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舞踏のこと

大学自体のある時期、はじめて舞踏を観て魅了された。

笠井叡、大野一雄、山崎広太、田中泯、櫻井郁也、それまでエンターテインメント作品や物語しか追えないような惰弱な読者/観客だった自分が、そのあまりの強度と存在に圧倒され、いやむしろ吹き飛ばされ巻き込まれてしまったのだ。

舞台の上で、「ある」こと。身体運動の上手さやドラマとはまったく別の次元が切り開かれていたのだった。

ダンス観ることは、受け取ることではなかった。彼らのダンスの一部になることだった。彼は舞台に立っている。立っているのは、私の代わりに立ってくれているのだ。踊りーをー観るー瞬間、その彼を観ているのはこの私だけであり、その瞬間は二度とない。

彼等の書く言葉にも憧れた。彼等は比類なき書き手だった。カラダの裡を凝視するものは、必ずコトバの外部をも見つめることになるのだろうか。

いつのまにか、他の作品やテクストの中にも、「踊っている」ものが目につくようになったのかもしれない。ある種の標のようなもの。即興的なもの。たとえば間章がそうだろうか。前田英樹がそうだろうか。ベルクソンが、ドゥルーズ がそうなのかもしれなかった。この人達は踊っている。

身体論に幻惑された。一時期に立て続けに出た齋藤孝や内田樹は、確かに何某かを指し示しているようには思えた。しかし問題は「論」、「について」なのではないのだろう。踊りなら
踊りが成立するためのコトバ、カラダ「観」なのである。

「器官なき身体」というアルトーの用語がある。説明を読んでも、わかるようなわからないようなことだと思う。

身体を、あるヒエラルキーに秩序づけられた機能として捉える方法がある。よく出来た機械としての身体。精神に従属する身体。

アルトーがそのようなものへ敢然と反逆したことはわかるように思う。操作の前、秩序づけられる前の身体が取り出されようとしているのではないか。

舞踏におけ身体もまた、そのような操作の対象ではないのだろう。身体と精神が、互いを食い合うような。

田中泯の『脱臼胴體』という舞台を思い出す。四肢ではなく胴体の脱臼とはなにか。脱落し外されたものが、カラダとしてそこにあった。

だから、というわけではないのだが、踊ろうと思っている。