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遊びについて(『君たちはどう生きるか』ネタバレ感想6)

友達について書いたならば、遊びについて書かなければなりません。

積み木・積み石?

まず全体の枠組みとして、大叔父がこの閉じた世界をコントロールするものとして使っているのは積み石です。それはこの塔に掛けられた魔法であると同時に、なんと玩具染みているのでしょう。にも関わらず、大叔父は真面目そのもので、石を僅かにずらし「これで一日は持つ」と言っています。
大叔父はマヒトにこの積み石を継がせたい訳ですが、その行為はなんと遊びのない、孤独な作業なのでしょう。(「三日に一回積みなさい」)これではまるで賽の河原のようではありませんか。マヒトが「これは木ではないです」とわざわざいうのは、なぜなのでしょうか?

さて、結局この積み石は、インコ大王(オウム、と間違えて書いておりました。以下謹んで訂正いたします。ご指摘くださったTaröさんありがとうございます。)介入、乱雑に積み上げて、上手くいかなかったら打ち壊す、ということによって破壊されます。

大叔父の作業のような、孤独な重々しさ、そしてインコ大王の破壊的な性急さは、いずれも二人の「遊べなさ」と言っていいかもしれません。壊れる、終わる、ということも、真剣さや慎重さも、ともに遊ぶためには必要なものだからでしょう。塔という閉じた世界の不健全さは、ある種の硬直性や遊びのなさとしても現れています。
大叔父の描かれ方にある種の物悲しさがあるのは、宮崎監督自身が自分の遊べなさを見つめているからなのでしょうか。作家自身との結びつけをあまり安易にはしたくないのですが、この部分についてはそんな想像も起こってきます。

インコたちの演戯

 インコたちは石の中に閉じ込められ、どうやら彼ら自身の社会をつくり、その中で生活しているようです。インコが人間の言葉を模倣するものであるとしたら、ここでは人間の振る舞いの模倣をしています。他の生き物の命を奪うその残酷さまで。
 インコ大王とインコたちのやりとりは、誇張され戯画化されているようにすら見えます。本人達は至って真剣であるのに。まるで冒頭の戦車を見送る人間達も、あなた達もインコのように振る舞いを真似ているのではないですか、と尋ねられているようにも思えます。

アオサギの存在

もうひとつこの作品にユーモアを与えている存在として、アオサギがいます。彼とマヒトの関係は、まさに不気味な敵から、抜け目のない出し抜き合う関係を経て、助け合う関係にまで変化していきます。口喧嘩のようなやり取りは、彼らがそれを楽しんでいることが分かるものです。
マヒトが動かすなと言われるお婆ちゃんたちの人形=結界を少しずらして外へ出ると、そこにアオサギが居ます。結界がずれるという行為さえも、マヒトの心の弛みとして回復を暗示しているのかもしれませんね。アオサギはたえず、マヒトの心の変化、次の展開を引き起こす存在なのでしょうか。

嘘と本当

印象深いシーンとして、アオサギとマヒトがキリコさんを前にして、「クレタ人の嘘つき」のような問答をするところがありますね。これ自体もひとつの遊びではあります。『不思議の国のアリス』を思い返させるところでもありますね。

この場面で言われていることを言い換えるならば、「嘘は、それが嘘であることによって逆説的に本当のことを示す」ということになるでしょうか。

ドイツの作家であるミヒャエル・エンデは、嘘と芸術について、こう書いています。

「ピカソはこう話したことがあった。『芸術が真実とまるで関係ないことはみんな知っている。芸術は嘘、わたしたちに真実を見せてくれるーーかもしれないーー嘘なのです」。これは極端な言い方だけど、正しい。(中略)
 芸術と文芸が最上の意味で遊戯と内なる類縁関係にあるとすれば、芸術家と詩人はすべてをーーおぞましいことも愛しいことも、俗なることも聖なることも、馬鹿げたことも至高の真実もーーひとつの遊戯に変える。そしてこの遊戯は芸術家や詩人には真剣なことなのだ。」

ミヒャエル・エンデ「世界を説明しようとする者への手紙」『エンデのメモ箱』

「芸術は嘘である」。そして嘘であるが故に真実を映し出すかもしれない。これは外の現実、現代の子どもたちの生きる世界を、イメージの世界に変換しようとしてきた、宮崎駿監督の仕事を表してもいるように思います。

閉じた世界の中では、意味は積み上がってしまって、もうもたなくなってしまう。飢えがあるのかもしれません。そんな時は、実は嘘や破壊が解放、動きをもたらしてくれる、ということもあるのでしょうか。

食べる・つくる

「遊ぶ」ではないのですが、この作品には繰り返し「食べる」場面と「作る」場面が出てきますね。母親と一緒に食卓を囲む場面、お婆ちゃん達と一緒に食べる場面、キリコさんの作る料理、そしてヒミと一緒に食べるパン……。そして彼はそこで、お母さんと食べたパンのことを思い出すのでしたね。

「一緒にご飯を食べること」の意味について考えたくもありますが、むしろそこに命や物質が、言い換えればエレメントが参与していることに注意を向けたいです。

それは釘を尖らせる、木を切り出す、羽根をくっつけるなどの「つくる」場面の提示の異様な丁寧さともオーバーラップしています。ひとは火や水や、木や土、石などに取り巻かれ、それを加工し、食べ、加工して生きている。子どもの「遊び」もまた、その営みと地続きな形で行われるものではないでしょうか。マヒトが食べたり、つくったりしているときの表情や動きをみると、営みのなかて、マヒトの生きるリアリティが、回復していることが伝わってきます。

お付き合いくださりありがとうございました。
次書けるなら、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』と時代への意識について書きたいです。