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好きな人:M.エンデ 笠井叡 M.グレイヴス

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  • 『君たちはどう生きるか』ネタバレ感想

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『黒の過程』あるいはメランコリーの技法としてのレヴィ=ストロース

レヴィ=ストロースの講演録『モンテーニュからモンテーニュへ』を読んで、レヴィ=ストロースの他文化への眼差しのなかに、ルソー、そしてモンテーニュという基準点があることを知りました。 宗教改革とルネサンスという価値観が大きく揺らぎ、混沌とした時代を経て生まれたルソーとモンテーニュという人たちの思索が、第二次世界大戦とホロコーストという混沌に直面しつつ構造人類学を立ち上げたレヴィ=ストロースの参照枠であった、ということに惹かれるものがあります。 モンテーニュの己自身への懐疑、そ

    • ネタバレ感想「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」

      映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』観ました。 良くできたエンターテインメントであり、良心的に作られた「アニメ版鬼太郎」の誕生譚だと思います。 その中で、ひとつ気になるところが出てきました。 作中でおこる連続殺人事件で、繰り返し「片目を傷つける」という描写が出てきます。これはいったい何を意味しているのでしょうか。 「目玉のオヤジ」とかけている?まさかね。ということで、これについて考えていきたいと思います。 さて、この殺人事件を現象として本質直観致しますと(冗談です。)それは「見

      • レヴィ=ストロースについてのメモ4

        レヴィ=ストロースとベイトソンを巡って ベイトソンのいう「精神」の基準である差異と、レヴィ=ストロースのいう音韻論的な差異は、もちろん大きく隔たっているのだろう。 しかし一方で、二人が交錯するところもまたあったようだ。 たとえばレヴィ=ストロースは『構造人類学』において、ベイトソンとマーガレット・ミードの研究『ナヴェン』に言及している。 このことは、ベイトソンが論理階型という言葉で表した関係の水準の問題を、レヴィ=ストロースが構造という言葉で記述していたということだと思

        • レヴィ=ストロースについてのメモ3

          檜垣立哉「レヴィ=ストロースの哲学的文脈」(『構造と自然』所収)におけるいくつかの論点 ・サルトルの『弁証法的理性批判』との対比 「人間中心主義者」サルトルとその弁証法的理性による革命への志向に対比されて、レヴィ=ストロースは「非人間中心主義者」、人間の「溶解」を語る論者となっている。人間の溶解とは、 これは、図式としてそのまま『構造人類学』における歴史学と人類学の区分に、そして『今日のトーテミスム』におけるベルクソンについての議論と「同型」であるとされる。 ・ ドゥ

        『黒の過程』あるいはメランコリーの技法としてのレヴィ=ストロース

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        • 『君たちはどう生きるか』ネタバレ感想
          8本

        記事

          レヴィ=ストロースについてのメモ2

          ヤコブソン『音と意味についての六章』 レヴィ=ストロースは、本書の序文の中で、ヤコブソンのいう音素という概念が、いかに自分の神話素という概念にパラフレーズされていったかを説明している。 ヤコブソンは前半で「音素」が、それ自体は示差的で消極的であり、記号ではない(置き換えるものがない)が、そこから意味を生み出すものであるその特異性を説明している。 そして後半、ソシュールの言語についての考え、「言語はリニアルである」そして「言語は恣意的である」を批判している。 リニアルにつ

          レヴィ=ストロースについてのメモ2

          レヴィ=ストロースについてのメモ

          ドゥルーズ「何を構造主義として認めるか」 のなかの、レヴィ=ストロースへの言及箇所 第一の基準:記号界(le symbolique) 第二の基準:局所あるいは位置 第三の基準:微分と差異 第四の基準:分化させるもの、分化すること 第五の基準:セリー 第六の基準:空白の枡目 最後の基準:主体から実践へ 以上、レヴィ=ストロースについて言及された箇所を抜き出した。微分的関係についてはもうちょっと理解が難しいけれど、レヴィ=ストロースの「浮遊するシュニフィアン」がヤ

          レヴィ=ストロースについてのメモ

          補足:愛憎相半ば(『君たちはどう生きるか』ネタバレ感想6.5)

          大叔父のことについて、考えたことがあったのでもう少し。 大叔父の思惑について自分は、その「閉じた世界」の犠牲的な側面について触れてきました。これに関して基本的なところで変更はないのですが、 ツイッターでとある方(ご了承頂いてないので、とりあえず匿名)で、本作の好きなシーンとして、ヒミが落ちていく石たちを見て「大叔父様、ありがとう」というシーンを挙げていらしたのを見ました。 うん、ありました。確かに。この「ありがとう」の意味について、考えないといけないなと思いましたです。

          補足:愛憎相半ば(『君たちはどう生きるか』ネタバレ感想6.5)

          遊びについて(『君たちはどう生きるか』ネタバレ感想6)

          友達について書いたならば、遊びについて書かなければなりません。 積み木・積み石? まず全体の枠組みとして、大叔父がこの閉じた世界をコントロールするものとして使っているのは積み石です。それはこの塔に掛けられた魔法であると同時に、なんと玩具染みているのでしょう。にも関わらず、大叔父は真面目そのもので、石を僅かにずらし「これで一日は持つ」と言っています。 大叔父はマヒトにこの積み石を継がせたい訳ですが、その行為はなんと遊びのない、孤独な作業なのでしょう。(「三日に一回積みなさい

          遊びについて(『君たちはどう生きるか』ネタバレ感想6)

          友情について(『君たちはどう生きるか』ネタバレ感想5)

          我に返って思うのですが、前々回あたりから、読解が思い入れの強い感じになってますね。読みを補填する根拠も、想像でつなぐものが多い感じになってきております。 児童文学者・宮崎駿 その中でも今回は特に、主観性の強い読みになっております。自分の中の強い仮説は、宮崎駿監督が「児童文学」をアニメにおいて遂行しようとする希有な児童文学者であり、私小説的な作家ではない、ということにあります。つまり、作品はすべてどこかしらのところで、「子ども宛に作る」という、宛先を中心に作られていると言っ

          友情について(『君たちはどう生きるか』ネタバレ感想5)

          石と血脈、あるいは流れ星と心(『君たちはどう生きるか』ネタバレ感想4)

          謎の呈示 この作品で石にまつわる領域は、最も抽象性が高く、かつ扱いの難しいものになっていると思います。なぜ石は敵意を持っているのか。墓の門にはなぜ「ワレヲ学ブモノハ死ス」(付記:「コレヲ」ではなく「ワレヲ」だと教えて下さいました。謹んで訂正します。キタローさんありがとうございます。)と書かれているのか。なぜナツコはあの塔の「産屋」にいかなければならなかったのか。「産屋」に入ることはなぜ禁忌なのか。通路をとおった先にはなぜ、アオサギが「自分もここまで入ったことはない」という領

          石と血脈、あるいは流れ星と心(『君たちはどう生きるか』ネタバレ感想4)

          閉じ開き(『君たちはどう生きるか』ネタバレ感想 3)

           機会を得て二回目を観ることができました。 「境域」「結界」は、児童文学ではよく出てくるものだと思います。例えば家、例えば庭は、それ自体が一つの結界をなしていて、その圏域のなかで何かが育まれるということ。守りであり、魔法のかかる領域であると言えます。 作品の中で煙草ー「火」と関係づけられるキリコさんは、とりわけ結界や境界に関係づけられているように思います。扉を閉じ、石の悪意に晒されそうになる主人公に結界を張ることですね。 また同時に、「仕事としての殺生」を表す存在でもあり

          閉じ開き(『君たちはどう生きるか』ネタバレ感想 3)

          石と鉄(『君たちはどう生きるか』ネタバレ感想2)

           宮崎駿監督作品『君たちはどう生きるか』についてまだ考えています。前回空のものと海のもの、火のものと水のもの、という二項対立と、その三項関係がいかに物語を駆動しているか、ということについて書きましたが、その中で第三項としての「石」について扱うことが難しく思えておりました。  糸口と思えたのは、「悪意に染まっていない石」という大叔父の発言でした。 悪意に染まってない石がお守りとして主人公に残される、では「悪意に染まった石」というのはなんでしょう?  そこで二つの場面がうかん

          石と鉄(『君たちはどう生きるか』ネタバレ感想2)

          舞踏のこと

          大学自体のある時期、はじめて舞踏を観て魅了された。 笠井叡、大野一雄、山崎広太、田中泯、櫻井郁也、それまでエンターテインメント作品や物語しか追えないような惰弱な読者/観客だった自分が、そのあまりの強度と存在に圧倒され、いやむしろ吹き飛ばされ巻き込まれてしまったのだ。 舞台の上で、「ある」こと。身体運動の上手さやドラマとはまったく別の次元が切り開かれていたのだった。 ダンス観ることは、受け取ることではなかった。彼らのダンスの一部になることだった。彼は舞台に立っている。立っ

          舞踏のこと

          田中泯と器官なき身体、というお話を書きたいんだけどいつも資料を忘れる。

          田中泯と器官なき身体、というお話を書きたいんだけどいつも資料を忘れる。

          インデックスとしての(追補:「君たちはどう生きるか」と神話論理)

          ここからはまったくの余談。いや、作品からみたら最初から全部余談なのですが。 「君たちはどう生きるか」を基準のお話として立てることで、今までの宮崎駿の作品は、それぞれがお互いにヴァリエーションであるような一連のお話のまとまりとして味わうことができるのかもしれません。 例えば『もののけ姫』においての「タタラ場」と「石火矢」とはなんだったのか、  原初の水ー森としてのシシ神の「生きるー死ぬ」という循環に、「死なないので生きない」ものが介入しておこる不可逆な変化としての歴史、

          インデックスとしての(追補:「君たちはどう生きるか」と神話論理)

          神話論理(『君たちはどう生きるか』ネタバレ感想1)

           家族で宮崎駿監督「君たちはどう生きるか」を観ました。「心理的な盛り上がり」「カタルシス」が奇妙に欠けているように見え、それがエンターテインメントとしての失敗に見えてしまう危険を持っている一方、その操作が意図的な、巧妙な回避なのではないかと感じてもいます。  宮崎駿がコンテを描きながら呻吟している場面は、他作品のドキュメンタリーで繰り返しうつされるところではありますが、彼が苦しみながら、「脳の蓋を開けて」紡いでいるものが、全くの混乱・混沌であるとは思えないのです。 そこには

          神話論理(『君たちはどう生きるか』ネタバレ感想1)