【短編小説】今日のメニュー
ニャオンと飼い猫のモフが鳴きながら帰ってきた。
雲一つない朝、庭で洗濯物を干していた頼子は、しゃがんでモフを出迎えた。よく見ると、小鳥をくわえている。残念ながらもう手遅れのようだ。
「あら、今日は小さめね。でも自分で食事を捕ってきたんだからエライわ」
モフは頼子の足元で戦利品を器用に前足で挟むと頭から食べ始めた。その様子をぼんやり見てつぶやいた。
「今日のメニューは何にしようかしら?」
バリバリと食む音がする。しばらく眺めていた頼子がにやりと笑った。
つい手を伸ばして撫でてやろうとして、止めた。捕食中は邪魔をしてはいけない。
「おーい」
家の中から夫の昌平が妻を呼ぶ声がした。頼子は大きくため息を吐くと、ハイハイと返事をしながら掃き出し窓から顔を覗かせた。
「あそこの眼鏡を取ってくれ」
夫は居間のソファで新聞を広げている。そして後ろのリビングボードに置いてある眼鏡を指さしていた。
窓の際に立っていた頼子は、夫とリビングボードを二度ほど交互に見た。聞こえないようにもう一度小さくため息を吐くと、突っ掛けを脱いで中に入ると、眼鏡を夫に渡した。
「はいどうぞ」
夫は無言で受け取った。頼子はいそいそとまた庭の物干し場に戻った。
結婚して以来、夫は一事が万事この調子だ。
義母が生きている時は、彼女が大半それに応えていた。頼子は結婚早々にそれを諦め、家事育児に専念してきた。しかし子供たちが巣立ち、義母も亡くなり、数か月前に定年退職してからは、頼子にその役務が重くのしかかっていた。特にパートが休みの日は一日中夫の身の世話をせねばならなかった。
昼下がり、頼子は夕飯の買い出しから帰ってきた。一人なら自転車で行くのだが、自転車に乗れない夫のために夫を連れて車で出かけた。夫はパート以外はどこにでも頼子について来た。それでいて自分で車の運転はしないというのだ。
車を車庫の前で一端止めると、助手席に座っていた夫がスタっと降りて家に入っていった。夫を尻目にため息を吐くと、頼子は車を車庫に入れた。そして後部座席に置いた買い物袋を両手に抱え家の中に入った。
「ああ、疲れた。のども乾いた。汗かいたからエアコン入れてくれ」
夫はソファに座りテレビリモコンのチャンネルボタンを押している。
「はいはい」
ため息交じりの返事をする。そして冷蔵庫から麦茶を出し、コップに注ぐと、ドンと置きたいのを我慢して、そっと夫の前のテーブルに置いた。コップとお茶に罪はない。
夕飯時、二人は四人掛けの食卓に向かい合って食事をしていた。今夜のメニューはサバの味噌煮と麩と長ネギの味噌汁、ほうれん草のお浸しとレンコンとオクラのきんぴらだ。
特に会話をすることもなく、黙々と食べる。頼子は夫が箸を伸ばすたびにちらりとそれを見る。
「小骨があるから気を付けて食べてくださいね」
と言おうとして、グッと堪えた。食事の邪魔はしてはいけない。
ガツガツと食べていた夫が急に咳き込みはじめた。
「あら、あなた大丈夫ですか?」
空になっていたコップに麦茶を注ぐ。
「違うわ。魚の小骨がのどに引っかかったんだ。お前、あれほど魚は小骨まで取れと言っているのに、出来とらんじゃないか」
「あら、ごめんなさい」
夫は魚の骨を取るのが苦手だ。いや、苦手どころか、取ることができない。更に言えば、骨がついた魚はようよう食べられない。これまでは全部義母が取り除いていたからだ。小さな小骨まで丁寧に。
「全く、一体にいつになったら母さんのようになれるんだ」
「すみません。完璧なお義母さんのようには中々なれなくて」
大人になった息子を死ぬまで完璧に世話し続けた義母。頼子は彼女みたいになど、これっぽちもなりたいと思ってもいなかった。
まだのどに引っかかった小骨と格闘している夫をじっと見て、頼子はほくそ笑んだ。
端から小骨なんぞ取る気などなかった。還暦を過ぎた大の大人なら骨のついた魚を食すなど他愛ないことのはずだ。
アタフタしている夫の姿が瞳に映る。頼子はこみ上げてくる笑いを必死でご飯と一緒に飲み込んだ。
「明日はなんにしようかな」
それは妻が夫にする一日一つの小さな復讐メニュー。一人前の大人なら何の問題にもならない、取るに足らないメソッドである。
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