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【短編小説】「線引きすることの難しさ」~教育現場のキジュン~

体を冷やすのはいけないが、暖か過ぎるのも良くない。

「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」

何事も度が過ぎるのは良くない。

うまくいったものだと、つくづく正義は思った。

吉野正義(よしの まさよし)、37歳。

30歳を過ぎて教職の世界へ飛び込んだ。

頭がボーっとして、教務主任の話が入ってこない。

カーテンが閉められ、電気が消された部屋に、プロジェクターの光と2台のストーブが明るく見える。

放課後、多目的室で行われているのは、絶対評価研修会だ。

つい最近、絶対評価が導入され、教員自身も戸惑っている。

規準(のりじゅん)と基準(もとじゅん)の違いなんてどうでもいいじゃないか」

「鎌倉幕府の特徴を理解して、適切に知識を身につけている」が評価規準

「知識・理解は、点数が8割以上でA、5割でB、3割以下はC」が評価基準

規準は目標で、基準は評価の具体的な目安といったところだろうか。

9教科を5段階で評価したものが、生徒個人の「人としての評価」に関係がないと、正義は思っている。

ただ一部の人を除いてだ。

その一部が、正義の父である昭雄だ。

昭雄は昭和20年代に生まれた団塊世代である。

高度経済成長の後押しもあり、婦人服を作る事業で富を築いた。

現在では婦人服は、人件費の高騰で、中国どころかベトナムで生産されている。

まだ日本で婦人服やベビー服が生産されてた古き良き時代だった。

事業では成功した昭雄だが、彼には一つ欠点があった。

学歴だ。

昭雄は高校を卒業して、小さな婦人服を作る会社に勤めた。

しばらくして独立して、自分の会社を興した。

欠点といっても、本人が思う欠点であって、高卒でこれだけの事業を成功させたのは大したものである。

昭雄は学期末、息子である正義の通知簿を確認して、一喜一憂するのが楽しみだった。

正義が生まれた時点で、有名な四年制大学へ進学させるという野望が昭雄にはあった。

正義本人の能力や適性には関係なく。

おかげで正義は私立中学校を受験するために、小学5年生から塾に通わされた。

「鉄は熱いうちに打て」というのが昭雄の信念だ。

ところが、なんでも小さい頃からやれば成功するとは限らない。

世の常である。

正義は紆余曲折しながら、なんとか公立中学校の教員になった。


ふと隣の佐々木先生を見ると、静かに寝息を立てている。

カーテンで隠された窓の外から、ソフトテニス部の掛け声が聞こえる。

資料に目を落とそうとした時、ドアを叩く音が聞こえた。

教務主任の声が止まり、ドアの方向に視線が集まった。

「卓球部の秋田です。吉野先生お願いします!」

カーテン越しにも聞き取れる大きな声、正義はイスから立ち上がった。

「こんにちはー!」

ドアを開けた正義に気づいたソフトテニス部の部員たちが、一斉に挨拶をする。

多目的室から一歩出た正義は一瞬、首をすくめた。

外は風が強くて気温以上に寒い。

ウインドブレーカーを着た秋田が立っていた。

「先生、塾があるので早退します」

秋田は、3年生の引退にともなって卓球部の新キャプテンに選ばれた2年生。

「お、おう、気をつけて」

正義は踵を返して席に戻った。

すぐに室内の陽気に包まれ、まぶたが重くなった。

「生きたままロブスターを茹でることがイギリスで禁じられるかもしれない。」

通勤電車の中のニュースアプリで見た記事を思い出した。

ロブスターだけでなく、タコやイカにも苦痛を感じる知覚があるというのだ。

オーストラリアの原住民であるアボリジニをハンティングとして虐殺した「ブリカス」ことイギリスのニュースである。

ブリカスとは、大英帝国として三枚舌外交やアヘン戦争などの人権を無視した政策を行ったイギリスを揶揄したネットスラングである。

思い出しただけで吹き出しそうになるのを正義は我慢した。

正義は社会科の教員であり、高校の「地歴」「公民」の免許も持っている。

「The Most Dangerous Animal in the World.」

「世界中で最も危険な動物」

ブロンクス動物園にある鏡の間に書かれている言葉である。

鉄格子の向こうに鏡があり、通りかかった人を映し出す。

山崎豊子氏の『沈まぬ太陽』を読んで、正義は鏡の間の存在を知った。

あの時の背筋がゾッとした感覚を思い出した。

世界で最も危険な動物は人か。

腑に落ちた気がした。

相対評価が絶対評価に変わろうが、キジュン次第。

キジュンによって対象の評価が変わる。

キジュンを決めるのは結局、人。

キジュンが問題なのではなく、その人次第でどうにも変わるのはないか。

物事自体は変化せず、人の見方や解釈が変わっただけではないか。

選挙権が18歳に引き下げられたことで、社会科には「主権者教育」が求められるようになった。

線引きが難しいとは、まさにそのことだ。

選挙権を何歳から与えるか、ロブスターを生きたまま茹でるか、殺してから茹でるか。

結局、ロブスターは食べられる運命にあるには変わらない。

「生きているのか死んでいるのか」について、養老孟子氏の話を思い出した。

正義は養老孟子氏の大ファンである。

斜に構える養老氏の切り口が、正義にも通じるところがある。

正義は小さい頃から教師が嫌いだった。

そんな正義が教職の道に進むようになったのは、父の昭雄の影響だ。

「死亡診断書は医師が基準に従って書くが、生きていても口がきけない人、手足が氷のように冷たい冷え性の人もいる」と養老氏はいう。

絶対だと思われる「死」のキジュンだってあいまいなものなのだ。


いつの間にか教務主任の説明は終わっていた。

「保護者から苦情が入れば、いつでも説明できるようにしておいてください」と遠藤校長の声で正義は我に返った。

教員たちのためなのか、校長自身の保身のために言っているのかは分からない。

多目的室に集められた教員たちは、重い腰を上げてぞろぞろと職員室へ列を作った。

ホッチキス止めの資料を持ったまま、正義は寒い体育館に向かった。

体育館のもう半面を使っているバレー部のサーブをよけながら、奥の卓球部のところへたどり着いた。

3年生が引退した新卓球部が、もくもくと練習メニューをこなしている。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。(中略)世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」

体育館は変化しないが、卓球部もバレー部も3年生が引退して、新チームになっている。

無常、変わらないものはないのか。

部員や評価キジュン、正義自身も変化していることに改めて気づかされた。

「生老病死である四苦を受け入れなければいけない。昔の人はそれを覚悟と言った」

養老氏の著書に書いてあったことだ。

「変化を受け入れる覚悟」か。

正義は体育館のパイプ椅子に腰をおろした。

数日前、対教師暴力の件で、遠藤校長は「学校として被害届は出せない」と言ったのを思い出した。

「じゃあ、被害教員ではなく、校長個人で被害届を出せばいいやん」

成績の説明責任と同時に、保身の権化のような遠藤校長の大きな顔が頭をよぎった。

校長は、生徒や地域、職員のためと、口では言うが、覚悟ができないのではないか。

つまり、本当は生徒のことなんて思ってもないのではないか。

正義のキジュンでは、「校長は死んでいる」と思えた。

遠藤校長の心臓や呼吸は止まっていないし、瞳孔も開いている訳ではない。

しかし、変化をせず、現在に生きていないという姿勢が、すでに死んでいるのではないかと思えたのだ。

そう考えると、一見生きているように見えても、死んでいるような人は、意外とたくさんいるような気がした。

「集合ー!」

正義を中心として扇形に部員が集まった。

「吉野先生、ありがとうございました」

そう言ったのは、新しく副キャプテンになった黒石だ。

先日行われた3年生の引退試合の帰りに、疲れた部員の顔を見た正義は、コンビニで人数分のジュースを買い与えた。

黒石に続いて、他の部員もそれぞれ感謝の言葉を述べた。

もちろん校則で買い食いは禁止されている。

生徒が自分で買うのは当然ダメである。

では教員が買い与えるのは。

キジュンは常に変化する。

そもそもキジュンすら問い直したくなるブラック校則なるものもある。

部員たちが練習できる環境をサポートしてあげるのが顧問の仕事であり、努力にねぎらいの言葉をかけてあげるも大切な役割である。

人は最も危険な動物であることを自覚しつつ、常に常識を疑い、変化を受け入れなければいけない。

感謝を伝える部員の顔には、遠藤校長と違って「生きている」という実感があった。

年明けには、新チームで迎える初めての大会が待っている。

部員一人ひとりに、到達度目標である大会への目標を発表させた。

正義は、絶対評価のキジュンを部員自身に決めさせたのだ。

キジュンは時代や人次第でいくらでも変化する。

アボリジニをハンティングしていた国が、ロブスターの知覚について議論している。

キジュンだけでなく、常識や前提自体を問える生徒を育てようと、正義は誓った。

少なくとも、生きながら死んでいる遠藤校長のような人にはしたくない。

そう考えながら、遠藤校長に父である昭雄も重なって見えた。

歳を取るということは、肉体の変化ではなく、情緒的に成熟することだ。

遠藤校長や父の昭雄は、反面教師といったところだろうか。

ある意味、考える教材として使える。

「ありがとうございましたー!」

ミーティングが終わり、部員はそれぞれの卓球台へ戻って行った。

体育館の時計は18時前を指していた。

真冬の体育館は、底冷えするが、部員の熱気で寒さは感じなかった。

練習メニューを見ると、残りのメニューは「ゲーム」だけだ。

体育館にピンポン玉の音だけがリズムよく響ていた。


※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません。


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