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天獄 第3話

 ここに来てから幾日かたった。
 あれから私は目が覚めたらベッドの上でぼーっと外を眺め、空腹を感じたらカフェでお腹を満たすと、そのままカフェでぼんやり外を眺めたり本を読んだりすることもあれば、部屋でぼんやり外を眺めたり本を読んだり、眠くなったらそのまま寝たりという、なんとも堕落した毎日を送っていた。
 ここでの私の目的、というかここに来る者に求められているのは欲を満たすこと。
これまでにすでに満たしている欲があれば、それはそのままでも良い。しかし更に欲を深めたければ溺れるほど満たしても良い。
 とにかく出来うる限りすべての欲を満たすこと。それがここに滞在するための条件だ。
 欲には様々な欲がある。
 食欲、睡眠欲、性欲、承認欲、生存欲、怠惰欲、感楽欲。
 少なくともブッダが示す七つの欲求くらいは満たすべきだろうか。
 なんとも贅沢な条件だろ?
 その代わり対価は重い。
 けれども、その対価を払ってでも来たくなる場所だ。
 とりあえず、食欲、睡眠欲は満たせれていると思う。まあこれは満たさなければ生きて行けれないのだから、生存欲も満たしていることになるだろうか。更にこれだけだらりとした毎日なのだから怠惰欲も充分満たしているように思えるけど、どうだろうか。
 あとは性欲と承認欲と感楽欲か。案外難しい要求かもしれない。

 眠れない。
 折角睡眠欲は満たされていたというのに眠れなくなった。
 目を瞑って小一時間経とうとしているのに眠れないのだ。窓の外は真っ暗で何も見えない。星が見えたら最高なのにこの日に限って何も見えない。
 怠惰な生活をしていたせいか、脳も体も疲れていない。こんな時はアルコールでもと思って飲んでみたが、なぜか逆に目が冴えてしまった。
 寒い。
 いや、部屋が寒いのではない。心が寒い。
「人肌の温もりが欲しいな」
 こう言えば、どんな物が届くのだろうか。ベッドの中で自分の体温を感じながら待った。
 コンコンとノックの音がし、
「失礼します」
という、消え入りそうな声が聞こえたかと思うと、静かにベッドの中に人肌が現れた。いや、正確には人が入ってきた。柔らかく温かい、肌を出した薄着の女性だ。
 しかし他のスタッフが来た時と同じように顔が分からない。何か被っているという訳ではない。何か本能のようなものが働いているのか、彼女を直視するとこができない。まるで見てはいけないかのように。彼女の顔は影になって見えなかった。間近にいるというのに。
 それでもじんわりと横から伝わってくる温もりはホンモノの人の温もりで温かかった。痩せすぎても太りすぎてもいない。けれど女性特有の丸みと筋肉質ではない柔らかい肉づき。まるで包まれているかのような抱き心地。何か会話するべきなのかもしれないけど、喋る気にならなかった。そういう温もりが欲しい訳ではなかった。ほんわかな人肌を感じていると、次第に眠気が襲ってきた。私は心地よい眠りに落ちていった。
 窓から朝の光が顔に注いで、目が覚めた。昨夜の抱き枕はもういなかった。少し寂しい気もしたが、人間懐炉だから仕方ない。彼女だって人肌抱き枕専門ではないだろう。
 モーニングコーヒーを飲みながら、これが男性だったらどうだろうかと考える。やはりゴツゴツした筋肉質や骨張った肉体は避けたい。寝心地を考えれば、筋肉の少ない脂肪に包まれた体のほうが良いだろうか。男性だと変な気分になるだろうか。女性だから心地良かったのだろうか。
 思考の波は尽きない。
 夜、また人肌を頼んだ。好奇心が抑えられず、今夜は男性を頼んでしまった。とりあえずふくよかな肉付きを求めた。昨夜の彼女みたいに柔肌が良い。
 そう思っているとノックが聞こえて、人が入ってくる気配がした。
「失礼します」
 思ったより低音ボイスの良い声。ベッドに入ってきた彼はぽちゃぽちゃしていた。昨日の彼女よりふくよかかもしれない。それでも望みの柔肌だ。なんとも心地よい柔らかさ。
「触ってもいいかな……」
小声で聞いてみた。
「はい。お好きなように」
 これまた素敵な低音ボイスが耳元で囁いた。
 彼もまた薄着で、大事なところを覆って仰向けに横たわっている。
 私はそっと彼の腕を触った。
「温かい」
人肌とはなぜこうも温かいのか。この温もりが心地よく、気持ちいい。
「あの、ハグして欲しいの」
そう言うと、彼は恐る恐る私の体に腕を回してきた。
「はあ」
 柔肌な人肌の布団だ。これこそ肉布団と言うべきではないか。なんと温かい布団に包まれていることだろう。
「ありがとう」
 そう呟くと、そのまま心地よさの世界に身を委ねた。
 翌朝、やはり彼も目覚めるといなかった。また寂しさが胸をよぎる。
「ああ、甲乙付けがたい」
 彼も彼女も心地よさは変わらない。だけど肉付きはそれぞれだ。それを楽しむのも良いのかもしれない。
 カフェで一日ファンタジックな物語を読みながらそんなことを考えていた。
 夜の帳がまた降りてきた。
 今夜は星空の世界。遮る光もないから、窓から見える星空がくっきり見える。
 実は、この部屋の窓は掃き出しの窓なのだ。窓を全開すると、正にテラスとなるのだ。ベッドに横たわり、開放された窓から夜空を眺める。キラキラと名を知らぬ星座が瞬く。常春のちょうど良い空気が森から部屋に流れ込んできた。
 美しい。
 一人で寝るのがもったいない。
 どうしよう。どちらにしよう。それともまた違う人が来るのかな。指名したら来てくれるのかな。だけど、どうせならアノ低音ボイスが聞きたい。あの声とおしゃべりしてみたい。
「昨夜の男性の人肌さんをお願いできますか。今夜は少しお話するかもしれないんですけど」
 来てくれるかな。人肌さん。
 ドキドキしながら待っていると、5分位してノックが聞こえた。
 彼は昨日と同じようにそっとベッドに入ってきた。
「基本5分なのね。スタッフルームからここまでそんなに離れてるの」
「いえ、お客様の前に出るので、失礼がないようそれなりに身支度がいるのです」
 彼が小声で答えた。その声に耳がうっとりしている。
 柔肌ぽちゃぽちゃな彼は、支持がない限りはベッドで仰向けに気をつけの態勢で横たわっている。彼の温もりがじんわりと伝わってきた。
「そうなの。ねえ、今日は私と一緒に星を見て欲しいの」
「はい」
 彼は私と同じように静かに体を動かしうつ伏せになった。
 私はそっと彼を見た。やはり彼の顔は直視できない。そこだけ影がかかったようになっている。
 でも構わなかった。私は微笑むと、顔を夜空に向けて、星を眺めはじめた。
「ねえ、星には詳しいの」
「はい、まあ。多少はですが。こちらで働いていますから」
 人肌の彼は遠慮がちに静かに答えた。
「そう。じゃあ今、この空で見える星座ってどれ」
「そうですね。まずは分かりやすいものから言うと、北斗七星は分かりますか」
「ごめんなさい、見分けられないの」
 私には夜空を眺めても、ちっとも星座が見えてこない。学校の理科は嫌いではなかったけれど、どうも星と星を結んでいくのが苦手だった。
「では、一番大きな星を探しましょう」
 彼の言葉に促されて、私は星空を見つめた。どの星もキラキラと瞬いている。だけどもよく見るとそれぞれ大きさも光り方も色も違った。
 ホテルの部屋はどれも構造は同じだろうに、不思議と他の部屋の光が漏れて来ない。だから窓の外は真っ暗で、星影もくっきりはっきり見える。
 端から端までじっくり見てやろうと星を一つ一つ確かめるように見ていた。
「今夜は満月ですね」
 隣の彼は私が月に目をやるのを静かに待ってくれた。
「月の近くに大きな星があるのが見えますか」
「ええ、3つあるように見えるけど」
 東の空に真ん丸な月と星がいくつかあった。
「目が良いのですね。月のすぐ隣の明るい星がすばるです。その横が天王星、その少しだけ離れたところにあるのが木星です」
「へえ〜」
「すばる星は1個の星ではなくて、いくつかかたまっている星をまとめてすばると呼んでるんです。星が何個か見えますか?」
 そう言われて目を凝らして、星の塊を見る。
「星が滲んでて、3個くらいしか見えない」
「そうですか。肉眼では6つ見えると言われてるんですよ。実際はもっとあって、100や200はあるんではないかと言われてるんです」
 日本ではすばると呼ばれているが、欧米ではプレアデス星団と呼ばれている。
「へえ〜」
 彼の素敵なボイスで語られる星の物語と彼の温かい肉蒲団に包まれて、私はこの上ない心地よさでいつの間にか眠っていた。
(続く)


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