foundling ~見つけられた子供3 私が捨てる~

 ユマは無人駅の改札口に立っていた。

 雪が降る一月の寒空。まだ明るさが残る冬の夕暮れの中、一人待っていた。

「君がユマ、さん?」

 声を掛けられて顔を上げると、20代らしき男性が立っていた。中肉中背の普通のどこにでも居そうな、男性だった。

(やば。やっぱヤバ系のサイトだったかな………)

 しかし、男性の方が困っていた。

「うーん。うち、確かに15歳までと書いてあるけど………、君いくつなの?」

「え? あ、あの14歳です。」

「14歳ねえ………。君はもうこの状況分かってるよね? ここにはお母さんに言われて?」

「………はい」

 嘘だった。しかし親に捨てられたことは事実だ。

「本当に? 自分から来たんじゃないの?」

「本当です。お願いします。連れてってください! もうあの家には戻れないんです。戻りたくないんです。どっちにしろ親には捨てられたんです。本当に家を追い出されて、もう帰れるところなんかないんです」

 ユマは必死だった。どっちみちもう他に行くところなどないのだから。

 男性は、頭を掻いた。

「うーん、家出?」

「違います。追い出されたんです」

「追い出された……うーんまあ、……条件は満たしているんだからいいか。うーん、詳しいことは着いてから聞くことにして、じゃあ…まあ、とりあえずあれに乗ってくれる?」

 困り顔のまま男性はそう言うと後ろを指差した。

 男が指し示された駅前のロータリーを見ると、ボロボロのマイクロバスが止まっていた。車体にはプリントされていただろうどこかの施設の名前が同色のペンキで消されている。

「ごめんね。今日これしか車が残っていなくてね。さあ、好きなところに乗って」

 促されて中に入ると、古くはなっていたが大事に使われているようで、破れたシートは一つもなかった。湯マは少し考えたが、一番後ろの席にリュックを下ろして座った。

 ユマが座ったのを確認すると、男性はエンジンをかけてバスを発車させた。

「この車古いから、エアコンの効きが悪いけど、じきに暖かくなるから少し我慢してね」

 バスは駅のロータリーを抜け、もう二度と見たくない人たちがいる町を走り去った。

 

 母が再婚した当初は、継父も優しかった。十一才だったユマは直ぐに懐き、最初の一年は本当の親子のように仲良しだった。

 しかし、思春期になるにつれ、段々とギクシャクし始めた。小学生の頃と変わらず接してくる両親にユマは鬱陶しさを感じようになった。父親も一番身近な異性ととらえるようになり、戸惑いを感じるようになった。それは年頃の子供にはよくある現象で、とても自然な感情だ。思春期に入ったことに気が付いた母親は当然の事として受け止めた。程よく距離を置いて接するようになったのに対して、継父はよそよそしくなっていく我が子を受け入れられなかった。
 そしてどんどん様子がおかしくなった。ここ一年はユマを見る目付きまで変わった。構ってもらいたいが為のちょっかいがエスカレートしていき、まるでユマが自分のモノであるような言動が見られるようになったのだ。用もないのに彼女の部屋にいきなり入ってきたり、出かける時は執拗に行き先を聞いてきたり、遂には風呂や部屋を覗くようになった。

 ユマが母親に相談しても、邪険にするからよと、取り合ってもらえなかった。

 しかし遂に、継父は暴挙に出たのだ。

 ある母が居ない夕暮れ。自分の部屋で勉強をしていると、珍しくノックの音がした。しかしユマが返事をする前にドアが開き、継父が現われた。

「ちょっと、返事する前にドア開けないでよ。着替えでもしてたらどうすんの」

「ごめん。でもちょっと話がしたくて………」

 最初は話し合いを試みていたようだが、あまりの素っ気ないユマの態度に煮え切らなくなった継父は、いきなりユマの肩を掴んだ。

「おまえなあ!」

ユマも咄嗟に抵抗し、もみ合いになった。しかし、成人男性の力に勝てるわけがない。あっけなくベッドに放り出された。

「イタ!! 何すんの!!」

 圧し掛かってきた継父から必死にもがき、抵抗して暴れているうちに、柵のないベッドから落ちてしまった。しかし打ち所が悪かったのか、落ちた激痛とともに闇へ落ちていった。
 目が覚めた時、既に継父の姿は部屋に無かった。そしてコトは済んでいた。乱れた服と穢れた身体が全てを悟った。下半身の痛みと絶望がユマを襲う。
 横たわったまま薄暗い部屋の床をぼんやり見ていると、階下から物音がした。買い物袋がガサガサ鳴る音が聞こえてはっとした。
 ユマは何も考えずに部屋を飛び出し、急いで階段を降りた。そいて、母親が居るであろうキッチンに入った。

「ママ、ママ。助けて!!」

 母親の姿を見つけ、ユマはそう叫びながら母親の元に駆け寄ろうとして、足を止めた。
 そこには継父も居たのだ。母親のかたわらに立ち、ニコニコと何か会話していた。

「どうしたの、ユマ? 助けてだなんて何かあったの?」

 ユマに気付いた母親が、夫婦の会話を中断してこちらに顔を向けた。そして服が乱れていることに首を傾げた。しかしそのそばで不敵に笑みを浮かべた継父がこちらを見ていた。
 一瞬迷ったものの、継父の顔をキッと睨むとユマは決心して口を開いた。

「あのね、私の言うこと信じてほしいんだけど、………私コイツに襲われたの……」

 ユマの言葉に母親が継父の方に顔を向けた。

「この男に……お」

 犯されたと言い直そうと口を開くと間髪入れずに継父が口を挟んだ。

「嫌だな、ユマちゃん。そんなオーバーな。襲われただなんて……。ちょっと喧嘩しただけだろ?」

「ちょっ、違う」

「ママ、ゴメン。実はさっきユマちゃんと喧嘩しちゃったんだ。それでちょっとだけ取っ組み合いみたいなことになっちゃって……」

「何言ってんの!! この卑怯者。人が気を失ってる間にやったくせに」

「誤解だよ。何もしてないよ。服が乱れてるのは、喧嘩したせいだよ。でもユマちゃんがベッドから落ちて気を失っちゃったのはホントなんだ。それに動転して、ユマちゃんを放って部屋を出たのは悪かったと思ってるよ」

「ママ、こいつの言葉に誤魔化されないで。病院行けば分かることなんだから」

そう言って継父の顔を睨んだ。継父は余裕な顔をユマに見せると、くるりと母親と向き合った。

「ホントに何もしてないって。ママ信じてよ。娘を襲うなんて、僕が可愛いユマちゃんにそんな酷いことするわけないよ。ユマちゃんは頭打って動転してるんだよ。それに、ママのお腹には僕たちの赤ちゃんがいるんだよ。もうすぐ家族が一人増えるんだ」

 そう言うと継父は急に優しい顔になり、母のお腹を撫で始めた。母親もさっきまで怪訝な顔で二人の言い合いを見ていたはずなのに、顔を綻ばせている。

「え……」

 ユマは次なる衝撃を受けて、頭が真っ白になっていた。

「今日は病院に行ってたんだろ? お医者さんは何て?」

「ええ、二ヶ月目に入った所だって」

 話はすっかり妊娠の事にすり替えられ、母親も夫の言葉を信じたかのように嬉しそうに継父を見つめていた。
 取り残されたユマは、何も言うことができなかった。無言で自室に戻って行った。
 年端も行かない十三歳の少女が、経験豊富で弁の立つ継父に敵うはずも無かった。継父の余裕の顔を見れば証拠となるものは残していないのだろう。そういうことさえユマは気付いていない、いや知識すら持っていなかった。
 ただ自分の下半身から来る痛みだけが事実を告げていた。それさえ無ければ勘違いだと自分に言い聞かし、忘れることだって出来ただろう。
 継父が母にした行為と自分にした行為。父の母に対する裏切りと、自分への侮辱。そして母の継父への信頼ぶりと邪魔者扱いの自分。もう何が何だか、何をどうしたら良いのか分からなかった。思考回路がショートした。心神耗弱となったユマはふらふらと部屋に戻り、気が付くと膝を抱えたまま朝を迎えた。

 (あの時、あのままおばあちゃんのところにでも行っとけば……)

 流れるバスの車窓を見ながら、ユマはそう思った。

 バスは駅がある小さな繁華街を抜けると、家も疎らな田舎道を走った。冬の田舎らしく、太陽は田畑が広がる山の向うに早々に没してしまった。徐々に車窓は暗くなり、やがて所々にある街明かりを映すだけで、ほとんど真っ黒になってしまった。
 綿雪が窓に擦り寄ってきた。余ほど外は寒いのだろう、そのまま雪は解けずに、窓に積もっていった。

  あの日以来、なるべく継父と顔を合わせないように過ごした。普段さほど熱心でもなかった部活に精を出し、帰りも門限ギリギリまで遅くした。母には小言を言われたが、妊娠した後ろめたさか、あまり強く言ってこなかった。継父は懲りずに何か話しかけてこようとしていたが、気配を察する度に拒絶して自室に逃げ込んだ。

「あなた。あの子を放っといてあげて。きっと私たちに赤ちゃんが出来て戸惑ってるだけなのよ。それに今はデリケートな年頃だから。そっとしといてあげるのが一番なのよ」

「分かったよ」

 階下から母の言葉が聞こえた。そう言われたら継父だってもう変なことはしてこないだろう。中学を卒業するまでの我慢だと思った。高校は寮がある高校に行こうと考えるようになっていた。

 しかし、事態はそう都合良くは行かなかった。

 例年より遅い、十二月の初雪が観測されたある日。隣県に住んでいる母方の祖母が、一人暮らしをしている自宅で転んで、怪我をしてしまった。
 幸い命に別状は無かったものの、腰を骨折してしまい、一ヵ月の入院を余儀なくされたのだ。

 (あの時、あのままおばあちゃん家に行っておけば、おばあちゃんが怪我をすることもなかっただろうし、私も二度も地獄を見ることにはならなかったのに……)

バスは駅を出てからもう二時間以上走り続けていた。やがてバスは雪の山道を登り始めた。

「もうすぐ着くからね。……山道走ってるけど、そんなに山ん中に行くわけじゃないから!」

 運転手はフォローするように朗らかに声を張り上げた。ミラー越しに目が合ったので、ユマは小さく頷いた。

 グルグルと山道を登って、またグルグルと道を下った。よく見ないと白い雪で見分けがつかない分かれ道があった。バスは山道を逸れて、木々で覆われた小道へ進み、やがて止まった。
 バスのライトに照らされた向うには、山荘のような建物が建っていた。

「着いたよ。ちょっと待っててね」

 そう言うと、運転手は先に降りて、建物の中へ行ってしまった。

 置いてけぼりにされたユマは、仕方なくリュックを背負うとバスを降りようと前へ移動した。そして出口に立って躊躇した。辺り一面雪に覆われていたのだ。バスから建物までほんの三メートル程度だったが、明かりもなくて足元も見えない。シューズを履いた自分の足元を見た。

(こんなに雪が積もるところだと分かってたら長靴を履いてきたのに)

 ユマがそろーっと足を外に出そうとした時、パッと玄関の外灯が付いた。そして、自分の前に、まっすぐ雪が掻き分けられた道が伸びていた。運転手が歩きながら雪を掻き分けてくれたらしい。

「あ、一人にしてごめんね。人手が足りなくてね………」

 そう言って彼はユマのリュックの方に手を伸ばしてきた。

「大丈夫です。これぐらい自分で持てます」

「あ、そう………。ごめんね余計なことして。とりあえず中に入ろう」

 彼はばつが悪そうに謝るとユマを先導するように歩き出した。

 ユマは自分の物言いが少しきつかったかなと反省した。

 建物の中に入ると、そこは広いロビーだった。安っぽいハゲハゲのじゅうたんが敷かれ、小学生の頃宿泊訓練で来た自然の家を思い出させるような、使われなくなった宿泊施設を再利用した感いっぱいな建物だった。しかしちゃんと手入れされているようで、古びてはいたが、清潔感はあった。

「あっちは職員室だけど、今の時間大体無人だから」

 男性が指差したロビーの右手に電気が消された部屋の窓ガラスが見えた。弾性はロビー正面にあるドアを開けた。食堂があるのかと思ったら、長い廊下だった。廊下には窓がなく、両端にドアが幾つか不規則に並んでいるだけで、蛍光灯は点いているのに妙に薄暗かった。

「こっちはリネン室、その隣は洗濯室。向かいのこっちはお風呂とトイレ。あとは倉庫というか物置というか……」

 男性が説明しながら歩く。

 廊下を抜けると食堂に出た。食堂に人の姿はなかった。ただ、食堂の左手にある厨房の奥でおばさんたちが忙しそうに洗い物をしていた。夕食が終わり、皆部屋に戻ってしまった後のようだった。

「ちょっとここに座ってて」

 彼は手近なテーブルを指し、厨房に声を掛けた。

「ねえ、悪いけど何か出せない? この子と僕の分」

「ええ?……その子の分ならあるけど、あんたのはないよ」

 中年のおばちゃんが笑いながら言った。

「そんなあ。お願いしますよ~」

「十分くらい待てるかい?」

「もちろんです」

 男性がくるっとユマの方に向き直った。

「そういうわけだから、少しだけ待っててくれる? ボクはちょっと車を戻してくるから」

 そう言うと小走りで今来た廊下を戻って行った。

 しばらくして、厨房のおばちゃんが食事を持ってきてくれた。

「はい、お待たせ。今日の夕飯の残りで悪いけど、飛び切り美味しいから勘弁してね。フクベ君を待ってたら冷めちゃうから先食べちゃいな」

 おばちゃんがそう言ってくれたところで、フクベという名であるらしい男性が戻って来た。

「あ、ボクを置いてけぼりにしないでよ。今夜はシチューか。美味しそうだなあ」

「大の大人が何言ってるんだい。まだ持ってきたばっかりだから」

 そんなおばちゃんとフクベという男のやり取りが面白くてクスリと笑ってしまった。

 目の前のシチューを口に入れる。

「美味しい」

 思わず言葉が漏れた。

「だろ? ここのおばちゃんの料理は飛び切りなんだ。ボクはおばちゃんが作るご飯が大好きなんだ」

「良く言うよ。そんなにおだててもそれ以上出さないよ」

 おばさんは照れながら、厨房に戻ってしまった。

「えっと、食べながらで悪いんだけど、聞いてくれる? まずボクは服部誠一といいます……」

 服部誠一。服部と書いてフクベと読むんだそう。彼の話では彼はここの施設の職員で、ここはいわゆるNPO法人がやってる民間の児童養護施設なんだそうだ。生活も他の児童施設と大して変わらないようだ。

 彼の話を聞いていると沸々と疑問が湧いてきた。彼の説明が余りにも普通だったが為に、反ってその違和感が浮き彫りになった。

「あの、服部さん。ここはどう見ても普通の児童養護施設にしか見えませんけど、あのサイトは………」

 服部がユマの質問を遮るように言った。

「ここの施設の名前は『天使の家』っていうんだ。子供たちは全国から集ってくる。だからと言ってこの施設は他の施設と何ら変わりはないよ。ただの平凡な、いや民間だけにちょっと貧乏な施設だ。ただ違うのは、入所窓口がもう一つあること。今はネット社会だからね。そちらにも門戸を開いた。ただそれだけの話だよ」

 服部はそう説いた。

 その夜、案内された部屋のベッドの上に横になっていた。
 中学生ということで一人部屋をあてがわれた。ベッドと勉強机しかない簡素な部屋だ。自宅の部屋と比べると狭くて味気ない部屋だ。それでもあの男がいないだけで、ここは天国だった。この夜ユマは久し振りに安心して眠りについた。

 事件が起きたあの日、ユマは油断していた。

 その日、学校が早く終わり部活も休みだったため、いつもより早く帰宅した。家には誰もいなかった。平日だから当然だ。継父は仕事でいなく、母も祖母の付き添いの為に隣町の病院まで出かけていた。

 あれ以来、継父を避け続けているうちに、母親ともギクシャクするようになった。新しい家族が出来ようというのに、家族の輪に溶け込もうとしないユマに母親は苛立っていた。母親はユマの態度はあくまでもお腹の子が出来た事によるものだと思っていた。その誤解が更にユマを孤立させていた。次第に母親の苛立ちは疎ましさに変わりつつあった。

 ユマも母の苛立ちは感じていた。しかしユマ自身も、妊娠した母親にどう接したらいいのか、どう距離を取ったらいいのか分からず戸惑っていた。そしてそれはユマにとって、居心地が悪いものだった。

 そんな最中のことだった。

 誰もいない家は、久し振りに訪れた安らぎの空間だった。ユマは誰にも気兼ねせずに居られる時間を存分に味わうように、文字通り羽根を伸ばしていた。そしてのんびりと寛ぎ、いつの間にかリビングのソファーの上でうたた寝してしまった。

 だが、心地良かった眠りに不快感を覚え、目を覚ました。そしてハッとした。継父がユマの上に圧し掛かっていたのだ。

 部屋は薄暗く、夕暮れに差し掛かっていた。継父の目が窓から入り込んだ夕日に反射して、怪しく光った。

 驚いたユマは必死に抵抗した。渾身の力で抗い、懸命に継父を払い除けようとした。しかしそれも虚しく、ジーンズは剥ぎ取られ、下着も下ろされようとしていた。

「やめて!」

 ユマの声がリビングに響く。

「お前が悪いんだ。お前が俺を拒絶するから」

 継父の一部がユマの体に触れる寸前、恐怖で身体を仰け反らしたその刹那、ユマの視界に何か映った。リビングの入口で人の気配がしたのだ。

 母だった。手に持っていた買い物袋が母の手から離れ、どさりと音がした。買い物袋が落ちる音で継父が振り向いた。継父の顔が引き攣っている。

「何してるの!!」

 ユマは助かったと思った。そして、継父から身体を引き剥がして母の元に駆け寄った。

「お母さん、助けて。あいつが………」

 ユマが母に手を伸ばした途端、無情にもその手は母親自身によって振り払われた。

「触らないで!!」

 ユマは目を見張った。母親はユマを睨み返した。

「ママ………。俺が悪いんだ。魔が指したんだ。ユマちゃんの色香に負けてしまって……」

 継父が母親に縋りつく。母親は無言で涙を流し、自分にしがみ付く夫を睨みながらもその手は払わなかった。

 絶望の闇がユマを襲った。なんとか足を踏ん張り、辛うじて立っていた。

「違う!! あんたが襲って来たんだ!! お母さん信じてこの男がうたた寝している私を襲ってきたの!!」

 必死にユマは訴えた。しかし、

「うるさい。………お前なんて娘でも何でもない。出て行け。この家から出て行け。もう二度と顔を見せるな!」

 母の声が家中にこだました。

 母親に拒否されたユマは現実を受け入れられぬまま、家を飛び出した。

 そして当てもないまま街を歩き、いつの間にか電車に乗っていた。繁華街のある駅で降りると人ごみの中を歩いた。なるべく人が居る道を歩く。一人になるのが怖かった。

「出て行け」
 母の言葉がユマの頭の中でリフレインしている。繰り返せば繰り返すほどに彼女の心をズタズタにするのに、それでもユマはそこから抜け出せずにいた。

 俯き暗い顔で街を彷徨う。

 ポーン

 スマホからメッセージが届いた音がした。ポケットからスマホを取り出そうとして、驚いた。知らぬ間に手にポケットティッシュを持っていたのだ。戸惑ったものの、何も考えずにそれをポケットに仕舞おうとし、不意に手を止めた。風俗か夜の店だったら、働こうかと思い、ティッシュの広告に目を落とした。

 そこには一見風俗広告かと思えるような天使の羽根をモチーフにしたデザインが施された紙に、

“子育てに疲れてしまったら………。子供の顔を見るのさえ嫌になったら………。子供に手を上げてしまったら………。こちらへ。AngelHouse”

と踊るような文字でそう書かれていた。

 再び母の言葉がよぎった。

「ふん、こっちは母親に顔も見たくないって言われたのに………」

 そう呟いてふと考えた。そしてスマホを取り出して、そこにあるQRコードに飛んだ。

 そのサイトの冒頭を見て愕然とした。

“あなたの赤ちゃん譲ってください”

 ユマは近くにあった二十四時間営業のファーストフードに入り、そのサイトを角から角までじっくり調べた。

(ふーんつまりネット版赤ちゃんポストって訳か………。私も捨てられたのと同じなんだけどなあ………。ん?)

 サイトに15歳までという文字を見つけ、ふいにもしやという思いが湧き出てきた。かなり怪しいサイトではあったが、行き先は福祉施設とあったし、もしかしてという期待がどんどん膨らんでいった。

(そうよ、こっちから捨ててやればいいんだ)

 そしてユマはダメ元で送信ボタンを押した。最寄駅に、明日の夕方5時。二十四時間より前だったけど、暗くなる前にしたかった。

 スマホは何の抵抗もなくあっさりと受け付けたことを告げた。

 ホッと息を付いた。そして何か踏ん切りがついた気がした。絶望と不安に駆られていた気持ちがすっと収まり、頭が冴えてきた。

 とりあえず手持ちの小銭でハンバーガーを買い、お腹を満たすと、ユマは一旦自宅に戻ることにした。手ぶらで家を飛び出したことを悔やんだ。できれば家になど帰りたくない。そのままそこで夜を明かしてもよかった。だけどそこへ行くにも準備は必要だ。せめてお気に入りのモノたちだけでも持って行きたかった。

 家に着くと、母親たちはダイニングで楽しそうに食事をしていた。まるで夕方の出来事がなかったかのようだ。

(なんだあいつら気持ち悪い………)

 ユマは鼻で笑うのを堪え、そーっと入口の前を通り抜け、足を忍ばせて二階に上がった。

 祖母に買ってもらった桃色のリュックに、制服や最低限の衣類、お気に入りのボールペン、どうしても置いていく気になれなかった、幼い頃母親に買って貰ったぬいぐるみをカバンに詰めた。

 荷作りが一段落した頃、親たちの足音が聞こえてきた。咄嗟にベッドの下に隠れ、しばらく様子を伺っていたが、二人はそのまま向かいの寝室に入っていった。

 今出て行くより、二人が寝静まった夜中に出て行くほうが懸命だと考えた。自分のベッドの上に横たわり、スマホを弄ったり、マンガを読みながらその時が来るのを待った。

 いつの間にか眠り込んでしまった。いろんな事が一気に起こり、自分が思っている以上に肉体的にも精神的にも疲れていたのだ。気が付くと窓から小鳥の鳴き声が聞こえていた。寝ている間に自分でやったのか、点けていたはずのスタンドライトが消えていた。

 一階から人が動く気配がした。母親が朝の用意でもしているのだろう。

(まずった……)

 またもや家を出る機を逃してしまった。ユマは寝起きでボーっとする頭で、母の気配を窺った。暫らくして寝室のドアの音がして、継父が降りて行く音がした。

 自分がいなくてもあの二人はこうして平然と日常生活を送っている。そんな彼らが滑稽でもあり、残酷でもあった。

 鬱々としそうになる気分を打ち消すように頭を振ると、仕方なく、何も考えなくて良いようにスマホでゲームをしながら時間を潰した。

 七時半。ようやく継父が「行ってきます」と出かけて行く音がした。

 意を決すると、リュックを背負い、普通に部屋を出て階段を降りた。そして、足音を消すことなくそのままリビングのドアを開けた。

「ママ………」

 母はキッチンで朝食の後片付けをしていた。ユマの声でビクっと身をすくめ固まった。無表情だった顔も一瞬で強張った。

「私、本当にこの家出ていくからね」

 ユマの言葉に何の反応もなく、こっちを見ることもなく、母はそのまま固まっていた。ユマは構わず言葉を続けた。

「あの男がいる家なんてもう一秒たりとも居たくない。何処かから何か問い合わせが来るかもしれないけど、来たら適当に合わせといてくれるだけで良いから………」

 それでも母はぴくりとも動こうとしなかった。

「もう私の顔なんて見たくないんだね。もうママには私なんていらないんだね………。私、ママが私の味方してくれなくて、哀しかった………。私のこと信じてくれると思ってたのに………。ママにとって、もう私はママの子じゃないんだね………」

 想いを吐き出すとじっと黙って母を見つめた。母はユマが何も言わないと分かると後片付けを再開した。

 ユマはそれを見て、諦めた。そして身を翻し出て行こうとした。

「ユマ!」

 何故か母が引き留めた。立ち止まったユマが振り返ると、母がキッチンカウンターを指差した。

「あれ」

 そこにはユマ名義の通帳と印鑑、そして母子手帳が置いてあった。

 母親はユマが家に帰ってきていたことも、家を出ようとしていることも分かっていた。夜中、光が漏れている子供部屋に気付いて中を覗いた時、荷造りしてある鞄を見て、全てを理解したのだ。

 母親は、夫と娘がギクシャクしているのは分かっていたし、それがどんどん悪化していったのも感じていた。しかし、何度夫にアドバイスしても、自尊心の強い夫は聞き入れなかった。おかしくなっていく夫を彼女には止める事が出来なかった。自分の子供が出来れば変わるかもしれないと淡い期待を抱いたが、事は最悪の方向に向っていた。もう自分にはどうしたら良いのか分からなくなっていた。

 自分が弱い人間だということは自覚していた。再婚してやっと肩の力を抜けるようになったのに、また重い荷物を一人で持って歩く勇気はなかった。

 彼女は自分可愛さに娘を犠牲にしたのだ。生まれてくる子供と自分の生活の安定を選んだのだ。

 彼女に考えつく、娘を守る最大の方法は、夫から引き離すこと。娘をこの家から出すことしかなかった。娘は祖母のところにでも行かせようと思っていた。しかし娘は自分で行き先を見つけたようだ。その行き先が正しいのか正しくないのかは分からないが、知らないところで成長していく娘を想像すると涙が出た。

 ユマは母の行動が飲み込めずキョトンとしていた。しかしやがてそれが自分への最後通牒だと受け取ったユマは、顔を歪め、バッとそれらを手に取ると、涙を流して家を出て行った。

 

 ユマが施設に来てから二ヶ月近く経った。来た当初、人との接触を避けるように一人自室に篭ってばかりいた。

 最初の頃は学校に来ないユマを心配して友人らからラインやメールが入っていたが、ユマが戻ってこないことを理解すると、ぱったりと連絡が来なくなった。孤独がユマを襲ったが、やがてそれは前の生活から未練を断ち切る事なのだと思うようになった。

 その日も子供たちが隣接の子供園に言ってしまうと、自室で勉強をしていた。三月とは言え、この辺りはまだ日陰に雪が残るくらい寒い日だった。

 表から車の音がした。事前に手伝うよう言われていたユマは下に降りて、玄関入口へ迎えに出た。

 古びたワゴン車から出てきたのは、三歳くらいの女の子とアクリルの保育器に入れられた赤ん坊だった。

「ユマさん、この子お願い。私は赤ちゃんを診療所に連れて行くから」

 運転席から降りてきた白鳥さんがトランクから保育器を取り出しながら言った。

「そっち持った方が良いんじゃないですか?」

「……そうねえ。誰も居ないの?」

「食堂のおばちゃん達なら」

「じゃ、しょうがないわねえ」

 白鳥は一旦保育器をトランクに戻すと、ユマに手を握られている女の子の前にしゃがんだ。

「マリアンちゃん。先にミツルくんをお医者さんがいる所に運びたいの。だから、ちょっとこのまま車の中で待っててくれる?」

 ウサギのぬいぐるみを抱えた女の子は黙って頷いた。白鳥はにっこりマリアンという女の子に笑顔を向けると、トランクに戻った。

「ちょっと待っててね。すぐそこの建物だから」

 ユマも優しくそう言うと、掴んだ手をそっと離してもう一度女の子を車の座席に座らせると白鳥の方に駆け寄った。

 アクリルケースを二人で抱えて歩き出すと、マリアンも車から降りて付いてきた。

「マリアンちゃんはここで待ってて」

 マリアンはぶんぶんと首を振る。

「ミツルしゃんといる」

「………この子、道中で赤ちゃんと仲良くなったみたいで………」

「ま、運ぶだけですから良いんじゃないですか?」

「そうね。じゃあ、大人しく私たちに付いてきてね」

 二人は再び歩き出した。

 運びながら、ユマはケースの中の赤ん坊を見た。

「生まれたて? 生後一週間くらい?」

「生後二日くらいかな………」

「二日!? 昨日生まれたばっかりって事?」

「そう。この子で最年少記録を塗り替えられたわよ。でも、新生児は結構多いのよ」

 白鳥はしかめっ面をした。

「こんなに小さくて可愛いのに………。最低な親ね………」

 二人は施設の南隣にある診療所に保育器を運んだ。その間マリアンは黙って着いて来た。

 診療所では看護師の横山がストレッチャ―を持って出てきてくれたので助かった。

「白鳥先生、直ぐ戻って来てくださいよ」

 白鳥は医師だった。人手の足りないこの施設では、看護師も医師も他のスタッフと同様に施設の仕事を担っている。

 医者としてはこの施設で生活する子供たちの健康管理も然ることながら、ここに初めてやってくる子供たちの心身を診ることが重要だった。元々は小児科と産婦人科が専門だったが、今や心療内科の分野も担えるようになった。

「はいはい。車にまだ荷物が残ってるから………。私が行くまで処置お願いね」

 横山もまた助産師資格を持った看護士だった。

 ユマと白鳥、そしてマリアンは診療所を後にした。

「………その子の母親は、恐らく15歳。あなたと同じ中学生」

 歩きながら白鳥は、さっきのユマの言葉に返した。

「え、15歳!?」

ザグザグと三人の足音が鳴る。近付く天使の家の入口を見つめながらユマは言った。

「かたや14歳で親に捨てられる者がいれば、かたや15歳で子供を捨てる者がいる………」

 何とこの世は無情なことだろうか。

「それでも、ここに連れて来られるだけマシなのよ。この日本でもニュースにはならないまま命を落としてしまう赤ちゃんや子供たちは沢山いるの。私たち、いえ、天使に見つけられたあの子やマリアンちゃん、そしてあなたも、ここで穏やかに生きられるだけマシなのよ。幸せになれる可能性を持ってるんだから。そりゃあ親と一緒に幸せに暮らせることが一番の幸せだけど、親と一緒に居る事が決して幸せとは言えない事もある。それはあなたが一番よく分かっていると思うけど………。ホントは子供だけを救い出すんじゃなくて、その親も、親の方にも助けの手を伸ばせれたら最高なんだけど……。まだそこまでの余裕はないのよ」

「ミツルしゃんはこれからどうなるの?」

 マリアンが白鳥に聞いた。白鳥はマリアンの手を取ると答えた。

「ミツルくんは生まれたばっかりだから、暫らく病院に入院するの。生まれたばかりの赤ちゃんはどの子もしばらく入院するものなの。そこで様子を見て大丈夫そうだったら、そうね、一週間くらいで退院できると思うわ。その後は、隣にある乳児院で暮らすことになるわ」

「ミツルしゃんとはいっしょにおれないの?」

 マリアンはクシャクシャに顔を歪めた。

「ミツル君はまだ赤ちゃんだから、四六時中お世話してくれる大人の手が必要なの。だから一緒には暮らせないの」

 マリアンが目に涙を溜めて、今にも泣き出しそうになった。

「でも大丈夫。ミツル君とはこれからも会えるわ。マリアンちゃんはまだ小さいから、昼間は子供園に行くことになるんだけど、そこは乳児院と同じ建物の中にあるの。だから昼の間ならそこで会うことが出来るのよ。夜寝る時だけ別々になる感じかな」

「ホントに? また遊べる?」

 マリアンの目がぱあっと輝いた。

「うーん、まだ首も据わってないから、直ぐには一緒に遊べないけど、会いに行くことは出来るわよ」

「うん」

 白鳥の言葉を聞いて、マリアンは嬉しそうに歩き出した。

「あの子は親に捨てられたこと分かっているのかなあ。だけどあんなに嬉しそうに笑ってる………」

 ユマはマリアンの弾む後姿を見て、呟いた。

「そうね、あの子はあの子なりに分かっているみたいよ。あなたもあの子を見習って前を向いて歩かないとね。………じゃあ後は宜しくね。私はこの車の片付けてくるから。あ、そうだ。アリアンちゃんも後で医務室に来てね。健康診断を受けてもらわないと。後で呼びに行くから」

 施設の入口まで来ると、白鳥はそう言って車に向った。

 ユマも車から降ろされたマリアンの荷物を取り、マリアンの手をもう一度握った。

「じゃあ、マリアンちゃん。天使の家に行こうか。お家は名前程、綺麗でもメルヘンチックでもないけどね………」

 ユマはマリアンの手を繋いで入口に向って歩いた。

 マリアンの歩調が余りにも無邪気に軽やかなので、ユマまでつられるように、軽い足取りになっていた。そうしていると何だかこれまで鬱々としていた心が少しだけ軽くなった気がした。

(私だけじゃない。私よりもっと小さなこの子でさえ、健気に笑っている。私はマシなんだ。私は親に捨てられたんじゃない。こっちから出てきてやったんだから。私が親を捨ててやったんだ。この子達に負けてはいられない。絶対あいつらより幸せになってやる)

 そうユマは自分に誓い、天使の家に入って行った。

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