foundling ~見つけられた子供2 マリアンの場合~

 もし赤ちゃんポストよりもっと身近で、もっと簡単に子供を手放せられる方法があったら、子供が犠牲になる事件は減るだろうか。
もちろん法には触れない範囲で。
 それで小さな命が救われるなら、それは良いことだろうか。それとも例え殺されることになっても親元にいるべきだろうか。
 もちろん、愛ある親の下で暮らせることが一番の幸せであることは大前提だ。
 それでももし、赤ちゃんポストがもっと全国的に存在していたら、救われる命は増えるのではないだろうか。
 それともただ安易に子供を捨てる親を増やすだけだろうか。
 棄てられる子供と救われる命。それは同意語であって欲しい。
 そう願うことは無謀だろうか?
 もし都市伝説のように巷に囁かれるネット版赤ちゃんポストがあったら。きっとそのポストに棄てられた子供は、その命は救われるだろう。
 もしかしたら、もうこの国のどこかにもうあるのかも知れない。

 

 真璃杏はウサギのぬいぐるみを抱き締めて、公園のベンチに一人座っていた。
 3月の空は今にも雪が落ちてきそうで、幼子の不安を更に煽るばかりだった。

 小雪が舞うある如月の夜。
その日、真璃杏はアパートのベランダにうずくまり、一人声を殺して泣いていた。半袖のインナーシャツとスカートという姿で、パンツすら履いていない。

 また、しかられた。また、まにあわなかった。まりあん、いけないこ。

 テレビに夢中なあまりトイレに間に合わなかったのだ。
そうして母親の真智に叱られた真璃杏は、寒くて真っ暗な真冬のベランダに放り出されてしまった。スカートを敷いても伝わるベランダ床のあまりの冷たさに涙が自然と出る。泣くと余計に怒られるから、膝に顔をうずめ打たれた頬を撫でた。

 3歳に満たぬ子供が、どうして完璧に一人でトイレができようか。たった3年しか生きていないのに。
 真智の行き過ぎた躾は今に始まったことではない。
 21歳でシングルマザーとなった時から、一人で全てを抱えて生かざるを得なくなったその日から、それは始まった。
 労働と育児と毎日の生活。疲労とストレスが溜まっていくにつれ、心の余裕が減り、いつしか躾はどんどんエスカレートし、仕舞いにはストレス解消の捌け口となっていた。
 真璃杏がご飯をこぼせば怒鳴り、服を汚せば叩き、何か粗相をすればその度に、打たれ、殴られ、蹴られ、酷い時はご飯を抜かれ、そしてベランダに放り出された。
 それでも真璃杏には彼女しかいなかった。母親だけが頼れる存在なのだ。だからどんなに虐げられようとも、母親にすがるしかない。全ての子供にとってそうであるように、真璃杏にとっても真智が生きる全てだった。

 その真智はといえば、部屋の中でテレビを見ながら、買ってきたスナック菓子を一人頬張っていた。
 そしてベランダから聞こえる啜り泣きにイラついていた。
「うるさい! 泣くなら静かに泣け!! 近所迷惑だろ!!」
 いつから自分がこんなに口汚い言葉を使うようになったのだろうか。真智は自分が発する言動に時々嫌気が差す。自分でも言っていることが矛盾しているということくらい分かっていた。でもこのイライラを止めることはできなかった。
 ポーン
 ラインが来た。
“今夜楽しみにしているよ”
 彼女にできたのは現実から目を逸らすことくらいだった。

  真璃杏が生まれた頃は、今と違って愛情に満ち溢れていた。
だが、全ては夫が突然帰ってこなくなったあの日、真智の人生の歯車は狂い出した。
「ちっ」
舌打ちで、嫌な回想を断ち切り、化粧ポーチに手を伸ばす。
 今夜は彼氏との大事なデートだ。今日は先日流れてしまったバレンタインデートの埋め合わせだと。さっきまでの剣幕などどこへやら、鼻歌交じりに自分を着飾ることに没頭した。
「オーケー」
 鏡に映る自分の姿に満足すると、ベランダの窓の鍵に手を掛けた。
「真璃杏! いつまでそこで泣いてんの!! ママはちょっと出掛けてくるから。遅くなるから一人で寝といてね」
 そう言うと、真智は高そうなコートをまとって出て行ってしまった。 

はんせいはもういいのかな。ママがここではんせいしろていったのに………。

  鍵が開けられた窓をそっと開けると、誰もいない部屋がそこにあった。家中の電気を煌々と点けたまま、真智は出掛けて行ったようだった。
「いたっ!」
 冷たいベランダに居たせいで足がかじかんでいたようだ。真璃杏は部屋の敷居につまづいて転んでしまった。
 痛みが寒さで倍増され、足を襲う。さっきとは違う涙が目から溢れ出た。
「うう、いたいよー」
 うずくまって打った足の指を押え、震える声でつぶやいた。しかし痛みを訴えても優しい言葉を掛けてくれる人も居なければ、優しく頭を撫でてくれる人も居ない。元より母親が居ても彼女がそんな優しさをかけてくれるなど有りえないことは、幼心にも分かっていた。一瞬の期待が虚しさを誘う。聞こえてくるのは母親が消し忘れたテレビの声ばかり。薄情な笑い声が部屋に響いていた。
 真璃杏は泣き声を飲み込み、テレビを消した。
 途端に静寂が部屋に広がる。グーー。静かなせいでお腹の音が良く聞こえた。

  うーおなかすいた

  さっきの失敗で夕飯は貰えなかった。
 顔を上げ、鼻を啜りながら母親が居なくなった部屋を見回した。すると化粧道具が散らばった机の上に、キャラメルが一個置いてあるのに気付いた。
 空腹に我慢出来なかった真璃杏は、パッと手を伸ばす。包み紙を開く自分の小さな手がもどかしい。ばれないように包み紙はゴミ箱の底に隠すように捨てた。
 口に放り込んだキャラメルは、甘くてとろけるように美味しかった。たった一個ではとても空腹を満たすことは出来ない。それでも舐めている間のそのひと時だけは幸せで満たされていた。
 噛むと直ぐになくなってしまうから、飴のように噛まずにゆっくりじっくり時間をかけて大事に舐めた。
 キャラメルとの至福の時が過ぎると、再び空腹感が蘇って来た。
 念のため、冷蔵庫を開けて見た。しかし中にはビールと調味料しか入っていない。
 真智は初めから夕飯を与えるつもりはなかったのか、それとも隠してしまったのか、真璃杏が食べられるものは何一つ無かった。
 分かっていたことだ。けれど真璃杏はがっくりとうなだれて冷蔵庫の扉を閉めた。
 冷えた体がぶるりと震えた。
 母親が居ない時はお風呂に入れない。
 もしかしてと思いお風呂場を覗いてみたが、当然湯が溜めてあるわけはなかった。しかし真璃杏がベランダに締め出されている間にシャワーでも浴びたのか、浴室はむあんとした湿気がこもっていた。
 真璃杏は浴室の温もりに少しだけ目を瞑って浸ると、洗面所に出てパジャマに着替えた。
 そして、奥の部屋の片隅に畳んである布団を敷き、毛布の端を握り締めて電気を消した。
 ガタガタと寒風が窓を揺らす。

 ママ、きょうもでかけた……。うう、こわいよう。ひとりのよる、こわい、さみしい、いや。……でもよるでかけたあさ、ママやさしい。きっとあしたはやさしいママにあえる。

  目を瞑ると小さなウサギが暗闇に浮かんだ。
 いつだったか母親を困らせた代償に捨てられてしまったウサギのぬいぐるみだ。
「うさちゃん………」
 まぶだのウサギをじっと思っているうちにいつの間にか眠ってしまった。

 2歳になる前にはすでに真璃杏は、夜一人で寝るようになっていた。
 ある日偶々母親が寝かしつけに来る前に寝てしまったことがあった。するとその日を境にどんなに泣こうが騒ごうが母親は寝かしつけをしてくれなくなったのだ。
 一度母親の横でうたた寝したことがあった。その時はこっぴどく叱られた上、酷く叩かれてしまい、それ以来真璃杏はお風呂から上がったら、自ら自分の布団に行くようになった。
 寝かしつけの不自由さから解放された真智はやがて夜を謳歌するようになり、そしていつしか幼子を一人置いて、夜出掛けるようになったのだ。

  数週間後。
 その日真璃杏は、うきうきと浮かれていた。誕生日がもうすぐなのだ。何か買ってもらえるとか、何か特別なことが起きるというようなことは考えていなかった。ただ純粋に3歳になれることが嬉しかった。一つ歳をとるだけでお姉さんになれる気がしたから。

 さんさいになったら、きっとおねえさんになって、ママいっぱいおこらなくてすむかな………。

  子供らしい根拠のない希望に胸を膨らます。
 確かに公園で遊ぶ友達から聞いた誕生日のケーキや美味しいご飯も羨ましかった。しかし、それよりも真璃杏が望むのは……、 

まえの、やさしいママになってくれないかな。まえみたいにぎゅっとしてほしい。

  夕べ、夜更けに帰ってきた真智は二日酔いなのか機嫌が悪い。
 昨夜、恋人と食事をした時、真智は恋人に告げられた。
「メールでも伝えたけど、正式に東京行きが決まったよ。ただ、ファミリー向けの社宅がいっぱいなんだ。今は2DKの独身用マンションしか空いていないらしいんだ………」
「そうなの………」
「うん。それで、狭くても良ければ他が空くか子供が出来るまでならそこに入っても良いって、会社が言うんだよ。どう思う?」
 つまり子供がいたら住めないってことか。どうしよう………。
 真智は、プロポーズを貰ってからも、自分に子供がいる事をまだ恋人に言ってなかった。言おうとしたことはあったが、プロポーズを撤回されそうで、怖くてできなかった。折角掴んだ幸せを逃したくはない。
 昨夜の話で、ますます子供の事を告げにくくなってしまった。真智は頭を抱えて悩んでいた。
 それなのに、子供番組を見ながら、トタトタと浮かれ足で踊る真璃杏が鬱陶しくてしょうがない。しかもその足音が妙に頭にズキズキと響くのだ。
「うるさい!! 足音立てて踊るんじゃない!!」
 ビクっと身体を硬直して真璃杏が立ち止まった。そして恐る恐る母親の顔を見る。
 イライラと吊り上がった目をした母親と目が合った。

 やばいっ!!

 そう思った次の瞬間、母親の手が真璃杏に迫った。顔を叩こうとした真智は一瞬ためらい、手が泳いだ。そしてギュッとその手を握ると、足を真璃杏に向けた。
「うっ」
 真璃杏の股間に蹴りが入ったのだ。真璃杏はその場にうずくまった。
 股間を抑え、悶絶する娘を上から見ていると、心がすーっとしていくのを覚えた。
「私がお前のことでこんなに悩んでいるって言うのに!! 何に浮かれてんの!! 鬱陶しいんだよ!! あっち行け!! お前なんか目障りだ。いなくなってしまえ!!」
 真璃杏は泣きべそをかきながら、よろよろと奥の部屋へ引っ込んだ。
 男にとっては命関わる急所かもしれないが、女はそこまでじゃない。それでも、男ほどじゃなくても、女も蹴られればそれなりに痛い。娘の反応を見てそう確信した。娘は声も出さずに股間を押えてうずくまっている。効果は絶大だ。
「全く、何で私があれのために悩まないといけないのよ。何で連れて行かなきゃいけないの?……そうよ、置いていけば良いのよ。でも……児相が引き取るとなると面倒なことになるし……。確かどっかのサイトにそんなんあったような気がする」
真智はスマホを取り出すと、一心に何かを調べ始めた。

 “引き取るには、幾つか条件と注意点があります。
1.生きていること。死体処理は致しません。もし指定場所に置かれた子供が遺体だった場合、直ちに警察に通報します。怪我や病気など、健康が著しくない場合は、その旨をフォームの備考欄に明記して下さい。
2.引き取る子供は、中学生まで。つまり15歳までとする。
以上が条件です。
手放す勇気をお持ち下さい。殺してしまう前に。手放す事も子供の幸せになります“

  やっと痛みが引いてきた真璃杏が次に感じたのは空腹だった。思えば朝から何も食べてなかった。
 ゆっくり襖を開け、隣の部屋の様子を窺ったが、母親はいなかった。外に出かけたらしい。居間の時計を見ると、もう直ぐ針が合わさりそうだった。
 キッチンに置いてある丸椅子を冷蔵庫の所まで運び、椅子の上によじ登る。そして、冷蔵庫の上にある炊飯器の中を覗いた。
「わあ!」
 白い湯気が立ち上るご飯がその中にあった。しばらくその湯気の匂いをかいでいた。
 カチャ。
 不意にドアが開く音がして、そちらを見ると、同じ目線の高さに母親の顔があった。
 慌てて炊飯器の蓋を閉めて、イスから降りようとしたが、母親の動きの方が速かった。
 怒りの形相で迫ると、真璃杏の身体を降り払うように、力一杯引き摺り降ろした。
ズバン!!
「誰が勝手にご飯を食べて良いと言ったの!!」
 アンバランスな格好から強引に払い落とされた真璃杏は、頭や背中を思いっきり床に打ち付けられた。一瞬、真璃杏の視界が真っ暗になった。
 動きが止まった娘の様子にはっとした母親は、真璃杏を優しく抱き起こしながら言った。
「大丈夫? せっかく今日はモールに行こうと思ったのに。そこでご飯食べようかと思ってたのに……。なのに真璃杏が先に食べようとするから思わず力が入っちゃった。ごめんね」

 ママがごめんねっていった……。そとにたべにいくっていった?

  母親の豹変に驚くあまり、真璃杏は痛みを忘れて呆然と母親の顔を見つめた。
 丈が短くなったコートを着た真璃杏は母親に手を引かれ、バスに乗ってモールへ出掛けた。
 母親が手を繋いでくれるなんて何年ぶりだろうか。しかも外食したことなんて真璃杏の記憶にはない。
 二人はモールのフードコートで遅いランチを食べた。真璃杏は初めて食べるハンバーグに目をきらきらさせ、お腹いっぱい食べた。
 昼食を済ませると、再び真智が真璃杏の手を取った。そしてモール内の玩具屋に向った。
 真璃杏は手を握った母親の顔をそっと下から窺った。その表情は少し照れくさそうで、少し口元が笑っていた。満更でもない母親を見て、真璃杏はとても嬉しかった。

 やさしいママがかえってきた。……でも……。

  心のどこかで、急に優しくなった母親に違和感を覚えていた。これまでを考えるとこの幸せがずっと続くと信じきることはできなかった。
 玩具屋に入った真智は娘に笑顔で言った。
「明日は真璃杏の誕生日よ。もう3歳になるんだから、誕生日プレゼントは自分で選びなさい。好きなのを一つ選んでおいで」
「うん!」
 おぼえてくれてたんだ!
 真璃杏は嬉しそうに、母親の手を離して駆け出した。
 目当てのコーナーに着くと真璃杏は、ゆっくりとした歩みで、目だけはギラギラと輝かせて、陳列されている玩具たちを吟味した。しかしやはり気持ちはぬいぐるみのコーナーへ向っていた。そして、ウサギのぬいぐるみの前で立ち止まった。捨てられたのと同じではないけれど、あのウサギと同じリボンを付けているものを見つけたのだ。一目で真璃杏はそのウサギを気に入った。じっとウサギを見つめる。少し悩んだけれど、その横の小さいウサギを手にした。振り返ると母親がそばに居たので、それを差し出した。
「それじゃないでしょ?」
 そう言うと、真智は真璃杏が手にしたぬいぐるみを取り上げた。

 やっぱり………。

 がっかりしていると、真智が小さいのを棚に戻し、真璃杏が最初に目に留めた大きいほうのぬいぐるみを手に取り、真璃杏の前に差し出した。
「こっちが良いんでしょ?」
「いいの?」
「もちろんよ。好きなの選んで良いって言ったでしょ」
 真璃杏は満面の笑みを真智に返し、両手を広げてぬいぐるみを抱き締めた。
 真璃杏がこれまで生きてきた中で、今日ほどこんなにも嬉しいことはない。
 その日から真璃杏は片時もぬいぐるみを離さなかった。真智もこの日を機に手を上げなくなり、本当に真璃杏にとって夢のような穏やかな日々が続いた。
 ただ夢のような日々はそう長くは続かなかった。

  数日後の夜。母親が帰ってくると、押入れからカバンを取り出し、真璃杏の前に置いた。
「真璃杏、明日から旅行に行くから。そのカバンに服を全部入れなさい。靴下やパンツも忘れないでね」
「りょこう? ふくをぜんぶいれるの?」
「そうよ。だってそんなに着替え持ってないでしょ? 旅行中は服が洗えないのよ」
 確かに、真璃杏は小さなカバンに収まる程の服しか持っていなかった。「りょこうってなに?」
「どこかへ出かけることよ」
「どこにいくの? おばあちゃんち?」
「どこでも良いでしょ!……じゃなかった。行先は着いてからのお楽しみよ」
 今までの悪態がつい出そうになるのを懸命に抑えて、真智は優しい笑顔を作るように心掛けた。
「ふーん」
 真璃杏はたくさんの疑問が湧いてきたけれど、これ以上余計なことを聞けば、折角の優しい母親が崩れてしまいそうで、言葉を飲み込んだ。そして言われた通りタンスの中の服や下着を全部カバンに詰め込んだ。
 ズボン2枚に、スカートも2枚。長袖のセーター1枚と長袖トレーナー1枚。半袖Tシャツ2枚にパンツ3枚、そして薄汚れた靴下が3足。夏も冬も合わせたそれが、彼女の全ての服だ。

翌朝。
「いつまで寝てんの!! 今日出掛けるって言ったでしょ!!」
 眠い目を擦りながら真璃杏布団から起き上がった。
はっとして、お尻の下の布団をまさぐる。

よかったぁ

おねしょしてないかどうか確かめるのはもう毎朝の週間になっていた。

もう3さいだもん

 買って貰ったぬいぐるみを抱いて、居間へ出た。
 珍しくテーブルの上に朝食が置いてあった。とはいっても、バターロール1個と牛乳1杯ではあるが。
 それでも真璃杏はこれ以上の朝食を見たことがない。しかも向かい側にも母親分のパンが2個とコーヒーが置かれてある。大抵真璃杏が朝ごはんを食べる頃にはもう母親は仕事に出掛けているというのに。
「きょうのごはん、ごうせい」
「それって嫌味? それより真璃杏何か忘れてない?」
 キッチンに立ってる真智が腕を組んで怖い顔をした。
「あ、おはようございます。」
 なぜか真智は挨拶だけは徹底していた。
「おはよう。さ、食べよう」
「うん。いただきます」
 久し振りの母親と食べる朝食は本当に美味しかった。
 いつも牛乳だけだったし。これまでは気が向いた時、実際はお金に余裕がある時だけパンが出されていた。牛乳だけならまだしも、おねしょをした日は水しか与えて貰えなかった。しかも大抵昼間は母親が仕事で居ない。そんな日は夜までご飯が無い、なんてこともざらだった。
 真璃杏は目の前のロールパンに手を伸ばす。バターの甘いようなしょっぱいような味が真璃杏の口の中に広がる。食べる物がある時はそうしているように、ゆっくり噛み締めるように食べた。一つしかないパンを、時間を掛けて存分に味わって食べるのだ。
「ごちそうさま」
 ホントはそれだけじゃ足りなかった。しかし真璃杏は黙って手を合わせた。
「真璃杏、これも食べな」
 じっと真璃杏が食べるのを見ていた真智が、自分の皿のロールパンを真璃杏の皿に置いた。
 真璃杏は目を見開いて母親を見返した。
「いいの?」
「それじゃあ足りないでしょ? 私は仕事先で食べれるから………食べな」
 真智がぎこちなく笑った。
 母親が無理して笑おうとしているのが分かった。しかし目の前の欲求には耐えられなかった。そしてパンを頬張るうちに不都合なことは忘れてしまった。
 食事が終わり、身支度をしようと寝室に戻ると、昨夜詰め込んだはずの服がカバンの前に出されてあった。
 呆然とカバンの前に立っていると部屋の入り口から真智が声を掛けてきた。
「真璃杏、今日着る服までカバンに詰め込んでたよ。その格好で出掛けるつもりだったの?」
 よく見るといつも着ている服だけがカバンから出されていた。そしてカバンの中を覗くと、それ以外の洋服が綺麗に畳まれ、きちんと詰め込まれていた。3歳児なりに服をくしゃくしゃにしながらも突っ込んで入れていたカバンを、どうやら真璃杏が寝た後に母親が入れ直してくれたようだ。
「……そうか……、そうだね。パジャマおかしいね!」
 真璃杏がフフフと笑った。真智もクスリと笑った。

 仕度を整え、コートを羽織ると、真智が居間で待っていた。真智は既に出掛ける準備が整っていた。しかし、その格好はいつも仕事に行く時の服装と同じだった。
「ママはそのかっこうでいくの?」
 真璃杏の中で、不安が生まれた。
「これ忘れてるよ」
 母親がうさぎのぬいぐるみを手渡した。そして真璃杏を促して靴を履かせながら真智は口を開いた。
「ママは仕事に行くの。私には仕事があるもの。仕事を休む訳には行かないの。ママが働かなきゃ旅行も出来ないのよ。さあ、ほら行くよ」
 真璃杏は急かされて振り返りもせずに家の外に出た。そこにあった真璃杏の物、全てがカバンに詰め込まれてしまっていることに気付きもせずに。この家に、真璃杏が居たことを示す物が全てなくなってしまっているなんて知る由もなかった。
 ガチャンとドアに鍵を掛ける音が響く。
 真璃杏が持つカバンを手に持ち、真智は黙ってアパートの廊下を歩き出した。
「ママはおしごとにいくの? じゃありょこうは、まりあんひとりでいくの?」
 先に歩き出した真智の後を真璃杏はためらいもなく付いて歩く。これでこの家とも最後だということに気付くことなく。
「違うわよ。あなた一人じゃ電車にも乗れないでしょ? ちゃんと別の人に頼んであるの」
「え……。ママはこないの?」
「ママは……」
 立ち止まった真智が、真璃杏を振り返った。
「私は仕事が終わってから、後から行くの」
「ホント? ホントにあとからくるの?」
「ホントよ………」
「べつのひとって?」
「誰って、真璃杏の知らない人。……おばさんよ。やさしいおばさんが迎えに来てくれるから大丈夫!」
「おばさん………」
「ママがちゃんと手配してるから大丈夫。ママの言うことが信じられないの?」
 これ以上問うことができないと悟ると、真璃杏はぎゅっとぬいぐるみを抱き締めて首を振った。
 目の前にある真智の手をそっと握ってみた。
 一瞬ビクっとしたが、真智は何も言わず、そのまま歩き出した。
 手を振り払われるかと思っていたが、母親は黙って手を握ってくれた。少し嬉しくて、口元が緩む。それでも、心の底から湧き出る不安を払拭することは出来なかった。真璃杏は考えないようにと手を握る真智の手を見ていた。
 二人はいつも真智が駅に向かう道を進んだ。そして、駅の近くまで来ると、道沿いにある公園に入っていった。
 そこは一度だけ真璃杏も来たことある公園だった。何か駅を利用した帰りに少しだけ遊ばせてもらった記憶があった。
「あっ!」
 以前遊んだ滑り台を見つけて、駆け出そうとしたが、真智が手をぎゅっと握って阻止された。
「真璃杏!!」
 強い口調で言われて、思わずぬいぐるみで頭を庇った。
 それを見てイラッとしたものの、ぐっと堪え真璃杏の目線に合わせるように真智はしゃがんだ。
「ねえ、聞いて。人が迎えに来るって言ったでしょ?」
 そう言われて、真璃杏もしぶしぶ頷いた。
「その人は9時にこの公園に迎えに来てくれることになってるの。だからあの時計の長い針が一番上に来る前に、あそこのベンチに座って待ってるのよ」
 真智は公園の入口付近にあるベンチを指差した。
 公園の中に立っている時計柱はまだ8時半前だった。
「ホントはそれまで一緒に居てあげたいけど、ママも仕事があるから………。もう電車に乗らないと間に合わないの。それに早く仕事済まして、真璃杏たちに早く追いつかないといけないしね」
「ママ、いっちゃうの?」
 真智は再び真璃杏の手を取ると、指差したベンチへ歩き出した。
「ごめんね。でもあと30分あるから少しくらいなら遊んでていいから………」
「ホント?」
 真璃杏の顔がぱあっと輝いた。何と言っても遊びたい盛りの3歳児。どんなに不安を感じていても、目先の楽しみに目くらまされてしまう。
 二人はベンチの前まで来た。
「でもね、あの時計の長い針が一番上に来たら、このベンチに来るのよ。分かった?」
「うん。いましたにあるはりが、まうえにきたらに、ここにくればいいのね?」
「そうよ。真璃杏は賢いね」
 真智は真璃杏の頭を撫でると、真璃杏の全持ち物が入ったカバンをベンチの上に置いた。
「ここに、カバン置いておくからね。時間が来たら、ここで座って待っとくのよ」
「うん、わかった」
 もう心が、遊具へと飛んでる真璃杏は、今にも走り出しそうだ。
「真璃杏!! ちゃんと聞いて。もし、もしよ。9時を過ぎても、それからいっぱい待っても誰も迎えに来なかったら………」
「…うん…」
「一人で、家に戻ってくるんだよ。一人で帰れるかな? そして私が帰ってくるまで家で待っててくれる? 道分かるかな………。鍵は分かるね?」
「うん。わかる。みちはまっすぐだし、カギはいつものポストのなか」
 真智が頷く。
「よし! じゃあ行っといで!」
 真智の手が真璃杏の体から離れた。真璃杏は夢中で駆け出していった。ぽとりとぬいぐるみが地面に落ちた。お気に入りのぬいぐるみを忘れて走り出す娘の姿を見送った。
 真璃杏が楽しそうに滑り台によじ登り、キャッキャと声を上げて遊ぶ様子を、真智はじっと見つめた。
 あんな顔。あの子のあんな楽しそうな顔、最後に見たのはいつだろう。うううん、今まで見たことなかったかもしれない。ああ、私ってやっぱり母親失格だ。………これで、これで良いんだ。私じゃない方が良いのよ。
 真智はそう自分に呟いた。真智は分かっていた。自分が子供を虐待していることを。でもそれを止められないことも。誰かに止めて欲しい、誰かに助けてほしいと願っていることも。
 この数日間、真智は今日という日が来ることを思い、なるべく自分の娘に優しく接してきた。イラっとしても、怒りが生まれても、心の中に抑え込み、耐え、笑顔でいようと努力した。
 本当はこれをずっと続けられたら良いのだ。そんなことはは分かっていた。多くの親はそうやっているのだということもわかっている。自分だけ辛いのでもないし、自分だけイラッとしているわけでは無いことも、頭のどこかでは理解していた。
 それでもこの数日間のような毎日は耐えれそうにない。終わりが見えていたからこそ、出来たことだった。
 娘、真璃杏が可愛くないわけではない。ただ、鬱陶しいという気持ちの方が今や勝っていた。娘のために目の前にある幸せを逃したくはなかった。娘よりも自分を真智は選んだ。

私にはあの子を幸せに出来ない

 娘に手を上げてしまうくらいなら、いっそ離れたほうが良いのだと真智は何度も自分自身に言い聞かせた。
「ママ、もう行くから。9時にあそこのベンチ。忘れないでね」
 そう言うと、くるっと踵を返して公園の出口へと歩き出した。
 滑り台の階段に手をかけていた真璃杏は、立ち去る母親の後姿を見て、すっと動きを止めた。
 そして、遠退いていく母親の姿をじっと見つめていた。
 母親の姿が見えなくなると、ふいにベンチを見た。持っていたはずのウサギのぬいぐるみがベンチに置かれている。はっとして公園の時計を見るも、まだ長い針が天辺に来そうになかった。他の遊具で遊び始めたが、どうにもウサギが居るベンチが気になった。
 真璃杏は遊具を離れ、ウサギや荷物が置かれたベンチに戻った。そして、ウサギを抱き上げ、ベンチに座った。

 きっとママにはもうあえない………。ママはもうむかえにはこない………。きっともう………。

 抱えたウサギをぎゅっと抱き締め、顔を押し付ける。

だれもむかえにこなければいいのに………。そしたらおうちにかえれるのに………。

 時計越しに見える空を、今にも雪が降り出しそうな空をぼうっと眺めながら、じっとその時を待った。
 9時を知らすメロディが公園内に響いた。その曲は明るい調子のはずなのに、なぜか哀しみを助長させた。
「やっぱりすてられるのね」
 メロディと共に真璃杏に近付く気配を感じて、真璃杏はそちらを見た。

おばさんじゃないじゃない。おねえさんだよ。

近づいてくる人は母親よりは年上ではありそうだが、若い女性だった。トレーナーにジーンズを履いた女性が、真璃杏の前で立ち止まった。
「あなたがマリアンちゃん?」
そう言われて、素直に頷いた。
「こんにちは」
「こんにちは。マリアンちゃんはちゃんとご挨拶が出来て偉いねえ。じゃあ、ここは寒いから行きましょうか」
 真璃杏の側に置いてあるカバンを手に取ると、もう片方の手を優しく真璃杏の背中に手を添えた。そして優しく促しながら歩き始めた。
 その仕草に、安心感を覚えた真璃杏は、身体の緊張を解いた。無意識に身構えていたようだ。
 公園の側に置いてある白いワゴンまで来ると、女性は車のドアを開けた。車の窓は外からは中が見えないようになっていた。
「さあ、乗って」
「………どこに行くの?」
一瞬、先行きに不安が過ぎり、立ち止まった。
「親からは聞いてないの?」
 こくりと頷く。
「りょこうにいくんだって」
 その答えを聞いて、女性は少し戸惑った。
「旅行ね………。確かにその道中は旅行みたいな雰囲気かもしれないけどねえ………」
「ちがうの?」
 女性は少し黙って、真璃杏を車に乗せると、自分も運転席に座ってから再び口を開いた。
「もう一人拾ってからになるんだけど、それから天使が住む所に行くのよ」「てんし? てんしっておそらの?」
 帽子とコートを助手席に置くと、女性は車を出した。
「違うわ。地上にも………、世界中に天使はいるのよ。たくさんの天使たちが住む所に行くのよ」
「ふーん」
 返事をしたものの、真璃杏はよく分からなかった。
 車は駅前を離れ、家とは別方向を走っていた。
 女性の素顔を、鏡越しにまじまじと見た真璃杏は息を飲んだ。彼女は想像以上に母親より美人でふくよかだった。太っているというわけじゃなく、健康的な丸みのある身体だった。

このひともてんしなのかなぁ。

「ごめんね、さっきも言ったけど、もう1件寄らないといけないの」
 そう言って車は住宅街の方へ入っていった。
「もうひとりくるの?」
「そう」
「それはどんなこ?」
「……私もよく分からないの」
「ふーん」
 真璃杏の頭の中では沢山の疑問が湧き出し、ごちゃごちゃしていた。そうしてそれらの疑問を考えているうちに、車が止まった。
 スモークがかかった車窓越しには、ある一軒家の塀が映っていた。
「ちょっと待っててね」
 コートと帽子を被って女性が車から降りて行った。
 車は、住宅街の狭い道路に留められていた。他の車が来てしまったら、この車ではとてもすれ違えないような道だ。ただ、両脇には家が立ち並んでは居たものの、人通りも車通りも少ない様子で、静かだった。
 真璃杏がウサギと一緒に窓へ顔をくっつけて外の様子を窺っていると、女性が何かを抱えて戻って来た。そして、後部座席のドアを開けると、真璃杏の横に持っていた白いものを置いた。
「悪いけど、ちょっとこの子を見ててくれる? この道狭いから、広い所まで車を動かしたいの」
 そう言うと、彼女は急いで運転席に移動し、車を走らせた。
 ウサギよりも大きいそれは、タオルに包まれたしわしわの赤ん坊だった。エッエッエッと頼りない声で泣いていた。
「これ、あかちゃん!?」
「……そうよ。しかも新生児」
 顔を歪ませて女性が呟く。
「しんせいじ?」
「生まれたてってこと。しかもホヤホヤ。………多分今朝方生まれたんじゃないかな………」
「てになんかかいてある」
「この子のお名前よ。ミツル君っていうみたい」
「おんなのこ?」
「いいえ、男の子よ」
 真璃杏は腕の中の赤ん坊を覗き込んだ。赤ん坊は目をぎゅっと瞑り、口をパクパク動かして泣いている。しばらくじっと見ていると、片目をすっと開けて、真璃杏を見た。
「この子も一緒に行くの?」
「そうよ」
「このこのママはいっしょにいかないの?」
「………」
 女性は言葉に詰まった。
「………このこのママも用があって行けないみたい」
 赤ん坊を見ながら真璃杏は呟いた。
「そう………。このこもすてられたのね………」
「………」
 真璃杏の言葉に女性は言葉を返せなかった。

 こんなにちいさいのに。まだ、うまれたばっかりなのに………。ママにすてられたんだね………。きみのママはどんなひとなの? ううん、それよりもおぼえてるのかな?

真璃杏は赤ん坊の手をぎゅっと握った。

これからいっしょのところにいくの。どんなところかわかんないけど、まりあんがまもってあげる。ずっといっしょにいようね。

「あそこで車を停めるから」
 さっきとは違う、少し小振りな公園の横に車を停めた女性は、車を降りた。そして、後部座席のドアから再び車内に入ると、後ろのトランクの方へ移動した。
「見ててくれて有り難う。ちょっとその子貸してくれる?」
 女性は赤ん坊を抱き上げ、ごそごそと用意していた機器の上に包んでたタオルを外して乗せた。ガリガリでシワシワな裸が現われた。しかも体のあちこちに落としきれなかった血の塊がまだ残っていた。
「2486g。うーんちょっと軽いわね」
 全裸で置かれた量り機の上の居心地が悪いのか、赤ん坊が再び泣き始めた。女性はタオルを置いたトランクの床に赤ん坊を寝かし、巻尺で量ったり、聴診器を当てたり、何か機械を体に当てたりと医者か看護師がするような処置をし始めた。そして最後に紙袋から取り出したオムツと新生児用の服を着せると、赤ん坊を抱えて真璃杏の横に来た。
「ごめん、もう一回この子見ててくれる?」
 赤ん坊を真璃杏の横に寝かせ、トランクの壁際にある、何かを覆っている白い布を剥いだ。すると、透明なケースが現われた。ケースの中には赤ん坊が一人寝かせられるスペースに清潔なシートが置かれていた。女性はケースの蓋を開け、何かスイッチを入れ、準備を整えると、真璃杏へ向き直った。「有り難う」
 そう言うと女性は再び赤ん坊を受け取ろうとした。
「わたしがだいちゃだめ?」
 女性が困った顔をした。
「うーん。これから行く天使の家はここから遠いのよ。いくらこの子が軽くても長い時間抱いとくわけにもいかないし……。それにこっちに寝かせた方が、赤ちゃんと一緒に遊べるよ。両手が開くんだから」
「………そうなの? いっしょにあそんでいいの?」
「もちろんよ。ケース越しだけどね。ただし、この子が起きてる時だけよ?」
「うん。ねてるときはあそべないし、おこすのはかわいそう」
「そうよ。真璃案ちゃんは賢いねえ。じゃあ貸して」
「うん」
 女性が赤ん坊をケースに入れた。
「ねえ、真璃杏ちゃん。トイレとか大丈夫?」
 赤ん坊を抱いたまま女性が言った。
「………。マリアン、オムツはいてないの………」
 不安げに真璃杏が答える。
「もし出るようなら、横の公園にトイレあるから先に行っとく?」
「………うん」
「もうちょっとこの子の準備をしたいんだけど、一人で行ける?」
 一瞬固まったが、ゆっくり頷いた。
「この子の準備が終わったら、私も行くから」
「ううん。いい。ひとりでできる。それに、あかちゃんをひとりにしちゃだめなの」
「………。マリアンちゃんは優しいね。あ、オムツあるけどいる?」
「いいの?」
「もちろんよ」
 そう女性が言うと、真璃杏は恥ずかしそうにオムツを受け取り、車を降りた。そしてトトトトっと小走りに、すぐ側にある公園のトイレに入って行った。
 女性は少し思案した。そして、携帯電話を取り出すと、どこかに掛け始めた。それから電話を終えると、赤ん坊を抱き上げ少しだけミルクを与えた。哺乳瓶を口元にやると、勢い良く食いついた。生きる力は強いようだ。綺麗なバスタオルで包んでから、赤ん坊をケース内の真綿のベッドに寝かせ、ベルトを装着した。そして車に鍵を掛けて、急いで真璃杏の様子を見に行くと、丁度真璃杏がトイレから出てきた所だった。
「こなくてよかったのに………」
 そう言いながらも真璃杏は嬉しそうだった。
 初めての人、初めての場所、知らない公園の知らないトイレに一人で行くなど、3歳児にとって不安でない訳がなかった。それでも健気に強がる少女に愛しさを覚え、女性はギュッと少女を抱きしめた。
 車に戻った真璃杏はすっきりした顔をしていた。
 いつも履きっぱなしだったオムツで被れに被れたお尻は蒸れると凄く痒くなって嫌いだった。でも女性がくれたオムツは柔らかくて、とっても履き心地が良かった。
「真璃杏ちゃん、お腹空いてない? 喉とかも渇いてない?」
 少し考えたが、真璃杏は首を振った。
「だいじょうぶ。ちゃんとあさパンたべたの。ママといっしょに。しかもママが1コくれて2コもたべたの。ぎゅうにゅうもこっぷいっぱいのんだし。だからだいじょうぶ」
 真璃杏は嬉しそうに笑顔で答えた。
「そう……」
 女性は複雑だった。母親と朝ご飯を食べることが、そんなに嬉しい出来事だったのか、この小さな天使は本当に嬉しそうに、この上ない喜びを体中で表わしていた。それが彼女にとって母親との最後の食事だったと分かっての発言なのだろうか、と女性は複雑な胸中で真璃杏の笑顔を見た。
「じゃあ、出発するね。でも余りにも赤ちゃんが小さいから休み休み行くね。だから少し時間が掛かると思うけど、途中で辛くなったら遠慮なく言ってね」
 女性の言葉に、現実を思い出したのか、急に真顔になって、真璃杏は返事した。
「うん」
「ごめんね」
「ううん。こんなにちいさいんだもん。むりはよくないの」
「真璃杏ちゃんはホントに優しい子だね。じゃあ、行くよ!」
 3歳と0ヶ月の子供を乗せた車は走り出した。車窓から見える街がどんどん知らない景色になって行く。ゆっくりとしかし確実に車は真璃杏の住んでいた街から離れていった。

  ママ……

流れる街並みを見ながら、真璃杏は呟く。
「ママ、バイバイ」

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