foundling ~見つけられた子供1 ミツルの場合~

「赤ちゃんポストよりもっと手軽なポストがあるらしいよ……」

そのウワサは女子の間でまことしやかに囁かれていた。ネットでも掲示板でも、そんな話題が上がることが時々あった。

しかしほとんどの者が、ただの都市伝説として面白がっているだけで、真面目にとらえる者はいなかった。

 そのウワサを耳にした時、サツキは藁をも掴んだと思った。
少し前から生理が来ていない。正確には五ヶ月前からだ。
心当たりはある。LINEとあだ名しか知らないけれど、相手は分かっている。
 どうして私だけこんなに悩まないといけないの。
 一度だけ寝たオトコの顔を思い浮かべる。
「いつでも連絡して来いよ」
 そう言ってアカウントを交換してくれた。あの時、一度きりだと自分に誓った。幸せな時間は一夜で充分だと。

 妊娠。
 正月を過ぎた中学三年の今、誰もが受験モードに入っているこの時期に、洒落にならない大問題だ。
しかし、誰かに相談するのはためらわれた。特に親には絶対に言えない。いや、言いたくない。
父親は典型的な家庭をかえりみない仕事に打ち込むタイプで、ほとんど家にいないし、中学に入ってからはまともな会話もしたことが無い。
母親もサツキが小学生の頃から、趣味だったハンドメイドクラフトが大当たりし、今や本格的な仕事になっていた。最近は寝る前に顔を合わせられたら良い方で、ほとんどアトリエに篭っていた。

 今まで目をそらしていたが、だんだんお腹の膨らみが気になってきた。どうするかを考える必要が迫っていた。どうにかしなければという焦燥感がサツキの背中を押していた。
それなのにまだ、病院に行くのも、検査薬で確認するのも、現実を認めるようで、二の足踏んでいた。
実は、下ろすには病院に行かなくても、薬を入手すれば処置出来る方法をネットで知っていた。しかしそれは危険で違法な行為だ。しかも目をそらしている間に、薬の服用可能期間はとうに過ぎていた。その期間以外に服用すると身体の危険に及ぶことが分かり、断念した。けっきょく病院に行く羽目になったのでは、わざわざ輸入薬を手に入れる意味がないのだ。

親にも言えない。病院にも行きたくない。自力で下ろす事もできない。でもどうにかしなければいずれは生まれてきてしまう。
八方塞がりだ。
「でも何とかしなくちゃ……」
誰にも分からないように処理しないと……。

自分で何とかできるはずもないと心のどこかでは分かっていた。それでも何とかしなければならない。

何かを諦めるか、新たに見つけるか。

 ウワサを聞いたのは、そんな時だった。そのウワサに信憑性はない。でも、ネットで検索してみる価値はある。何かヒントになればとサツキは藁にすがった。
その夜、サツキはスマホかじりつくように、検索しまくった。
新聞配達のバイク音が街中に響き始めた頃、ようやく気になるものを見つけた。
それはある掲示板のコメントだった。そのコメントには二つのURLが貼り付けられてあった。一つは直接その場所に行くURL。もう一つはあるサイトを経由して行くURL。そして後者から行く方法が勧められていた。
ウィルスが気になったが、とりあえず前者の方へ行ってみた。が、エラーが出てそこへ跳ぶことは出来なかった。
仕方なく、もう一つ方法を試してみた。後者のURLをクリックする。

 そこは、一見ただの出産育児応援サイトのようだった。小ぢんまりとしたサイトで、訪問者もそれ程多くはないようだ。
サイトの内容は、出産週数別、赤ちゃんの月齢別のデータや情報があったり、出産育児それぞれの相談コーナーがあったりと、ちゃんとした情報が載せられている。
とりあえず、コメントの行き方の指示通りに進んだ。
まず、育児の相談コーナーでネグレストを中心にしたQ&Aの中で、ある質問の回答に記されたリンクをクリック。
するとリンク先は同じサイト内の別のページらしきところに飛び、育児放棄してしまう人たちの対応方法、児童相談所への行き方や、市町村の窓口での育児相談の仕方などが詳しく書かれていた。
その情報の下の方に「それでも解決しない方は」という文字があり、その横の矢印にリンクが貼られていた。それをクリックした。
途端に画面が育児サイトとは明らかに違うものに変わった。どうやら、目当てのサイトに行き着いたようだ。
「やった!」
最初に表れたのは、注意書きだった。

“ここから先は、本当に育児放棄で悩み、困っている方のみお入りください。
今あなたは本気で育児放棄を考えていますか? もしくは現実に育児放棄しようとしていますか?
はい、いいえ

当然ながら、サツキは“はい”をクリックした。すると、白を基調とした、天使をイメージするようなデザインのサイトが現われた。

“あなたのお子様を譲ってください”

でかでかと目に惹く黒文字でそう書かれた後に、普通の字で文章が続いた。

“自分の子供の顔を見たくない、愛してもいない、同じ空間にさえ居るのもイヤ。もう面倒も見たくない。むしろ食事を用意するのも億劫。目の前から居なくなってほしい。死んでしまえばいいと本気で思う。いっそどっかに捨ててしまいたい。そんな気持ちをお持ちのあなた。
ついつい子供に怒鳴ったり、乱暴に扱ったり、暴力を振るってしまうあなた。
思い切って、子供から離れてみませんか。
育児放棄や虐待は犯罪です。日本の警察は優秀です。いずれ警察に捕まってしまいます。
捕まるのは嫌ですよね。
だけど、それでも、自分を止められない。できれば目の前のその小さな存在を消してしまいたい、でも殺すのはためらわれる。
だけどいつか殺してしまいそう。
もうどうしたら良いか分からない。
いっそ子供と一緒に自分も死んでしまおうか
そんなふうに思っているあなた。
本気でそう思っているなら、その子を私たちに託してみませんか?
その子を譲って、いえ預けて頂けませんか?
煩わしい手続きもお金もあなたの個人情報も必要ありません。

クリック一つで手放すことができます。

あなたの子供はあなたの所有物ではありません。
あなたの子供はあなたとは別の人格の、別の人生を持った人間です。
社会に必要な人間です。
あなたには養育義務はありますが、彼らも生きる権利を持つ一つの命です。
その命を消してしまう前に、あなたができる最後の慈しみを与えてみてはいかがですか。
手放すことも親の愛です。
ここはいわゆる、ネット版赤ちゃんポストです。
方法は簡単。
次ページのフォーマットに、引き取り日時と場所を入力して、送信ボタンを押すだけ。
後は、指定した日時に母子手帳と一緒に、子供を指定した場所に連れて来ればOK。信頼置けるスタッフが指定場所へ引き取りに参ります。“

「これだけ? 本当にこれだけで取りに来てくれるの?」
思わずサツキは呟いてしまった。
そう思うのも無理は無い。クリック一つで子供を、全国どこでもいつでも取りに来てくれるなんて、常識では有り得ない話だった。
しかもタダで。
ただし、捨てるには条件が幾つか書かれてあった。

その内容はやれ生きていること、やれ安全な場所にやら、ほとんど常識的なことばかりだった。

 条件やその後のお願いがたくさんあり、面食らったが、「そりゃそだろう」と突っ込みたくなるような、内容ばかりだった。
サツキは安心した。

  その後についても書かれてあった。
どうやらキチンとした施設に送られるようだ。

”もしも、手放した後に心が入れ替わり、どうしても子供を自分の手で育てたくなったら、または何とか生活の目途が立ち、一緒に暮らせられる状況・状態になったなどの場合、お戻しすることも出来ます。次のフォームに(こちらです→)、引き渡した日時と場所、子供の名前、生年月日、そして返して欲しい理由を明記して送信ください。検討の上、元の場所にお返しします。
また、引き取る前に心変わりされた場合、直前までにその旨を同サイトのメールアドレスに連絡頂けると幸いです。ですが、最悪そのまま子供を連れて立ち去っても構いません。
私たちは一番に子供の幸せを考えています。子供にとって肉親に愛され、育てられる事が一番の幸せです。しかし虐待や放置で命を落としてしまうくらいなら、然るべき施設で生きた方がマシだと思うのです。
手放す勇気をお持ち下さい。殺してしまう前に。手放す事も子供の幸せになると思って下さい。手放すという言葉に抵抗を感じるのであれば、我々にお子様を一旦預けるのだと思って下さい。お子様の親権を親であるあなたから奪うことはありません。安心してお預け下さい。私共は子供たちが健康に成長できるよう、生活できるよう手助けしたいのです。“

 サツキは、サイトの内容を何度も読み返した。
それが本当かどうか、信用できるかどうか判断はつかなかった。
しかし、誰にも知られずにこのお腹の子を処分できる手段があることは分かった。

時々メディアを賑わす乳児遺棄事件の若い母親たちのように捕まりたくはない。だからと言って自分で育てる気にもなれない。

この期に及び、サツキはいまだに信じられないでいた。自分のお腹に子供がいることに。何か異物が入っているみたいで気持ち悪いとさえ感じていた。愛情の欠片さえ心に芽生えてこない自分を不思議に思っていた。

 数日悩んだ末、サツキは産んでこのサイトに引き取ってもらおうと決めた。もうそれ以外自分で処理できる方法は思いつかなかった。
出産については、今やもうネットで得られない情報がないくらい得ることができた。病院に行かず、自分たちだけで自宅出産をした人のブログなどはたくさんあり、成功するための準備や仕方、出産時の手順も丁寧に書かれてあるサイトもあった。
しかもなるべく病院のお世話にならないよう、親切にも安産になるための心構えなんかも書いている人までいた。
問題は出産予定日だったが、心当たりある日は一日しかない。だから予定日はその日から10ヵ月後の3月20日頃とした。
ずぼらなサツキは、実は最後の生理日が何時だったかを覚えていなかった。
あの日、生理が終わったばかりだったからサツキはOKしたのだ。だからそんなに誤差は無いはずだ。

 それからのサツキは、出産まで周囲に妊娠がばれないよう、細心の注意を払いながら生活した。
もともとポッチャリ体型だったが、妊娠のせいで徐々に太ってしまったのもあって、お腹の膨らみは目立たなかった。
もちろん妊娠中毒とか怖かったから、それ以上太らないよう心がけた。冬なのも幸いし、コートやカーディガンで誤魔化せた。
 2月半ば、学校の友人も、先生も、誰も気付くことなく高校受験に臨めた。母親なんか太ったことばかり気にして、臨月に入ったお腹の膨らみにすら気付いていなかった。
ネット情報によると、サツキは元々お腹が張り出すタイプではないようだ。

誰にも気付かれること無く、無事卒業式を迎え、合格通知も受け取り、後は出産を待つのみとなった。

 桜の蕾がやっと膨らみ始めた3月13日の朝。母親が声を掛けるのを待ってからリビングに降りた。そして慌しく出て行く母親の背中に手を振って見送った。
卒業以降、親が出掛けてから居間へ降りるようにしていた。鈍感な両親とはいえ、一緒に居る時間が長ければ、周産期に入った身体に気付く可能性もあるだろうと思ったのだ。

 この日も用意されていた朝食を済ませると、流しに重ねられた両親たちの食器も一緒に洗って片付けた。
 自力で産むために、受験が終わってから、朝食以外はサツキが家事をするようにした。出産まで何もしないよりも、重労働にならない程度に身体を動かしていた方が、安産になりやすいとブログに書いてあったからだ。
 たった一人で産むのだから難産よりは安産の方が良いに決まっている。
朝食の片付けが終わると、サツキは男物のジャージに着替え、家を出た。男物のジャージを着ると、特にお腹周りがダボっとして膨らみが目立たなくなるのだ。そして上下のジャージを着て歩くといかにも「デブがダイエットの為に運動してる」感が醸し出され、妊婦に見られずに済んだ。

 九時過ぎ。
サツキは朝の残り香を感じながら、散歩を楽しんでいた。
歩き始めてから少しして違和感に気付いた。そして段々とその違和感がはっきりとしてきた。立ち止った。
何というか生理痛のような鈍痛が、腹部で始まったのだ。
「来た」
 立ち止まってサツキはそう思った。

“初産の場合、陣痛が始まっても直ぐには生まれない”
 そう書かれてあったので、サツキは落ち着いてゆっくりとした足取りで、自宅に引き返した。
 家に帰ってからもサツキは冷静だった。
 まずはスマホからあのサイトに行き、二十四時間後の午前一〇時に引き取りに来るように指定して送信した。その間に出てくる自信はなかったが、最悪生まれるまで待ってもらえばいいのだ。
そして事前準備していた出産道具をベッドの下から引っ張り出し、それを持って庭の倉庫に向った。

 数年前からほとんど開けられていなかった倉庫を思い出した時は自分でも天才だと思った。ここならどの時間帯にその時が来ても誰にも気付かれずに産めるだろう。この中で産もうと決めてから、ばれないように少しずつ片付けておいた。
 唯一気になったのは生まれた後の赤ん坊の泣き声だ。こちらはネットで買った防音シートを倉庫内に張り巡らし、壁際に荷物をぐるりと置くことで対応した。これならカーテン代わりにもなり、入口を開けても中が丸見えにならずに済む。
今や倉庫は、快適とは言えないけれど、住もうと思えば住める離れになっていた。

 持ってきた荷物を、倉庫に広げると、もういつでも産める準備が整った。
少しずつ鈍痛が確かな痛みへと変わり、波のように間隔を空けて押し寄せては引くようになっていた。

“身体が欲していることをすれば良い”
そうブログにあった。
サツキはそれに従い、家に戻った。
倉庫で出産準備をしたために体が汚れた気がした。
浴槽にお湯を溜め、そしてゆっくりとお風呂に入った。
それから出産用に用意していた前開きのワンピースに着替え、陣痛の間隔が短くなるまで、自室で過ごした。

 夕方、両親から今夜は夕飯不要というメールが届いた。
有り難かった。
こんな状況の中で、夕飯の仕度などできそうになかった。
真っ暗な家の中、トイレに行った。電気を点ける余裕も無い中、陣痛に耐えながら用を足していた。なんとなくお腹に力を入れると、尿道とは別のところで液体が出てきた。しかし、痛みの波が過ぎたばかりの時だったので、それが何なのか考える余裕はなかった。

 深夜、やっと陣痛が10分間隔になってきた。そろそろ声を抑えるのも難しい。

 両親がもう帰っているのかさえ分からない。サツキは物音を立てないように静かに階下へ下りた。一階は真っ暗だった。親はまだだった。
 ふんと鼻で笑うと外へ出た。
 夜空を見上げると丸い月がおぼろげに浮かんでいた。
春とは言え、まだ彼岸も来ていない三月半ば。夜中の倉庫はかなり冷えた。用意していた石油ストーブに火を点け、事前に真水を入れておいたタライでお湯も沸かす。
そして、ビニールシートを敷いた古布団の上に腰を下ろし、その時を待った。
 意外にもその時は早かった。倉庫まで歩いたせいだろうか。一時間も経たないうちに陣痛は五分間隔になり、やがてその間隔さえ計れないほどの痛みの波が襲ってきた。
陣痛の痛みが突如変わった。
体全体が引きちがれるような、軋むような痛みが全身を襲う。そして体の中で何かが押し迫ってくるような圧迫感があった。
やがて、大きな波に抗うことができず、無意識にお腹に力を入れた。すると吐き出す声と共に、何かが出てくる感じがした。何か大きな異物が股間に挟まったようで気持ち悪い。早く出て欲しくて、もう一度来た波に合わせてお腹に力を入れた。すると、何かがぬるっと出てきた。
「ふぅーーーーーーーーーーー」
出た……のかな
「はあああああ」
大きなため息とともに安堵の声も漏れる。そして、さっきまでの痛みはどこに行ったのか、心地良い排泄感に襲われ、力が抜けた。
「うぎゃあ、うぎゃあ……」
股間に手をやると、途端に這い出てきた物体が泣き始めた。思ったより声が大きくないので拍子抜けした。赤ん坊が股の所でごそごそするので、へその緒を付けたまま胸元に持ってくる。
「え、え、え、えあ、あー、あー、あ、あ」
泣いていたのは一瞬で、泣くというより喘ぐような声を出しながら、赤ん坊はサツキの上で何かを探るような仕草をしていた。
へその緒がついたままの赤ん坊は、確かに自分から生まれてきたのだと確認できた。
自分の股から生まれた赤ん坊を見た。

これは私でもなく、私の分身でもなく、全く別の人間だ。ただ、私の身体を借りて生まれて来たに過ぎない、私とは別の生き物。

 再び陣痛が襲ってきた。その陣痛の波に身を任せると、再び何かが子宮内で動く気配がした。
ブログの指南通り、へその緒を引っ張ると、ドロッとした塊が出てきた。
サツキはそのまま赤ん坊を胸に抱き、しばらく放心していた。出産の疲れがどっと出たのだ。

 グロロロロロ グロローーーーーー
 ストーブの上に乗せたタライから湯が沸く音が耳に響いて、我に返った。
胸元を見ると血みどろにまみれた赤ん坊が、寝ているのか起きてるのか判らないほど、静かに動いていた。
 サツキは赤ん坊を足元に移動させて、起き上がった。そして指示通り、へその緒の二箇所をたこ糸で縛り、その間を裁ちバサミで切った。そして綺麗なタオルをお湯に浸して、赤ん坊の身体を拭いた。
産着など用意してなかったから、肌触りの良さそうな綺麗なタオルで赤ん坊を包み、布団の隅に置いた。
別のタオルをお湯に浸すと、今度は自分の身体をそれで拭く。特に血がへばり付いた下半身は丁寧にタオルを何枚も使ってぬぐった。後産の処理をし、出産で汚れた全てのものを新聞紙に包んでから、黒のゴミ袋に入れ倉庫の隅に置いた。ようやく後処理が終わった。

 別の服に着替えたサツキは布団の上に横たわり、赤ん坊を手繰り寄せた。そして弱いスタンドライトの下で静かに眠る赤ん坊をじっと見つめる。
「そういえば男の子だったな……」
 出産の興奮と慣れぬ処置と緊張とで全く意識していなかったが、ようやく赤ん坊自身を見る余裕が出てきた。
 スマホを取り出し、赤ん坊の写真を撮った。そしてこの子の父親、あだ名しか知らない「ケンちゃん」に写真を送った。

 “先ほど、ケンちゃんの子を産みました。あの日に出来た子です。でも心配しないで。ケンちゃんに迷惑掛けることはないから。一応知る権利があるので報告しました。”

 何かメールが返って来るかな……
あれから何度かメールのやり取りはしていたが、妊娠が判ってからはメールもせずにいた。もう二度と会うこともないだろう。
メールしたことで気が緩んだのだろうか、サツキは猛烈な睡魔に襲われた。名前を考えなければと一瞬思ったが、そのまま落ちるように眠ってしまった。

 タラタラタララーン♪
朝、六時。サツキはスマホのアラームで目が覚めた。
はっと赤ん坊を見た。
「良かったぁ、まだ息してる」
 赤ん坊は起きていた。細い手足が妙な動きをしていた。
そのうち、「えっえっえっ」と何とも頼りない声で泣き出した。
お腹が空いているのだろうか……
考えたら自分も昨夜から何も食べていない。
用意していたスポイトで砂糖水を赤ん坊の口元に運んだ。
自分の母乳は出そうにない。いや端から母乳をあげるつもりなんかない。粉ミルクもたった数時間のために用意する気にもならなかった。
ネットで調べた時、母乳が直ぐに出ない時は砂糖水を与えればよいとあったのでそれで済ませることにしたのだ。
スポイトに気づいた赤ん坊は口をパクパクさせてそれを飲んだ。
砂糖水を飲んだ赤ん坊は落ち着いたようだ。大人しくなった。

 スマホの時計は7時を回っていた。
サツキは親たちが起き出す前に家に戻ることにした。
赤ん坊が眠っているのを確認すると、赤ん坊を残して倉庫を後にした。

 八時過ぎに両親は家を出て行った。サツキは、いつもと変わらないように親を見送ると朝食の後片付けをしてから再び倉庫に戻った。
 指定の時間は10時ジャスト。指定場所はこの倉庫だ。
赤ん坊を抱えての移動は目立つし、この倉庫が一番無難だった。
「うーん、どうしよう」
先程から考えているのに、赤ん坊の名前が決まらない。
腕の中に抱いた赤ん坊は視点の無い瞳でじっとサツキを見つめていた。やはり妙な動作で手足をばたつかせている。ばたばたと一貫性のない動きをする赤ん坊は、おもちゃのようで見ていると意外と面白かった。
ふと昨夜の倉庫へ行く途中に見た月を思い出した。
「真ん丸お月様……。満ちつつあったかな……。満月か。うーん、満ちる…ミチル…。ミツル…。満月の満でミツル。うん、これで決まり」
紙がなかったので、油性ペンで赤ん坊の手の甲に“ミツル”と記した。
再び赤ん坊を抱き上げ、指定時間が来るのを待った。

 あと30分でその時が来る。
その時間がひどく長く感じられ、もどかしかった。
腕の中の赤ん坊はずっと動いていた。生まれたばかりなのに、こんなにもいろんな動きをするのかと感心した。

こんなに小さいのに生きているんだね……。

 自分の片腕で事足りる程小さな身体に命の営みを感じた。サツキは飽きることなくその様子をじっと見つめていた。
ふ~ふふふ~ん。気持ちのままに唇からこぼれるメロディ。
 サツキは気付いていない。赤ん坊を抱いた彼女の身体が静かに左右に揺れていることを。

 九時五九分。その時が来た。
 サツキは赤ん坊を倉庫の中に残し、外に出た。そして倉庫の影に身を潜めて様子を伺った。赤ん坊の泣き声が壁越しにうっすら聞こえた。
もしかして今までもこの声が聞えていたかもしれないと思うと今更ながらヒヤヒヤしてきた。

 10時ジャスト。
 カシャンという門扉が開閉する音が聞こえると同時に、帽子を目深に被り、トレーナーとジーンズという至って普通な格好をした女性らしき人が現れた。そして窺うようにそっと倉庫の戸を開けて中へ入っていった。
 すると、赤ん坊の泣き声とともに女性の声が聞えてきた。
「まあ、可愛らしい元気な赤ちゃん! ちゃんと綺麗にしてもらったのね。……まあ、ミツル君っていうの!? 良い名前を貰ったのね。……そう、じゃあ行きましょうか」
 女性が赤ん坊を抱えて出てきた。タオルに包まっていたはずの赤ん坊は更に綺麗な布に包まれていた。
赤ん坊を抱いた女性は、来た時と同じようにスタスタと門扉の外へ行ってしまった。そして、少し間が空いてから、走り出す車の音が聞こえ、その音は遠ざかって行った。

 時が止まったかのような静寂が庭と倉庫に訪れる。本来の森閑が戻ってきたというのに、何故か寂寥とした空気が漂っていた。
 じっと物影で息を潜めていたサツキは、力が抜けたかのようにその場にしゃがみこんだ。その瞳には涙が浮かんでいた。しかしなぜ涙が出るのか、サツキ自身にも分からなかった。

 春の冷たい風がサツキの濡れた頬をそっと撫で、駆け抜けていった。風を追いかけるように空を見上げた。

foundling child。直訳すると見つけられた子供。
捨てられるよりも見つけられたほうがいいじゃない。きっと。
大切に育ててくれる誰かに。
それも愛だから。


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