見出し画像

ネタバレ感想「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」

映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』観ました。
良くできたエンターテインメントであり、良心的に作られた「アニメ版鬼太郎」の誕生譚だと思います。

その中で、ひとつ気になるところが出てきました。
作中でおこる連続殺人事件で、繰り返し「片目を傷つける」という描写が出てきます。これはいったい何を意味しているのでしょうか。
「目玉のオヤジ」とかけている?まさかね。ということで、これについて考えていきたいと思います。

さて、この殺人事件を現象として本質直観致しますと(冗談です。)それは「見る/見られることの否定」であろうと思われます。
「見られること」は一義的には犯人である沙代が、どのように龍賀家のなかで受けていた眼差しなのであろうと思います。それは欲望の眼差しであり、軽蔑の眼差しであり、この土地に沙代を縛りつけるものなわけですね。これは広い意味で権力にまつわる「邪視」であると言っていい。

さらに広げていくならばそれは、水木が葬儀の場に現れた時の参列者の余所ものに対する視線、「死んでいいもの」として兵卒を眼差す上官の視線へとつながっていくのではないでしょうか。

見ることによって、人物を特定の対象として拘束する。それへの拒絶が、「目を潰す」という行為に現れているといえそうです。

「見ること」は、見るー見られるという二者の関係の有り様を表す、というのは、それ自体は一般的なことなのでしょうが、この映画では特に、目線が合わせているか、背を向けているか、すれ違っているか、そのような演技を非常に自覚的に入れている作品であると考えられます。

「片目で生きているくらいが丁度いい」、そんなことをゲゲ郎が言ってましたでしょうか。

おそらく多く話題になっているであろうゲゲ郎と水木の関係も、そのような「見られ合う」ことによってあらわされていると感じます。

(自分はこの二人は、水木しげるのなかの、「戦争によって地獄を見た人」と「人間の愚かさを外部から見ている人」をそれぞれ表しているように感じますが)

ではどういう関係なのでしょうか。ある意味では鏡面のようでもあり、背後を見合う存在のようでもあり。作品の中でも推移していくように思えますが、互いが互いを「これは過去の自分だ」と見る瞬間があったのではないでしょうか。水木が村人によるゲゲ郎の私刑を止める場面では、水木の過去がオーバーラップされます。これは「人から死んでも構わないとされた自分」をゲゲ郎に見ている。そしてゲゲ郎は水木に「おぬしにもいつか大切な人があらわれる」ということを言うのですね。これは岩子に会う前の「大切な人のいない自分」を水木に見ているということになるでしょうか。見ることで互いを映し出し、並走する存在としての二人の関係は、逆説的に未来の自分を見る行為でもある。そんな風に読むこともできそうです。