなり、日中自分が学校に行っている間寂しい思いをさせている二人に罪悪感を持っていた。

 そんな必要もないのに。彼に責任は無いのに。

 それでも今の雲竜を支えているのは、自分が二人の兄だということだった。自分さえしっかりしていれば二人を守れる。自分がちゃんと二人を見てさえいれば、あの父親の下でも生きていけるという思いだけだった。

「それ食べ終わったら行くで」

 雲竜は二人にそう告げた。

「どこいくん?」

「えーまた歩くん?」

 二人が口を尖らせて抗議した。

「家に帰るんや。炊き出しは無さそうやし、またあの男が追ってくるかもしれんしな……」

 二人はパンを食べ終わっても立ち上がろうとしなかった。雲竜に促されてもしゃがみこんでいた。

 久し振りの公園遊びにはしゃぎ過ぎて、それでなくても足りない体力を使い果たしてしまったのだ。

「さあ帰るで。帰ったらご飯食べれるから」

 雲竜が二人を奮い立たせようと声を掛ける

「どうせお結びかパンやろ?」

紅玉が顔を顰めて言った。

「もうパンはない。さっき食べてしもうたからな。それに、今朝父さんからお金貰ったから、何か違うもん買おうか思うとる」

「ホンマ?」

「ホンマ!」

 紅玉が嬉しそうに立ち上がった。風虎も紅玉の真似をして立った。

「うん!」

「ウチ、お好み焼き食べたい!!」

「お、お好み焼きー!?」

 雲竜は困惑した。そして頭の中で計算が始まった。

「……うーん。できるかどうかはスーパーに行ってみんと……」

 今後を考えたら、粉を買えても卵やソースそれに具を買う余裕が無さそうだった。

「もしかしたら出来んかもしれん。せやからあんまり期待すんなよ」

「う…ん」

 紅玉は少しガッカリした顔で頷いた。

「さあ、行くか」

 雲竜は、紅玉と風虎の手を取り歩き出した。

しかし15分も立たないうちに、また風虎が歩けないと座り込んでしまった。仕方なく雲竜は風虎を負ぶった。

「ウチもしんどい」

 紅玉まで駄々をこねだした。困惑したものの、雲竜は一度青空を見て困惑顔を笑顔に変えて紅玉に向けた。

「お兄ちゃんが手を引っ張ってやるから。家は逃げないから、休み休み帰ろう。な、だから歩こう!」

 雲竜は紅玉の手をぎゅっと握り、強く引っ張った。渋々ながら紅玉は足を動かす。雲竜の横顔を見ると口元が歪んでいた。兄だって疲れているのに我慢して弟を負ぶっているんだと気付いた。紅玉は自分の手を力強く引っ張る兄をもう一度見た。弟を背負う背中も自分と手を繋ぐその腕も頼もしく見える。でも実際は顔も身体も自分と同じように痩せこけていた。それを見た紅玉は手に力を入れ、自分の力で歩き出した。

 弟を背負っての2キロの往復は流石に応えた。3人は本当に休み休み自宅に戻った。アパートの部屋に着いた時には3時を過ぎていた。

 背中で寝てしまった風虎を奥の布団に寝かせ、留守番を紅玉に任せると、へとへとになった身体を奮い立たせて雲竜は買い物に出かけた。いつもは一緒に来たがる紅玉も流石に疲れ果てたようで、ついて来ようとしなかった。

 初めに雲竜は近所のスーパーに向かった。しかし、とてもそこではお好み焼きは食べられそうになかった。仕方なく少し離れてはいるけど、安い食料品を置いてあるディスカウントショップへ向った。予想通り、98円のお好み焼き粉があった。問題は卵だった。今後を考えたら卵を買う余裕がなかった。

「これじゃあ毎日お好み焼きになってまうやん………」

そう呟いて雲竜はふと考えた。それの何が悪いのかと。今もほぼ毎日あの子たちは売れ残りのパンを食べている。それがお好み焼きに変わるだけのことだ。そう納得すると雲竜は卵とキャベツを手に取り、レジへ向った。

買い物袋を手にした雲竜はほくほくだった。重かった足も、心なしか軽い足取りになっている。久し振りに食べられるお好み焼きに、雲竜自身も嬉しかった。しかも手元には500円以上の現金が残っていた。これだけあれば、もう2週間くらいやっていけそうだった。

自宅に帰ると、弟妹たちは大喜びだ。

「やったー。お好み焼き!!」

「このみやき」

「その代わり、今日から毎日お好み焼きやで。厭きても文句言わせんからな!」

 雲竜は一言忠告しておいた。

 お腹いっぱい食べられた訳じゃないけど、それでも久し振りに味のある、しかもキャベツという具が入ったお好み焼きを食べられて、3人は大満足だった。3人は昼間の事などすっかり忘れ、あっという間に食べてしまった。しかし昼間の疲れがどっと押し寄せてきたようで、後片付けもそこそこに布団を引くとあっという間に寝入ってしまった。

 夜9時過ぎ、ガチャガチャとドアノブの音が響き、父親の辰利がほろ酔い加減で帰ってきた。

 しかし辰利はドアを開けて、呆然とした。三和土に脱ぎ散らかされた子供の靴を目にしたのだ。

 裏切られた思いで、つかつかと奥の部屋に行き、辰利は眠っている雲竜を起こした。

「おい、雲竜。雲竜起きろ。今日渡した紙の所に行かんかったんか? おい、あの公園には行ったんか?」

「う……ん。と…さん。行ったよ。公園やろ。あの公園で合っとるんなら二人を連れて行ったで。でも炊き出しなんてなかったで」

「あ、ああ」

 炊き出しなどしていないのは分かっていた。それは嘘なのだから。

「それやったら、誰か来んかったか?」

 この頃には雲竜の目も段々覚めてきていた。

「誰か?」

「ああ、公園に人おらんかったか?」

「おったよ」

「声掛けられんかったんか?」

「声って、一緒に遊んでいた子らのこと? それともその子らのお母さん?」

「あ、いや……」

 まさか雲竜たちを迎えに来た人なんて言えなかった。

 どうせ子供を捨てるつもりのくせに、辰利は雲竜たちに本当の事を告げることができなかった。後ろめたさもさることながら、この期に及んで悪者になりたくなくて言えなかった。

「もうええ。分かったからもう寝ろ」

 そう言うと辰利は奥の部屋から出て、居間に座った。雲竜は少し考えるそぶりをしたが、眠気の方が勝り、枕に頭を戻した。

「くそー、なんやあいつら。ちゃんと連れてってくれんのんか。騙しやがったんか!!」

 ふつふつと怒りが湧いてきた。スマホをポケットから取り出すと、先日申し込んだサイトにアクセスした。そこに載っているメールアドレスに思いの丈を込めた抗議のメールを送りつけてやった。

 翌朝、辰利が会社に向っている時に返信のメールが届いた。それは長いメールだった。

 

“申し込み頂いたお子様を保護できなかったことは大変残念ですが、サイト内の注意事項をよくお読みの上、申し込みをお願いします。

以下抜粋した注意事項です。

・2歳以上の歩けるお子様の場合、指定の場所から離れてしまわないように注意してください。指定の場所付近に指定の場所に子供が居られないと当然引き取り様がありません。もし言い含めることが難しい場合、手渡しされるか直前まで一緒に居るようにして下さい。

・屋内(例え家屋でも)を指定する場合、鍵の掛かっていない場所にすること。

・なるべく公共施設や不特定多数の人が出入りする場所、目立つ場所は避けること。

ボランティアで行っておりますので、職員の数が限られております。確実に子供たちを保護できるように、申し込まれる方にもご協力をお願いしております。“

 

「くっそ、立ち会わなあならんのんか!! ったくめんどくせーなあ」

折角気前良く千円を持たせてやったのに、このザマか。……まあいい、直前までおればええんやから。何とかなるだろう。

そう思うと、再びスマホを見つめた。

あくまでも辰利は自分の手で下したくはなかった。自分が可愛いかった。

 

数日後の土曜日。半ドンで仕事が終わった辰利は自宅のアパートに真っ直ぐ帰った。

子供たちは目を丸くして父親を見た。

「そんなに驚かんでもええやろう。今日はお前らに良い所へ連れて行ってやるんやから、出かける用意をしろや」

 父親の言葉に即されて、紅玉と風虎は素直に従った。下着姿で日中過ごしている二人は、数少ない服の中から比較的汚れていない服を選び始めた。

 素直に父親の言葉を受け入れられない雲竜は懐疑的な目を父親に向けた。

「ええから手伝ってやれ」

 雲竜の視線に居た堪れなくなった辰利は、声を大きくして視線を追い払った。雲竜は渋々弟妹たちの所へ行った。

「ええ服選んでやれや」

 ますます雲竜の懐疑心が深まった。雲竜は二人の着替えを手伝いながら、二人に囁いた。

「二人とも、遠い所に行くみたいやから二人の大事な物も持っといで」

 雲竜の直感が、もうこの家に戻って来られないと告げていた。認めたくはなかったが………。

 紅玉と風虎は困惑していた。二人が持っている物など僅かしかなかった。3月の引越しの際に壊れている物は全て棄てられた。何とか二人が出してきたものは、辛うじて原型を留めているネコのぬいぐるみとタイヤが取れた車のおもちゃだった。

 ネコのぬいぐるみもおもちゃの車も母親が与えてくれたものだ。それは風虎が生まれる前の話だ。風虎が乳児の頃をどれ程覚えているのか、雲竜は分からなかったが、風虎には母親との思い出が残っていないことを改めて可哀想だと思った。

まだ2歳だというのに……。風虎は母親のことを全く覚えていない。母親と出て行っていた3か月間、一体どんな暮らしをしていたのか分からなかったが、覚えてなどいないだろうけど、どうか幸せなひと時であって欲しい。覚えていなくてもその記憶の奥底に刻まれていて欲しいと雲竜は願った。自分たちを置いて出て行った母親の姿は哀しいものだったけれど、それでも自分と紅玉は思い出の中に優しい顔の母親を見ることが出来た。

 雲竜は奥の部屋の棚に置いてあったボロボロの絵本を取りに行った。それが唯一この家に残っている本だった。ボロボロになり過ぎたため、雲竜は引っ越して来た時に、この本を読むことを禁止した。形が崩れてしまったらいけないからだ。この本は風虎が我が家に来た時に一緒に置いていかれていたものだった。

  それでもきっと二人は雲竜が学校に行っている間にこっそり読んでいたのだろう。お菓子の家が表紙に描かれたその絵本は棚の上段に置いておいたはずなのに、今は一番下の棚に置いてあった。

「おい、まだか」

  父親が少しイラついた声で言った。敏感にそれを感じ取った雲竜は、さっと絵本をリュックの中に入れた。その絵本は父親の神経を刺激する物でもあった。

 「紅玉、風虎。二人ともそれでええか?」

  雲竜が聞くと二人はコクリと頷いた。

 「ほな、行こうか」

   雲竜は二人の背中を押した。二人はとととっと急いで父親の待つ玄関に行った。雲竜もリュックにおんぶ紐を入れて背負うと二人の後を追った。

「ほな、行くで。少し遠いから急ぐで」

  父親はさっさと一人で玄関のドアを開け、子供たちが出てくるのを待っていた。

もたもたと靴を中々履けない風虎を紅玉が手伝って履かせようとしている。

その様子を見て、辰利はいつものごとくイライラし始めた。しかし言葉が出てきそうなのをぐっと堪えた。今日でこの煩わしさもお仕舞いなのだからだ。

そんな辰利の様子を弟妹たちの後ろから雲竜はじっと見ていた。風虎が靴を履き終わり、二人は何も知らないままさっさと玄関の外へ出て行ってしまった。順番が来た雲竜が靴を履きながら部屋を振り返った。

もうこの部屋に戻ってくることはないんやろうなあ………。

この部屋に愛着がある訳じゃない。春に越して来たばかりの、やっと馴染み始めた部屋だ。平日の昼間は学校でいないし、それ程この部屋に長く居たわけじゃない。それなのにどうしてこんなに切ないのだろうか。どうしてこんなにこの部屋を去りがたいのだろう。雲竜にその理由が分からなかった。

「おい早くしろ!」

待ちきれなくなった辰利が声を荒げた。

正面に向き直った雲竜はじっと父親の目を見た。自分たちをどこに連れて行くのか無言で問う。

  父親は雲竜の視線に耐えきれず、ぷいっと不機嫌に玄関の外に行ってしまった。

  靴を履き終えた雲竜はもう一度振り返った。そして玄関のドアを潜り抜けながら言った。また戻って来れることを願いながら。

「行ってきます!」

 

  アブラゼミの時雨が降り注ぐ、緑に囲まれた公園に子供たちは感激した。

電車に乗って着いた公園は、奥行きが見えない程の広い敷地を緑の木々が囲い、芝生が敷かれた広場や、噴水からあふれる水が園内を小川となって巡り、沢山の遊具が置かれた遊び場がある大きな緑地公園だった。

体力が落ちているはずの紅玉と風虎が歓声を上げ、目を輝かせ目新しい遊具に走って行った。

 置いてけぼりを食らった辰利と雲竜はそんな二人を眺めていた。無邪気に遊ぶ二人がそれぞれ全く違う意味で眩しく見みていた。

 辰利はあんなに嬉しそうに、楽しそうに笑う紅玉と風虎を久し振りに見た気がした。いや、風虎に限ってはあんなに笑顔は初めてだった。

土曜日の午後だからだろうか、周りを見ると子供を連れた父親や夫婦を園内の至る所で楽しそうにしている。こんな形で無ければこんな場所に連れて来る事は無かっただろう。休日に子供たちと遊ぼうなんて今まで考えもしなかった。ここに来るまで、自分にとってここは子供たちが自力で帰って来れない所にある公園としか考えていなかった。

辰利はずんと気持ちが落ちた。自分は今まで子供たちに何をしてきたのだろうか。なぜ自分は子供たちに見向きもしなかったのだろうか。それなのにどうして子供たちを手元に置くことに固執したのだろうか。自分の記憶にある子供たちは目の暗い、いつも腹を空かせた顔しか残っていなかった。自分はあの子たちを幸せにしてあげれていないんだと辰利は実感した。罪悪感いっぱいの目で辰利ははしゃぐ幼い子供たちを見た。

 辰利の隣に並んで立つ雲竜は気が付いた。二人が来る途中からずっとはしゃいでいた理由を。リュックに荷物を詰めて背負い、兄弟と親と一緒に電車に乗ってのお出かけ。しかも途中の駅ではホームのうどんを食べさせてくれた。それは母が去り、風虎が来てから初めての家族旅行に等しかった。いつも兄弟3人でせいぜい近所の公園へ出かけるくらいだった。こんなに長距離、たった二駅分の電車移動ではあったが、こんなに離れた所に出掛けることなど今まで無かった。

 そうか、これが最初でさ、いや生まれて初めての家族旅行なんだ………。

そんな二人を不憫に思いつつも、汗を搔きながらもはしゃいで遊ぶ弟妹の姿を見ていると自分まで嬉しくなってきた。二人の笑顔が雲竜の幸せだったから。二人の姿を愛しそうに雲竜は見つめた。

そして雲竜は、ベンチに荷物を置くと二人の下へ駆けて行った。

 一方、罪悪感に耐え切れなくなった辰利は、視線を子供たちから外すと、スマホで時間を確認した。立っているだけ夏の日差しがじんわりと汗を誘う。雲竜が木陰となったベンチに置いた荷物の横に座って煙草を吸い始めた。

 端から見れば、子供の面倒を見る休日のお父さん、だろうか。しかし、ボロボロの服を着て、ガリガリに痩せ、清潔とは言えない出で立ちをした子供たちは決して幸せそうなという助動詞は付けれそうになかった。

 小一時間も遊んだだろうか。気付けば公園の時計が3時近くになっていた。

辰利は慌てた。そろそろ約束の時間だ。

「おーい、そろそろ終わりにしようや」

  声を掛けるも一生懸命遊ぶ子供たちの耳に声は届かない。仕方なしに、辰利は用意した手段に及ぶことにした。

「雲竜、紅玉、風虎―。おやつやー!」

  しかし3人はその声を聞き流した。母親が居なくなってからおやつなど食べたことないからおやつという存在を忘れてしまっていたのだ。

「おい、クッキーあるけど食うか!?」

 ようやく3人の動きが止まった。

「クッキー?」

  最初に反応したのは紅玉だった。紅玉は辛うじてクッキーの美味しさを知っていたのだ。だが風虎はキョトンとしていた。クッキーというものの存在を知らなかったのだ。保育園に通っていた頃はまだ離乳食だったので食べたこと無かったのだ。

そして雲竜は、信じられずに固まっていた。この父親がおやつをしかもクッキーを用意しているなど考えたことなかった。雲竜は疑いの眼差しでじーっと父親の顔を見ていた。

 「ああ、そうや。美味しいクッキーを貰ったんや。3人分あるから一緒に食べよう」

 「本当?」

  紅玉が駆け寄ってきた。それに釣られて風虎も父親の傍に来た。それを見て、仕方なく雲竜も父親の居る傍まで近寄った。

 「ホンマやで。ほら」

  そういうと、辰利はクッキーが入った紙袋を見せた

 「ほら食べ。けどここじゃあ、みんな遊んでて落ち着かなんからなあ、あっちへ行くか」

  そういうと辰利は紅玉と風虎の手を引いて歩き出した。出遅れた雲竜に辰利は振り返って目で付いて来いと合図した。

  辰利が示した場所は水飲み場が近くにあるベンチだった。しかし駐車場が目の前にあり、決して雰囲気のある場所とは言えなかった。

  けれども子供たちは特に気にしていなかった。それよりも父親が持っている紙袋に意識が行っていた。

「みんな、食べる前に手洗いやで」

紅玉が腰に手を当てて注意した。確かに、風虎の手は砂や遊具の錆などが付いて汚かった。

「あーい」

「紅玉は几帳面やな」

  笑いながら雲竜は風虎の手を引いて紅玉の後に続いて、水飲み場の蛇口で手を洗った。

  ベンチに座った3人に手渡されたクッキーはちゃんと個別包装された大きなクッキーだった。

「わあ」

  紅玉が感動の声を上げた。自分の手より大きいクッキーなど見たことなかった。

 「いただきまーす」

  紅玉も風虎も夢中でクッキーに齧り付いた。

  雲竜はクッキーを手に持ったまま、二人の美味しそうに頬張る姿を見ていた。父親の今までにない行動の一つ一つを目の当たりにする度にモヤモヤが増えて行くのに、雲竜はそれが何なのか分からなかった。いや、分かりたくなどなかったから、脳が思考を止めていた。ただ本能だけが警告していた。

 「おいちい」

 「おいしいなあ。こんなクッキー初めて食べたわ。父さん有難う」

 「あーがとう」

  紅玉と風虎が最高の笑顔を向けてお礼を言った。

 「お、おう」

  辰利は真っ直ぐにお礼を言われ、照れていた。

  二人が美味しそうに食べるのを見て、雲竜は安心して自分もクッキーを口にした。

  そのクッキーは安いクッキーとは違い、洋菓子店で売られている物だった。  余りの美味しさに、雲竜も夢中で食べていた。

  仄々とした家族の雰囲気をかもし出している間に、公園の時計が静かに3時を指した。

  時計を見ながらそわそわしていた辰利は、一台のステーションワゴンが駐車場に止まったのを確認した。そしてその中から一人の男性が降りてきて、指定の場所に子供たちが座っているのを見つけると、ゆっくりと歩き出した。

辰利はそれを認めると、立ち上がり子供たちに告げた。

「父さん、ちょいと飲み物買ってくるわ」

 そう言って、ベンチから離れた。

 近付いてくる男性と離れる父親を見て、蒼白になった雲竜は立ち上がった。

「父さん!」

  声を掛けられてビクッと辰利が立ち止った。けれども振り返りはしなかった。

 雲竜は今まで感じていた不安が確信に変わった。いや、気付いていたけれど認めたくなかった。しかし今それを、受け入れられなかった事実を遂に目の当たりにした。

 白地に細い縞が入ったポロシャツに濃い紺色のズボンを履いた30代位の男性が3人の傍にやって来た。そして優しく笑って声を掛けた。

「紅玉ちゃんに、風虎君。それから雲竜君だね。君たちを迎えに来ました」

 彼の言葉を聴いて、雲竜は目に溜まっていた涙が溢れた。そして近づく彼を拒絶し、立ち止った父親の背に手を伸ばして駆け出した。しかしそれに気付いた辰利はさっと雲竜の手をかわして歩き出した。

「父さん、僕らを置いて行くん? 僕らを捨てるの?」

 背中に投げかけられた言葉に拳をぎゅっと握って堪えた。辰利はぶつぶつと呟きながら歩き続けた。

「父さん、行かんで! 置いてかんで! 僕らを置いてかんでや! お願いだから捨てないで! もっと父さんの言うこと守るから。もっと風虎たちの面倒を見るから。もう我がままなんて絶対言わないから。もっと良い子でおるから。お願いだから僕らを見捨てんでよ………」

 雲竜が涙ながら必死に訴えた。それでも父親は立ち止まることも、振り返ることもしなかった。ただブツブツと同じ言葉を繰り返していた。

「俺には出来ん。俺にはお前らを幸せにすることは出来ん。俺はお前らを幸せに出来ん……」

 嗚咽を漏らし、父親を凝視する雲竜の手をそっと誰かが包んだ。

 紅玉と風虎だった。

「お兄ちゃん。大丈夫、うちらがおるよ………。うちらがずっと一緒におるから」

「にいに」

 雲竜は二人の顔を見た。二人とも笑顔で頷く。

 視線を父親に戻した。紅玉と風虎も父親の背中を見た。父親の姿が見えなくなるまで。3人は手を繋いでその姿を見ていた。

 彼の姿が消えると、雲竜の背中をポンと叩かれた。振り向くと、迎えに来た男性だった。

「改めまして、川崎と言います。『天使の家』という児童養護施設の者です。あなたたちをお父さんの要請で迎えに来ました」

 そう名乗った青年は膝を折ってにっこりと笑った。紅玉と風虎は不思議そうに彼を見たが、雲竜は不安そうに彼を見た。

「大丈夫。施設はそんなに怖い所では有りません。育ち盛りのあなたたちにとって満足行くかどうか分からないけど、少なくとも3食ご飯は出てきますし、清潔なベッドで眠ることも出来ます。勿論そこから学校にだって通えます」

「………パンやない?」

 風虎がポツリと呟いた?

「え? ええ。パンが出ることもあるけど、ご飯もおかずもありますよ。パンは嫌いなの?」

 川崎は優しく風虎に問い掛けた。

「きらいやない。けど………」

 風虎はモジモジしていた。

「ずっとパンやったから飽きとるんよ」

 紅玉が風虎の後を繋いだ。

「そう……」

 優しく川崎は微笑んだ。彼の頭の中に、お勤め品・賞味期限切れの文字が浮かんだ。彼らの姿から今までの生活を想像して胸が苦しくなった。

 紅玉も風虎も、ご飯が食べられると聞いてとても嬉しそうだった。父親との生活よりもこちらの方が良さそうだと早々に受け入れていた。

「じゃあ、行こうか」

 そう川崎が3人を促した。しかし雲竜だけは動こうとしなかった。

「どうしたの? まだ不安があるのかな?」

「………僕たち一緒におれますか? ずっと………」

 ボソボソっと雲竜が呟いた。

「えっ?」

川崎は返答に困った。雲竜の言葉に不安を覚えた紅玉と風虎も川崎を見上げた。

「………分からない。里子に出されたら僕らも分からない。でも、施設に居る間は保証する。学校以外はずっと一緒だ。寝る時もご飯を食べる時も。流石にお風呂に入る時は、紅玉ちゃんだけ違うけど………。そこは女の子だからね」

 紅玉と風虎は不安そうに雲竜を見つめた。

「………分かりました」

 そう答えると、雲竜は紅玉と風虎の手を握り締めて歩き出した。

「あっ」

 ベンチに置いていた荷物に気付いた紅玉が、慌ててリュックと食べかけのクッキーを取ってきた。それを雲竜に渡すと雲竜はクシャリと紅玉の頭を撫でて笑った。そしてリュックにクッキーを仕舞って背負うと、再び紅玉の手を取った。

 川崎がホッとした顔をした。そして3人の前に出て車まで誘導した。3人を後部座席に座らせ、自分も車の運転席に座った。

「じゃあ、行くよ。大丈夫『天使の家』は子供たちを幸せにするために在るんだ。決して君たちに怖い思いをさせたりしないから」

 そう声を掛けてから、川崎は車を出した。

 

 

 夏が過ぎ、秋が来た。10月のある日、役所の窓口に一人の男が怒鳴り込んできた。

「おい! 児童手当が振り込まれてない! どうなってんだ!?」

「少々お待ちください」

 男の身元を確認した市民保険年金課福祉総務係の職員は、確認するために奥へ引っ込んだ。

 しばらくして、職員が戻って来た。

「佐藤様、お待たせして申し訳ございません。児童手当の件ですが、7月に3人のお子様を施設に入れられましたので、その時点で児童手当は自動的に失効となっております」

「施設!? 施設だと?」

 狐に抓まれたかのように男はキョトンとしていた。

「ええ。お子様を手放されたのですよね?」

 職員が掛けているメガネがキラリと光った。

「あ、ああ……」

 事実を突かれて、男はバツが悪そうに窓口を離れた。

 

 子供たちの笑い声が『天使の家』に木霊する。心に傷を負いながらもそれを隠すように。そして今日もまた見つけられた子供がこの家にやってくる。

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