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神話論理(『君たちはどう生きるか』ネタバレ感想1)

 家族で宮崎駿監督「君たちはどう生きるか」を観ました。「心理的な盛り上がり」「カタルシス」が奇妙に欠けているように見え、それがエンターテインメントとしての失敗に見えてしまう危険を持っている一方、その操作が意図的な、巧妙な回避なのではないかと感じてもいます。

 宮崎駿がコンテを描きながら呻吟している場面は、他作品のドキュメンタリーで繰り返しうつされるところではありますが、彼が苦しみながら、「脳の蓋を開けて」紡いでいるものが、全くの混乱・混沌であるとは思えないのです。
そこにはドラマというよりはファンタジーの、丁寧にいうならば児童文学の、内在的な論理のようなものが背骨のように通っているのではないでしょうか。

 同じことを『ハウルの動く城』を観た時に思うことがありました。最後の方に至っていわゆる「ドラマ」は解体していく。観客の心は置き去りにされてしまう。しかし、そこにはなんらかの論理、一貫性に貫かれていて、それが不思議な領域に人を浸していくようだなどと。

 さて、自分はそれを「ファンタージェンの文法」、「こころの底で動くロジック」「魔法」「世界の約束」なんぞとと呼んだりしていました。なんかある。でもそれが何なのかよく分からない。「ユング心理学の弁証法的過程」というのも近いでしょうか。確かに、アオサギはトリックスターのようである。そういうことはできますね。

 しかし、檜垣立哉『バロックの哲学』、清水高志『空海論/仏教論』、渡辺公三『レヴィ=ストロース』なんかを読んで、特に後期のレヴィ=ストロースの仕事に触れるなかで、一番近いのは「神話論理」なのでは?と思うようになりました。

 すこしざっくりとした説明をします。雑すぎるので詳しくは上記の本をお読み下さい。言葉による概念というのはそれ自体二項対立を含んでいて、西洋の学問というのも基礎づけに、何がしかの二項対立を据えざるを得ない。例えば、「主観と客観」「エネルギーと物質」「シュニフィアンとシュニフィエ」「ノエシスとノエマ」なんかがそうですね。その際に、この二つが重なっているポイントを作るという操作をする。つまり主観であり客観でもあるものを使ってその底を食い破るようなロジックを立てる。アリストテレスの「思考の思考」、ロマン主義ードイツ観念論の「反省」というものもそう。互いを否定し合うようなゼロポイントを設定して、そこからすべてを説明していく。

 しかし、物語る論理、神話の論理は、そのような操作をしない、言葉である限りは二項対立を作るが、そこに第三項を置く。第三項は他のものと対立項を作るから、そうしたら最初のものをこの対立項の第三項として設定する……、そうやってぐるぐると回して「底」を作らない図式にするのが、神話の論理なのだと。

 例えば「生のもの」=食べられないもの「火を通したもの」=食べられるもの、という二項対立が置かれた時に、これの第三項として「生だけど食べられるもの」=蜂蜜と、「火を通しているけど食べられないもの」=煙草が設定されて、この蜂蜜や煙草が次のお話を進めていく、動きを与えていく、ということになりましょうか。

 さて、ここで「君たちはどう生きるか」に戻ります。この中には、非常にクリアーな形で二項対立が提示されます。

 例えば 死んだ母ー生きている義母、という対があります。
(この二人は姉妹であり、優秀な婿を家に繋ぐ為に妹が結婚したわけですね。これは実際に戦争下でよくあった話だと聞きます。)

 冒頭で母ー空襲による焼死が提示され、ここで、死せる母ー火ー空、という系列がひとつできあがります。
 そして、母に似た義母は子を孕んでいて、産む母ー水ー海、という系列が並べられ、対比されているようになっていますね。

 この死ー火ー空の系列は、例えば火を通して作り出される鉄ー武器と連関しています。矢を作る、というのがそうですね。煙草飲みである老人と老婆もまた、武器を作るのに協力者してくれる、鉈を持ち魚を捌く存在として再度現れる。また例えば軍需工場によって豊かさを得ている父親の職業のことは、「戦闘機のキャノピー」として暗示される。鍛冶屋にいる剣を持つオウムたち。

 逆に産むー水ー海の系列は、池、「溶けていく水の女」、釣られる魚、原形質のようなフワフワ達によって展開されていく。
 この中でこの二つは行ったり来たりを繰り返している。ヒミの火は命を殺める、キリコのナイフは魚を殺めるけれど、それによってフワフワは人になる、というふうになっています。

 さて、この系列に共に属する存在がひとりいます。「アオサギ」です。非常に印象的なアオサギが魚を呑むシーンがあります。そしてアオサギ男はサギの中から出てくる(魚)。アオサギは空のもので水のもの、嘘つきなのに、嘘をつき続けるという意味で正直者。二つの系列を行き来する存在なのだろうと思います。主人公は、アオサギの羽を矢にして、自分のものにするのですね。

 逆に、空のものでも海のものでもないもの、があります。石です。大叔父ー隕石ー閉じた世界というものがここにもうひとつ提示されます。これはいうならば「死んでいる」あるいは「生まれない」に位置するものではないかと感じます。墳墓と産屋は、石に位置している。なので産屋にいる義母は、子を産めず、母になれないのです。

 主人公が願われるのは「石の世界を継ぐこと」、逆に主人公の選択は「義母をお母さんとして連れて帰ること」です。その時に「死んでいる」「生まれない」ものに対しての拒否と通過が必要なのではないか、というのが、この話の核なのではないでしょうか。その時に「自分は自分で自分を傷つけた」ということを認めることがその通過ー選択となるのは、つまり無垢ではない、有責な存在としての自分を受け入れる選択だからなのではないでしょうか。

 ここまで書いてきて、綺麗に謎のピースがはまる、解けるということはなかったですね。この作品の奥深さや秘密が、さらに深まったように感じています。皆さんはどうご覧になりましたか?

 何度も観たいと思っているので、とりあえずはここまで。また、何か気づいたら書きます。