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レヴィ=ストロースについてのメモ

ドゥルーズ「何を構造主義として認めるか」
のなかの、レヴィ=ストロースへの言及箇所

第一の基準:記号界(le symbolique)

ときに構造主義は解釈的である。すなわち、記号というカテゴリーから出発して解釈を更新し、そこにおいて、言葉が形成され、作品が仕上げられ、観念と行動が結びつけられる原点を発見しようとするときである。p.60

ドゥルーズ 「何を構造主義として認めるか」

第二の基準:局所あるいは位置

レヴィ=ストロースが正確に名指すように、構造要素には、方向=意味以外のものはない。方向=意味は、必ず「位置」だけに関わる。p.61

構造主義が科学的に志すのは、量的なものではなく、トポロジカルで関係的なものである。レヴィ=ストロースは絶えずこの原理を掲げている。p.62

第二の帰結は、構造主義が、ゲームと演劇、ゲームと演劇の空間を好むということである。レヴィ=ストロースがしばしばゲーム理論を参照してトランプを重視するのも偶然ではない。p.64

第三の基準:微分と差異

数学的な隠喩が問題にされているのではない。各領域で、要素、関係、点を発見する必要があるのだ。レヴィ=ストロースが親族の要素的な基本構造を研究しようとするとき、考慮されるのは、社会の現実的な父だけではないし、当社会の神話として流通する父のイメージだけでもない。レヴィ=ストロースが発見しようとするのは、親族の真の音素、言い換えるなら、親族素、位置の単位である。これは、微分的関係から独立して実在せず、微分的関係に入り込んでそこで相互に確定される。p.68

レヴィ=ストロースは、オイディプス神話を例にとって、物語の特異性(オイディプスは母と結婚する、父を殺す、スフィンクスを葬る、足腫れと呼ばれる等々)から出発して、相互に確定される神話素の間の微分的関係(過大評価される親族関係、過小評価される親族関係、土着の否定、土着への固執)を帰納的に引き出す。p.68

レヴィ=ストロースは、態度が呼称から派生するということ、しかし態度は呼称には還元されないということ、この二重の面を強調していた。p.69


第四の基準:分化させるもの、分化すること

構造についてはこう語られるべきである。現働的ではないがリアルであり、抽象的ではないが理念的でありと。それゆえに、しばしばレヴィ=ストロースは、構造を一種の理念的な貯蔵庫や目録として提示している。そこでは一切が共存するが、現働化は必ずや排他的な方向に沿って生じ、いつでも部分的な結合と無意識な選択を含んでいる。ある領域から構造を引き出すことは、当の領域の存在者、対象、作品に先んじで実在する共存の潜在性を確定することである。p.71

レヴィ=ストロースは正しくこう語っている。無意識は欲望でも表象でもなく、無意識は「いつでも空白」であり、無意識が表象と欲望に課す構造法則だけからなっている。p.76

第五の基準:セリー

レヴィ=ストロースは、トーテミズムの研究を取り上げて、想像の観点から解釈される限り、トーテミズムは正しく理解されないということを示した。というのは、想像は、必ず自らの法則に従って、トーテミズムを人間や集団が動物に同一化する操作と見なすからである。しかし、記号的には、まったく別のことが問題になる。一方には、微分的関係の要素として把捉される動物種のセリー、他方には、それ固有の関係の内で記号的に把握される社会的位置そのもののセリーがある。「差異の二つのシステムの間」で、要素のセリーと関係のセリーの間で、照合がなされることになる。p.78

第六の基準:空白の枡目

そして、レヴィ=ストロースは、ある点では最も実証的な構造主義者であり、最もロマン主義から遠く、逃げ去り遠ざかる要素を歓迎することなど最もありそうにない人であるが、そのレヴィ=ストロースでさえも、「マナ」とその類例において、「浮遊するシュニフィアン」、構造内を循環するゼロ記号が存在すると認めている。このゼロ記号は、ヤーコブソンの音素ゼロにつながる。音素ゼロは、それ自体としては何の示差的特徴も何の音価ももたないが、音素ゼロとの関係において、すべての音素は固有の示差的関係の内に捉えられる。p.86

最後の基準:主体から実践へ

こうして、主体はいつでもノマド的であり、個体化を通じて形成されるが非人称的であり、特異性で形成されるが前-個体的である。フーコーが「散乱」を語るのはこの意味においてである。そして、レヴィ=ストロースは主体の審級をただ対象の条件に依存するものとして定義することができた。対象の条件の下で、真理のシステムは可換になり、したがって、「同時に複数の主体にとって受け入れ可能」となる。p.94


以上、レヴィ=ストロースについて言及された箇所を抜き出した。微分的関係についてはもうちょっと理解が難しいけれど、レヴィ=ストロースの「浮遊するシュニフィアン」がヤーコブソンの「音素ゼロ」につながっているとドゥルーズが読んでいることか気になる。