人は鏡。

 
 「あー、もう最悪!」

夕方。仕事が終わり、同じ早番のシフトに入っていた先輩と同僚と三人で、少し早めの晩御飯に来ていた。二人は、いつものように仕事の愚痴を吐き出し始める。

「さんざん試着して一着も買わないってどんな神経してんの」

「あのハデな女でしょ。見た目ハデなわりにケチですよねー」

先輩の愚痴に、同僚が同意する。先輩は「ほんとだよ」と吐き出した。

「…試着して、サイズ感見て、ネットで買うんじゃないですか?」

一応、そう言ってみる。

「それにしたって、うちの店の売り上げになんないじゃん、迷惑なのは変わんないよ」

「…まぁ、そう、ですね」

確かにそうだ、と思い、同意した。

「ていうか、あんたも大変だったじゃん」

「え?」

「ほら、おっさん客の相手させられてたじゃん」

「…あぁ」

その日、お店に娘へのプレゼントを選びに来た男性がいた。その人は女性向けアパレルブランドの知識がなかったため、二人で相談しながら長い時間をかけて娘へのプレゼントを選んだ。

「あれだけの時間あったら、もっとたくさんお客さん対応できたのにね」

先輩がそう言う。日曜日の書き入れ時。もっとたくさんのお客さんを相手に出来れば、もっと売り上げとれたはずだ。そのことを悔やんでいるのだろう。

「今時ネットで調べられるんだから、下調べぐらいしてこいっつーの、ねぇ?」

「…そう、ですね」

そう言って、同意する。しかし、娘へのプレゼントを自分の苦手な分野の店で選ぶお父さんを、そこまで言わなくてもと思った。


 「これ、どうします?」

同僚がスマホの画面を見せる。先輩は「こんなもん、売れるか!」とスマホをはねのけた。その反応に、同僚が笑う。

 少し前に入荷した、新商品のマフラー。色がピンクとブラックの二色あり、若い女の子向けのこの店で、ピンクは人気で売れ行きが良いのだが、ブラックは一つも売れていなかった。決してダサいデザインではないのだが、店の顧客と合っておらず、このままでは値引きで販売することになるのは目に見えている。

「上のやつのセンスはどうなってんの、ほんと」

そう言ってグラスを手に取り、アイスコーヒーを一気に飲み干す。そして、店員さんにおかわりを頼んだ。


 その後も、先輩と同僚の愚痴は止まらなかった。職場の愚痴から派生して、別の同僚や、自分の彼氏への不満まで漏らし始めていた。

 この状況はいつもの事なのだが、どうしても、好きになれない。

「ごめん、お手洗い行ってくるね」

居心地の悪さに耐えきれず、そう言って席を立つ。「いてらっしゃ~い」と見送ったあとも二人は悪口を吐き出し続けた。


 トイレの洗面台。鏡に映った自分を見る。

「…ひどい顔」

自分の疲れ切った顔に、そうつぶやいた。

 「じゃ、またお店でねー!」

 食事会が終わり、解散する。同僚たちは、愚痴をこぼし悪口を吐き出し、ストレスを発散して晴れやかな顔で手を振った。それに、小さく手を振り返した。

辺りは、すっかり暗くなっていた。

「…はぁ」

溜息を一つ吐いて、帰り道を歩き出した。その足取りはまるで、吐き出されたストレスを全部背負ったかのように重たかった。

「…あれ」

ふと気が付き、辺りを見回す。全く見覚えのない景色だった。駅に向かって歩いていたはずだが、迷ってしまったようだ。ぼーっとしていた自分を反省する。

「駅、どこだろ」

駅へのヒントを探して、当たりを歩き回る。

「…なんだろ」

その時、一軒の店が目を惹いた。どうやら雑貨屋のようだ。少し大きな窓から中の様子を伺う。店内は、優しく光って明るかった。

その光に誘われるように、店内に入った。

 「いらっしゃいませ」

出迎えたのは、若い男性の店主だった。店主は、おしゃれなティーカップを丁寧に磨いていた。「あ、」と小さく頭を下げる。

店内には少しのお客さんがいたが、とても静かだった。さっきまで耳障りの悪い言葉の飛び交う空間にいたからか、とても居心地よく感じた。

「ごゆっくり、見て行ってください」

 そう言う店主に、「あ、はい」と曖昧に返事をする。

そして、小さな店内を歩きながらゆっくりと見て回る。

「…鏡がたくさんありますね」

店主にそう言う。店内には、色んな鏡がたくさんあった。店内が明るいのは、このたくさんの鏡のおかげだと気づく。

「そうですね」

店主が笑顔で頷く。

「鏡って好きなんです。優しいですから」

店主のその言葉に、少しの面白さを感じた。確かに、店内を照らしている光は、とても優しかった。

「どうぞ、手に取って見てみてください」

「あ、はい」

 たくさんの鏡を、ひとつひとつ手に取って見る。店の鏡のデザインは様々で、女性が好みそうな物から、ビジネスマンの男性のカバンにあっても不思議でないような物もあり、また、小さな女の子が気に入りそうなおもちゃのような鏡もあった。それらを見ていくのは、とても面白く楽しかった。

 ふと、一つの鏡を手に取る。折りたたみ式で、カバーを開くと自立させられる四角い鏡。カバーは明るめの赤色なのだが、光沢のない材質がその赤を大人っぽく見せていた。そのカバーを開く。

「…あ」

小さく、声が漏れる。

「どうかされましたか?」

店主が聞く。

「いや、ちょっと、この鏡に映った自分の顔が、なんか、いいなって」

その鏡に映った自分の顔は、なんだか良く見えた。さっきトイレの洗面台の鏡で見た顔とはだいぶ違う気がした。

「…あ、なんだ。なにか不備があったかと。それなら良かったです」

店主が安心したように笑う。

「…私、変なこと言いましたね」

さっきの自分のセリフに、少し、恥ずかしくなる。

「自分が大好きな、ナルシストみたいですよね」

「いえ。きっと、その鏡とお客さまの顔の相性がいいんだと思います」

その一言にも、面白さを感じた。

「…鏡に、相性なんてあるんですか?」

「確証もありませんし、科学的な根拠みたいなのは知りませんが、たくさんのお客様と接してきた経験として、そう感じています」

「そうなん、ですか…」

もう一度、赤いカバーの鏡を覗き込む。やはりちょっと、良い表情に見えた。

「人と人みたいなものだと思います」

店主の一言に、「え?」と返す。

「人と人も、根拠なんかないですけど、相性ってありますよね」

「そう、ですね」

そう頷く。今の自分には、よく響く話だった。

「…何か、ありましたか?」

店主がそう聞く。面白い事を言うこの店主に、話してみたくなった。

「職場の、人間関係ってやつです」

「あぁ、なるほど」

「別に、みんなが嫌いな訳じゃないんです。普通に働いてる分には問題ないんです。むしろ、向上心とか、仕事に対する熱意とか、尊敬できる部分もあって。でも、例えば、仕事終わりのごはんとか、女子同士のランチとか、そういう仕事以外の時間が、少し苦痛で」

「そうでしたか」

「話してる内容が、人の悪口とか職場の不満、愚痴、そんなのばっかりで。同僚たちの、嫌な部分がたくさん見えてしまって」

「それは、聞いてる方はツライですね」

「でも、」

「はい」

「職場の愚痴とか、上司の悪口とかは、言ってる内容に共感する部分もあって。私自身も、職場に不満もありますし、嫌いな上司もいます」

「当然ですよ」

「だから、そうやって共感してる私は、今のみんなみたいに嫌な人間なんじゃないかって、不安になるんです」

「そうですか…」

店主が頷く。

「その人たちといるときの自分自身は、どうですか?」

「…どう?」

「好きですか?嫌いですか?」

「…あまり、好きじゃありません」

「なら、大丈夫ですよ」

「え?」

「人は鏡って言います。その人たちといる自分が悪く見えるなら、鏡が悪いんです」

その言葉に、少し安心する。しかし、新たな不安も出てきた。

「…じゃあやっぱり、仕事を変えた方がいいんですかね」

その不安を吐露する。仕事は好きだ。出来るなら、そうしたくない。

「そこまでしなくて、大丈夫だと思います。忘れなければ」

「…何をですか?」

「自分の好きな顔をです」

そう言われ、また、赤いカバーの鏡を見た。

「仕事が好きなのであれば、きっと、仕事中は良い顔をしているはずです。だから、その顔を忘れなければ、大丈夫だと思います」

「…そうでしょうか」

「はい。それに、もしかしたら職場にも、あなたをもっと良く見せてくれる鏡があるかもしれません」

店主が言う。そう言われると、不思議と大丈夫な気がしてきた。改めて、赤いカバーの鏡を覗き込む。この鏡に映る自分は、好きになれそうだった。

「この鏡、買います。お守りに、持っておきます」

「ありがとうございます」

赤い鏡を買って、店を出た。雑貨屋の優しい光を、少しすくって持ち帰ったような、そんな気持ちになっていた。


 次の日、お店に立つ。レジカウンターの内側に、昨日の赤い鏡を置いた。その鏡を覗き込む。

「よし」

そう呟いて、仕事を始めた。

 

 夕方、一人の女の子が店を訪れた。学校帰りなのか、学生服を来ている。

 女の子は、店内を歩き回り色んな商品を手に取ってみるが、なかなか目当ての物が見つかっていないようだった。

「何か、お探しですか?」

そう声をかけた。

「あの、無理ならいいんですけど」

「はい」

「もう少し、落ち着いた感じのってあったりしますか?」

「大人っぽいのがお好みですか?」

「今まで、ずっとかわいらしいのを身に着けてたんですけど、ちょっと、挑戦してみようかなって。春から、大学生になるし」

「そうなんですね」と微笑む。

「では、こちらなんていかがですか?」

そう言って、新入荷のブラックのマフラーを案内する。

「あ、かっこいいかも」

女の子が笑う。

「黒は、今まで選んだことがないです」

「当ててみますか?」

「挑戦してみます」

そう言い、女の子は黒いマフラーを首に巻き、姿見の前に立った。その隣に並び、小さなズレを直してあげた。

「いかがですか?」

二人で並んで、姿見を覗き込む。

「どう、思いますか?」

鏡越しに目を合わせ、女の子が聞き返してきた。

「とても良く似合ってると思います、本当に」

そう答える。お世辞ではなかった。女の子の可愛らしい顔が黒のマフラーに包まれ、とても綺麗だった。

「とても綺麗です」

そう言うと、女の子は「えへへ」と笑った。その笑顔は、年相応に可愛らしかった。

「おねーさんも、可愛いです」

「え?」

そう言われ、小さく驚く。女の子が、「ごめんなさい、変なこと言って」と恥ずかしそうに笑った。

「でも、なんか、いい顔してるなぁって思って」

そう言われ、姿見を見る。鏡に映る自分の顔は、好きになれそうな顔だった。

「このお仕事、好きなんですね」

「はい、大好きです、この仕事」と頷いた。

「私も、そんな顔ができる仕事に就きたいです」

「きっと、見つかりますよ」

女の子が微笑んだ。

「このマフラー、ください。お守りにします」

「ありがとうございます」

二人でレジに向かい、会計を済ませる。商品を持ち、店の出口まで見送る。


 「ここに買いに来て、良かったです」

「ありがとうございます」

そう言って、マフラーの入った袋を渡す。

「私も、おねーさんみたいないい顔で働ける仕事を探します」

「きっと、見つかります」

そう言って、微笑みかける。

「それに、私をこんな顔にしてくれたのは、お客様です」

女の子が嬉しそうに笑った。

「また、来ますね」

「はい、また是非。お待ちしています」

「ありがとうございました」と頭を下げて見送る。女の子の背中は、嬉しそうだった。


 女の子を見送り、店内に戻る。ふと、店に置いた姿見が目に入った。姿見に映る自分の顔は、あの赤い鏡に映るような、良い顔に見えた。

「この顔、忘れないでおこう」

そう、心に刻んだ。

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